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「……申し訳ありませんでした」
角を曲がるといきなり、丁香とよばれた女性が振り向き、深くお辞儀をした。
「え、え? 何がですか?」
本気でわからなくて首を傾げると、丁香は驚いたような顔をしたあと、ふと、微笑んだ。ずっと、この女性の真面目そうな顔しか見てなかったから、笑った方が可愛いよ、なんて口説き文句みたいなことを言いそうになったので、ぐっとこらえる。そういえば薄暗がりの中だけど、この人よく見たら、結構美人さんだ。まあ? うちの玉雲にかなう美人は居ないんだけどね!
女性は微笑みをすぐ真面目な顔に戻し、少し申し訳なさそうに言った。
「申し訳ありません。すぐに、お部屋に戻ると怪しまれますので、手洗所まで、ひとまずご案内いたします」
「是非お願いします。そこに行きたくて、人を探していたので、助かります」
また、丁香は目をぱちくりさせていたが、そうなのですか、と不思議そうに言われた。な、なんだろう。私、何か変な事言ってるのかな。
「それでは、こちらです」
気を取り直すように言われたその言葉にこくりと頷くと、丁香は歩き出した。素直に後ろについて歩く。
薄い暗闇のシンとした廊下を、静かに歩く。
私は、さっきの事を考えずにはいられなかった。口を、開く。
「さっき、助けてくれたんですよね? ありがとうございます」
不意の私の言葉に、丁香はゆっくりと振り返り。少し首を横に振った。
「あの方は、猜疑心の強いお方。あれは、貴女の為だけではなく、私の為でもありました。礼には及びません」
「どういう、事ですか? 私は、疑われていますか? それとも、あなたが、使用人として疑われているのですか?」
不思議と、彼女からは私に対する悪意、みたいなものを少し感じる。でも、それは彼女の職務を全うする障害にはならないくらいの、ほんの少しの気持ち。だから、さっきは私を助けてくれたのが、職務なのか気持ちなのかわからないのが、不思議。
あの色という人に、会話を聞いていた事を知られてたら、少しまずい事になったみたいなのに。あの人の猜疑心は、他人全般に向くのだろうか。少し会話しただけではあんまりわからなかったけど。
私の質問に、彼女は少し首を振るだけで、明言は避けた。
「こちらが、手洗所になります。一応、中央式に作り替えておりますので、使い方はわかるかと」
「ありがとうございます。何かあったら、呼びますね」
「はい、私はこちらにおりますので。ごゆっくり」
彼女は、手に燭台を持ったまま、トイレの前で立ち止まった。
外用の外履きに履き替え、トイレに向かう。確かに、簡易水洗の、中央でも進んだ方のトイレ様式だった。ちなみに、瑞の家もこれを取り入れてる。助かる、使い方に大きな違いが無くて助かる。
素早く用をすませ、水瓶で手を洗い、彼女の明かりまで戻る。
「お待たせしました」
「とんでもございません。……私共のような者に、そのように丁寧な言葉使いは不要です。どうぞ、気安くお話しください。それとも、中央ではそれが普通なのですか?」
私が戻ったので、彼女が歩き出す。が、すぐ、畏まったように、そう言われた。
初対面の人間に、敬語ではなくため口で話せというのは、コミュ障には、逆に難しいのだ! というのは、たぶん理解してもらえないだろうなあ。
「ええと、私、環でも変わってるって言われてて。だから、このままじゃダメですか?」
「……お客様がそのように望まれるのであれば、仰る通りに致します。主人からも、そう言いつかっておりますので」
「そうですか、ありがとうございます。ところで、中央の言葉、お上手ですね、イントネーション……訛りが少しあるぐらいで」
「お褒めいただき、恐縮です。これも、主人の教育の賜物です」
「中央の言葉、のですか?」
「はい」
何故、という一番の理由は、聞けなかった。この、主人に忠実なメイドさんは、たぶん教えてくれないから。無理に聞きたいわけじゃないし、なんとなく、想像がついたから。
私達は、それ以降はどちらも無言で、部屋に戻った。自分の部屋の扉すら良くわからなくなってたので、とっても助かった。
「ありがとうございます。今晩はもう寝るので、用事をお願いする事も無いと思います」
「左様ですか、畏まりました。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
丁香は、丁寧にお辞儀をした。見送られながら、戸を開け、部屋に入る。
部屋には、やっぱり誰もいなかった。
ぼふん、と被褥に倒れ込む。
彼女は、ちゃんと休息を取りに戻っただろうか。私の見張りとして置いておかれているなら、難しいだろうな。
そんな事をつらつら考えていたら、まぶたが重くなってきた。
柔らかく、包み込む感触にあらがえず、私はそのまま眠りに落ちていった。




