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次の日の朝。
いつものように目を覚ました。
いよいよ、私が逃げ出す日が来た。
何かやり残した事や、しなければいけない事は無いかな。
そんな事を思いながら、いつも通りに起きだして、いつも通りに丁香が持ってきてくれた朝食を食べる。
うう、味がしない。
珊瑚は、ちゃんとあの蔵から鞄をぬす……持ちだせたかな。中身は着替えとか大した物じゃないのしか入ってないけど、環木が無いと予定に支障をきたすし。
朝食を食べ終え、いつも通り丁香が後片付けにくる。
「丁香さん。今日も朝から市場に行きたいのですが、飛燕をよんでもらえますか」
丁香は、おや? という顔をした。ドキッと、心臓が跳ねた。
が、丁香は素知らぬ顔で、
「かしこまりました。主人は、今日昼には戻ってくる予定です。お出かけになられるなら、早い方がよろしいかと」
そう言って、丁香はさっさっと朝食を片付けて部屋を出ていった。……有能なメイドさんが味方?で良かったぁ~。
急いで、自分の支度を済ませる。
最近は、こちらの着物も一人で着れるようになっていた。構造としてはそんなに違わないから、理解は早かったと思う。
着替え終わったあと、敷物の下に隠していた、先生から借りた本を取り出す。中身をパラパラとめくり、獣避けの札があるのを確認し、安堵した。高価だし、私の想定ではこれが必要になってくるハズだから。
そっと、着物と着物の合わせの隙間に本を滑り込ませて、見えないように隠した。
トントン
と、丁度その時、扉がノックされた。心臓がもう1回ドキッと跳ねた、が、努めて平静を装い、
「どうぞ」
と、声をかけた。
「お嬢さん、また支度に手間取ってんのか」
入ってきたのは、慶珂だった。
肩に入っていた力が一気に抜け、無意識に深い溜息を吐いていた。
「な、なんだよ」
慶珂が、ちょっと驚いたような顔をする。ので、つい笑ってしまった。
「いいえ、なんでもないの。支度は出来たわ。さ、行きましょ」
慶珂は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は突っ込んでこなかった。本当に、慶珂で良かった。
最後に、忘れ物が無いかだけ、後ろを振り返って確認する。……思えばここにも、長く居たような気がするし、あっという間だった気もする。
連れ去られて、どれだけ居たかもう定かにはわからないし、思戯と交換して貰った短剣も、もうどこにあるのかわからない。ここにあるのは間違い無いだろうけど、ついに聞けなかった。思戯、無事かな…。
服も、生乾きだったけど環から持ってきたちょっと良いやつが、行方知れずだ。捨てられてても仕方ないのかもしれない。私も今着てるこれ、借りパクしていくようなものだし。おあいこってことにしてほしい。うん。罪悪感は、ちょっとある。
感傷を振り切るように、私は扉の方を向いた、
一歩踏み出す。
二歩、三歩と足が進む。
そうして私は、自分の足で扉をくぐり、外に出たのだった。
丁香に見送られるかと思ったが、忙しいメイドさんは出てこなかった。
その方が、良い。挙動不審になりそうだから、私が。
屋敷の外に出ると、丁香に頼んでいた通り、門の所で飛燕が待っていた。
ぼんやり待ってる彼は、はじめて見た時と同じようにも見えるし、ちょっと違っても見える。なんでだろう。
飛燕は、私達に気づいたようだ。
「おはよう、珠香さん、慶珂」
「おはよう、飛燕」
「おはよーさん」
一通り、いつも通りの挨拶を交わす。今日は、馬車を呼んでいないようだ。
「それじゃあ、行こうか。今日は歩きだけど、良いかな」
「もちろんよ」
「ああ」
飛燕の言葉に頷き、私達はいつも通り連れ立って門を出て、市場に向かって歩き出した。
歩き出し、色の屋敷が見えなくなったところで、もう一回大きなため息が出た。
飛燕が、ちょっとびっくりしたような顔で、私を見る。
「どうしたの?」
無意識すぎて自分に苦笑してしまったが、飛燕を安心させるように、
「ちょっと、安堵しちゃって」
そう言った。
「まだこれからなのに?」
「俺の時も、でかいため息吐いたんだぜ、お嬢さん。驚くよなぁ」
飛燕が呆れたようにつぶやき、慶珂が茶化すように声をかけた。慶珂の言葉に、飛燕が苦笑した。
「飛燕は、すごく普通よね」
いつも通りの事を、いつも通り気負いなくこなせる飛燕。凄いなあと思ってそう言うと、こてんと首を傾げた。
「そうかな? これでも結構、緊張してるんだよ」
表情が全く読めないこの子は、本当に大物だなあと、思った。
そんなこんなで、いつも通りなんてことない雑談をしていると、いつの間にか市場の入り口に着いていた。
はじめて見た時と、同じように活気あふれる異国情緒満載な、魚市場。
ここでの事、本当に楽しかったなあ。
少しの間、私がしんみり感傷に浸っていると、
「どうしたの、珠香さん。置いて行くよ」
前の方から、声がした。
慌ててそちらの方を向くと、慶珂と飛燕が、少し先で私を待っているようだった。
危ない危ない、感傷に浸ってまた迷子になる所だった。ここで迷子になったら全部の計画が台無しだ。
急いで、二人の元に向かう。
「ごめんごめん」
「ううん。それで、前に行った茶館に二人がいるの?」
合流してそうそう、飛燕が聞いてくる。その言葉に私は頷いた。
「そうなの。だから、そこで合流して船に向かいたいの」
飛燕が歩き始めたので、その横を歩きながら言う。飛燕はわかった、と頷いた。
そこからは、少しだけ慶珂を交えて雑談しながら歩いた。わりとすぐについた。
茶館に入り、キョロキョロ見回すと、春陽と珊瑚がいた。
いつも通りに、優雅に茶を飲みながら、まったりしている二人。気負いとか、緊張とか全く感じないのは、場数なのか他人事なのか。机の下にある、見た事ある大きめの袋を、チラリと見やる。
「お待たせ、春陽、珊瑚さん」
「ああ、珠香。おはよう」
「おはよーさん」
手を上げる春陽達に近づき、円卓に座った。
正直、今飲食したい気分じゃないけど、注文しないと変よね。
そう思って無難にお茶を注文した。飛燕と慶珂もそれぞれ飲み物を注文し終えたら、店員さんが離れていった。
「珠香。言われてた酔い止め、買ってきたぞ。店主が、船に乗る前に飲めって言ってたから、今飲んだらどうだ」
春陽が、小袋を私に差し出してきた。それを受け取りパッと開いてみると、粉薬が入っていそうな、小さく折りたたまれた包みが出て来た。それが、三つ。一日三包かな? 一回三個?
私が戸惑っている事に気づいたのだろう、左右から声がかかった。
「それ、一個で一日ぐらいは効くよ」
「とりあえず一包飲んでみ。すぐ効くえ」
やっぱり、飛燕と珊瑚だった。
そして、言った本人達はお互いに顔を見合わせていた。
「すごいね、えっと、珊瑚さん。この近くの人だったの? この薬、よそには全く知られてないみたいだけど」
飛燕が、子供特有の無遠慮さで、珊瑚に聞いた。私ですら、珊瑚の訛りには気づいていたけど、あえて突っ込まないようにしてたのに。
飛燕に聞かれた珊瑚は、うふっと笑った。
「せやで。色家の坊ちゃん。でも、アタシより坊ちゃんの方が、なんや複雑みたいやない?」
ジャブにボディーブローを返す珊瑚、さすがすぎる。飛燕の秘密も珊瑚の過去も、私には聞けない…っ。だって重そうだからっ。
珊瑚にそう言われた飛燕は、ちょっと面食らった顔をした後、苦笑した。この女性にその話を振ってはいけないと、気づいたようだ。
「そうでもないよ。あ、珠香さん、お茶きたよ」
うまいぐあいにお茶が来たので飛燕が誤魔化し、珊瑚もそれを追求しなかったので、それでお終いになった。
そして私は、この得体の知れない粉を、飲むことになるのか。
包みを開けてみる。細かく砕かれた、何とも言えない色をした粉。明らかに、まずそう。だが、良薬は口に苦し、とも言う。こちらでもおんなじような言葉があるし、効きは良さそうだ。
うぅ、女は度胸だ。
店員さんが置いたお茶の位置を確認し、そっとその包みを片手で持ち上げる。そして斜め上を向き、さーっと一気に粉を口の中に流し込んだ。
最初は、無味だった。結構量があるな、と思った次の瞬間、口の中いっぱいに苦さが広がった。
慌てて、包みを持っていない手でお茶を探しあて、とりあえず全ての粉を口に含んで、ガッと一気に水分で流し込んだ。ごくごくと適度にぬるくなったお茶と一緒に、飲み下す。
口の中が粉っぽくなくなるまで流しこんでいたら、お茶がまるっと一杯なくなった。
慶珂が心配そうに、自分の前にあるお茶を差し出してくる。ので、それを目で制した。
「あーーーっ。苦い」
はーっと息を吐き、言葉を同時に吐き出す。まだ、じんわり口の中に苦さが残っている。久しぶりに、こんな強烈に苦いの飲んだ。
「はい、お疲れさんやったねえ。苦かったやろ」
珊瑚が、ニヤニヤしながらも労わってくる。知ってたな。
そんな珊瑚に、苦笑だけ返す。
だが、後味は苦いだけじゃないこれ。ちょっとスッとする成分も入ってるみたい。ただ、どういう原理かわからないけど、口を開くと苦いのが強く戻ってくる。勘弁して。
「さ。珠香が飲み終わったなら、そろそろ立とう。あんまりゆっくりもしてられないんだろう?」
自分の前にあったお茶を飲み干し、春陽が立ち上がった。そんな春陽を見て、各々立ち上がる。私も。
「それじゃあ飛燕殿。案内を頼む」
春陽の言葉に、飛燕はまかせて、とやんわり微笑んだ。
店を出ると、外の通りはさらに活気にあふれていた。
その中を、迷う事なく飛燕はスイスイ進んでいくので、ついていく私達は一苦労だ。
私はというと、一番危険だというので、飛燕の服の裾を掴んで歩いているが、それでもちょっと大変。
そんなこんなしながらも、誰一人脱落する事なく、市場を横切り、港の入り口に着いた。
前回も思ったけど、鮮やかなルート選択だ。飛燕は凄いなあ。これで、すんなり船まで行けそう。
……行けませんでした。




