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 はぁ~、と大きなため息が聞こえた。黄さんだ。眉間の皺を、人差し指と親指で揉んでいる。なんだか申し訳なくて、もう一度謝罪を口にしようと唇を開いた時、黄さんが左掌を私に向けた。喋るな、という事だろうか。口を手で押さえる。


「……いまだに、どうしたら良いのか私にはわかりかねます。なので、一度、瑞司馬に報告に戻ろうと思います」

「ち、父上に?!」


 しまった。父の事は、考えてなかった。

 烈火のごとく怒って、帰国を命じられたら、黄さんは全力をもって私を帰国させるだろう。そうなった時、黄さんから逃れられる術を、私は思いつかない。実際、何一つ手掛かりが無かったあの状況から、ここまで追って来てくれたのだから。


「ほ、報告って、ちなみに、ナニを……?」

「もちろん、お嬢さんが起こるかどうかわからない戦を止める為に、綜ならびに王都に向かおうとしている事を、です」

「い、尹が、私を環に帰そうと、何やら協議しています。そ、それまでは、どっちにしろ、動けない、的な……」

「尹がですか?」


 黄さんが、私が苦し紛れの時間稼ぎに言った事に、食い付いた。怪訝そうな顔をしている。


「やはり、根がいないと不便だな。なぜ、あなたを攫った尹が、わざわざ環に帰すような事を?」

「たぶん、尹は、環に恩を売りたい、と思っています。戴を悪者にして、まあ実際そんな感じでしたけど、それを善意で助けたから、環は手を出すな、的な?」


 色の言った事しか聞いてないから、真相はわからないけど、これが私の所感だった。環は、尹に売られた恩を無碍にできない、と思う。戴とは同盟を組んでるから戦になったら協力を要請されるだろうけど、私の恩があるから、手を出さず静観する事になるんじゃないかな、おそらく。環の後ろにいる、綜も。


「ふぅん。面倒ですね、南の方も。巍にも根を張った方が良いんだろうが、難しいんだよなあ」


 黄さんが、しみじみと独り言をつぶやいた。それを聞いて、にんまりした、珊瑚。


「まま、今は根の事を考えるより、目の前のお嬢さんたちの事を考えよ。アナタが本当に瑞に戻るなら、アタシはここに居てええな」

「……仕方ないだろう」

「やった。けど、尹がお嬢さんを環に帰そうとしてるんやったら、はよ尹を出ないかんねえ。軍隊引き連れて、ぎょうぎょーしく恩着せて送っていくやろし」


 どうする? という顔で私を見る珊瑚。その視線に、頷く。


「私も、そう思います。まだ、正式な日時は知らされてないのですが、そろそろどうするか決めないと、手遅れになると思っています。ただ、荷物を没収されていて、路銀が確かにそんなに無い状況なんです。あの大河、長永江ちょうえいこうを本当に見つからずに渡れるかどうかも、正直不安はあります」


 尹と、綜は、実は割と近い。この大地を横切る一番大きな河、長永江に隔てられている点を除けば、だが。

 噂では、向こう岸が見えないとか、渡るのに二日かかるとか、自然の雄大さを感じさせる河なのだが、今の私にとっては莫大な障害にしか見えない。

 また、黄さんに何か突っ込まれるのではないかと、暗い面持ちで下を向いてしまう。

 んふ、っと鼻で笑う音が聞こえた。たぶん、珊瑚だ。なんだろうと思って顔を上げると、にんまりと唇を歪め、顎に人差し指をあてていた。変に絵になる人だなあ。


「アタシな、一つだけ良い方法思い付いたで」

「ど、どんな方法ですかっ。私にも、できますか」


 思わず、食い気味に珊瑚に聞くと、珊瑚は目までにんまりした。うう。珊瑚のこのナニか企んでます、っていうのを全面に押し出してくる表情、苦手だなあ。


「お嬢さん、あの子と一緒に居たやろ?」

「あの子?」

「  」


 それは、とても意外で、とても、不可能な名前に思えた。

 でも、やるしかない。帰り際に聞いた春陽の言葉で、より一層、強く思った。








「珠香。あのな、一応、あの男から言伝ことづてを預かってるんだ」


 ある程度の打ち合わせが終わり、それぞれ茶館を出て解散しようとした時だった。

 春陽が、迷ったように私に声をかけてきた。


「あの男?」

「ほら、戴でお前を探しに行った時、一緒に居たいけすかない男だ」

「いけすかないって……思戯のこと?」

「そんな感じの名前のやつ」

「思戯が、どうしたの?」


 私が、本当にわけがわからなくて首を傾げると、春陽は微妙な顔をして、首の後ろをかいた。しぶしぶ、口を開く春陽。


「……本当に、すまなかった、だと。お前を戴に連れ帰り、戴の為に利用しようとしてた。でも、本当の事を言って、お前を逃がす事もできなくて、ずっと後悔してた。せめて、無事に逃げのびて欲しい」


 なんだ、恥ずかしいなこれ、と春陽は独りつぶやく。それを聞かされた私はというと、


「し、思戯が、そんなこと、を?」


 驚いたからだろうか、頬が、熱い。春陽は肩をすくめた。


「ああ。なんだか、思いつめたような顔で言われたんだ。伝えておかないと、さすがに可哀想かと思ってな」


 思戯はずっと、そう、ずっと最初から、微妙な顔をしていた。

 その、ニヤニヤでも不機嫌でも、まして普通の顔でもない微妙な表情が、どんな感情からくるのか、全くわからなかった。

 でも、今、ちょっとだけわかった気がした。

 ーー後悔。

 おそらく、私を利用する事に対する後ろめたさ、みたいなものが、あの表情を作っていた、のではないだろうか。

 ずっと、ずっと、後悔していたのか。私に対して申し訳ないと。

 だから、ああやって折に触れて、謝ってきてたのだろうか。その、一番奥の秘密を、オブラートに隠して。

 でも、最後に、それも打ち明けて、謝ってくれた。そのことが、なぜか、嬉しい。

 あの時、色に攫われる前に、私を環に帰そうともしてくれた。そのことが、わけもわからず、嬉しい。

 胸が、いっぱいになる。


「珠香?」


 黙ってしまった私を心配してか、春陽が声をかけてくる。ハッと、我に返った。


「あ、うん。ありがとう、姉さん。聞けて、嬉しかった」

「嬉しい?」

「うん。なんか、こう、胸がぎゅってした」

「ふぅん?」

「それが恋っちゅーやつや。ええなあ」


 いきなり珊瑚が乱入してきたので、その話はそれでお終いにして、逃げるように茶館を出た。だって、この人ぐいぐい来すぎて怖いんだもん! 恥ずかしいんだもん!! 

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