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「……よし。もう目を開けて、いや。もうちょっと待て」
思戯の声が聞こえたので、目を開けようとしたが、待てと言われたので。薄目を開けていたのを、慌て閉じる。
閉じる前に、視えたもの。
見間違えでなければ、たぶん。
「思戯……?」
ずるり、ずるり、と何か重そうなものを引きずっている音。
私の呼びかけに答える人はいない。
こ、怖い。
男たちに思戯が怒鳴られていた時より、何倍も怖いんだけど……。
それから少しして、一人分の足音が、こちらに近づいてきた。
「おい、もう良いぞ。ちょっと、見慣れない光景が広がってると思おうが、まあ、気にするな」
少し愉快そうに喋るその声は、思戯の声だと思う。
「ほ、本当に目を開けて大丈夫?」
「ああ。まあ、大丈夫だろ」
「本当?!」
信用ならない思戯の言葉。
うう…。目を開けた瞬間、恨めしそうな男の顔とかが見えませんように。
そう祈りながら、私はゆっくり目を開けた。
「……ひぇ」
おそるおそる目を開けた先にあったのは。ニヤニヤとあの笑い方をした思戯と、床に一本の線を引く、赤色。
「ほら、大丈夫だったろ」
「何にも大丈夫じゃなくない?! 明らかに、何かあった痕だよね!」
恐怖と怒りという感情は、割と隣り合わせにあるようで。怖がっているのか、この状況に平然としている思戯に八つ当たりしてるのか、自分でもよくわからない。
思戯は、軽く肩をすくめると、やれやれという風に溜息を吐いた。
「あんたには衝撃が強すぎるだろうと、これでも気を使ったんだぜ?」
「ううぅ……」
もう、深く考えたり考えを巡らせるのは、やめよう。私の軟弱な心では耐えられそうにないし。
それよりも。
「ねえ、これからどうするの? 外に、出られるんでしょう?」
思戯は私の言葉に、右手の中にある無骨な鍵をもてあそんだ。
「そうだなあ。ここを出ても良いんだが、あいにく、夕暮れが近い。わざわざ外で野宿しなくても、ここで夜を過ごせるなら、その方が良いだろう」
「そっか。そうよね、こんな格好で夜に外に居たら、風邪ひいちゃうよね」
「それもあるが、獣が割といるんでな。火も護符もなく、夜に外にいるのはお勧めしないね」
護符。
前に、まじない、がこの世界に息づいているというはちらりと言ったと思うが、その代表的なものが、この、護符だ。お守り、みたいなものだが、少し前世とは扱いが違う。
この世界にも、野生動物というのは存在する。そう、居すぎる程には。あまりにも数が多すぎて人間が把握出来ていない獣もいるという。
その中に、人間を襲うヤバい奴もいて、それらを追い払うには、火を焚くか、護符を持たなければ避けられないという。
獣除けの護符。
気休めではなく、この世界の人間ならば常識的に考えつく手段だ。旅行や商人には、必須アイテムとなっている。だが、この護符の作り方は極秘で、高額ときている。一回使ったら使えない、使い捨てだし。悩ましい所である。
そして実際、そのようなアイテムが無い為に、獣にやられたと思われる被害者が、年に数十人単位で存在している。いや、もっと居るのかもしれないが、森や山や海で襲われているので、ハッキリした数はわからないらしい。
なので、火を熾せないし、護符も無いとなると、どうぞ襲って下さいと自殺しに行くようなものなのだ。
無理無理、絶対に嫌だ。あの人の言う事通り、今、夜に外に出るのは良くない。
ちなみに、瑞兆であるあの双子は、それらに襲われる事が無いそうだ。
誰よ、そんな恐ろしい事確かめさせたたやつ。うちの家族に何してくれんの、と思っていたが、最近、兄妹から、あの二人から言い出した事だと聞いて、頭が痛かった。
瑞兆の証明、という事にはなったそうだが、本当に止めて欲しい。だが証明がいるなんて、あの二人もあれで苦労しているのかもしれない。
「まあ、そういうわけで、ちょっとこの洞窟を制圧してくる」
「へ?」
「心配すんな、すぐ戻ってくる。良い子で待ってろよ」
そいう言うと、思戯はいつの間に持っていたのだろう、剣を少し持ち上げて、すたすたと柵の方に歩いて行った。
「ねえ、ちょっと」
私が説明を求める声に振り返る事なく、柵の向こうに簡単に出ていく思戯。赤色の線は、その先に一緒に続いている。
赤い線を踏まないように柵の所まで行ったが、それ以上先、柵を出て向こう側に、一人では行けなかった。
どうしよう。
制圧するとか言ってたけど、本当に大丈夫なんだろうか。何人敵が居るかもわからないのに。
でも、剣を持てない私が行った所で、役には立たない。それどころか、足手まといになるだけだ。春陽なら、きっと役に立ったし、一緒に行けた。逃げることもできた。
私って、本当に一人じゃ何もできないんだなあ。
改めてその事実に気づいたところで、どうなるものでもない。そう、思っているのだけど。
頬に、水が垂れた。
慌てて、同じく水が滴っている袖で拭う。拭ったところで、頬に水っぽさが残っただけだった。
だけど、次から次に、水は頬に垂れてくる。
すん、と鼻が鳴った。
柵の向こう側を見るのを止め、もともと眠らされていた場所に戻る。
いわゆる体育座り、のような恰好で、顔を埋めた。
既に限界まで水に浸されている服は、もうあまり水を吸ってくれない。
鼻水まで出て来た。
もう、いい。
私はそうやって、思戯を待ち続けた。




