104
「本当に、止めたかったの」
思戯の服に頬を預けたまま、涙が次から次にあふれて、思戯の服に吸い込まれていく。背中に回った腕が、微かに強くなる。
「……あぁ、頑張ったんだな」
上から降ってきた想いもしなかった優しい言葉に、たまらなくなった。もう我慢ができなくなる。思戯のお腹あたりの服を、ギュッと掴んでしまった。
「わ、私はっ、誰にも、みんなにも、戦って欲しくなかったっ。だって、どっちかは死んじゃうかもしれないっ。私、どっちにも、知り合いがいるのよっ。どっちが死んだって、誰が死んだって悲しい。みんな、みんな良い人なのに!」
それ以上は、言葉にならなかった。ああぁ、とうめき声のような嗚咽を上げる事しかできなかった。
思戯は何も言わず、ただ抱きしめてくれた。その暖かさが、今は救いのようで……絶望する未来しか見えなかった。
労るように背中を撫でる手の優しさ。
暖かな腕、胸の中にいるという安心感。
そして、離れていく温もり。
「……そういうもんだ。仕方ない。だから、お前は自分の一番大事な物を守れ、珠香。お前は必ず、環に逃がすから」
私の嗚咽が少し落ち着いた所で、思戯は優しくそう言いながら、私の身体を離す。スース―する身体がさみしい。
「いちばん、だいじ?」
「そう。生きてりゃなんとかなるからな。自分の命だけは、何としても守れ」
「あなたがそれを言うの?」
春陽と話した時と同じ絶望感が、ドクドクと私を満たし、言葉が入ってこない。
泣きながら、怒りながら、笑ってしまう。
「自分の命が一番大事なら、あなたはどうなの? 私にそんな事を言うあなたは、これから何をしに行くの? 命が一番大事って言うなら、大事にしてよ! 一緒に生きてよ!!」
吐き捨てるような言葉に、しまったと思った。だけど、かまうものか。唇を噛み締め、胸の辺りをギュッと握りしめていると、
「……っ。俺の一番大事は、おもしろおかしく生きる事、だからな。愉しく生きてきたから、それでいいのさ」
思戯の声。思わず見上げると、あの、楽しくなさそうなニヤニヤ顔に戻って、どこか明後日の方向を見ていた。
そんな思戯に、また涙が溢れてきた。自分でも、なんでこんなにも悲しいのかわからない。
「うそ」
「本当だ。燎や、ここの奴らと好き勝手生きてきたからな。ガキの頃には思いもしなかった贅沢もしたし、沢山遊んだし、俺は満足してんのさ」
ああ。
この人は、私とは、根本的に生き方が違うのだ。常に死と隣り合わせで生きてきたであろうこの人に、私ができる事なんて、やっぱり何も無かったのだ。あの牢屋で交わした約束で、少しでも変わったと思ったのは、私の方だけだったのだ。
その無力感で、泣いているのだろう。
「……そっか」
自分でも思った以上に、諦めた声が出てしまった。一旦鼻をすする。
一回だけギュッと目を瞑り、ゆっくり開く。
スッと、常に帯に挟んでいた短刀をとりだした。ほんのり暖かいが、すぐに冷めてしまうぐらいの温もり。
それを、思戯に向けて差し出す。
おやっという顔をするが、疑問の声はあげず、思戯も私に向かって私の玉を差し出してきた。
「それは、あげる」
だが、その輪っか状になった玉を受け取るのは拒否した。首を傾げる思戯。
「いや、悪いだろ。これ、結構高い良いやつなんだろ」
「うん。だから、あげる。持ってて」
私がかたくなに受け取りを拒否するものだから、思戯もちょっと困ったようだった。
「じゃあ、俺もその短刀、やるよ」
その言葉にはすぐに首を横に振った。
「これは、私には重すぎるから」
私の言葉の意味を、どうとらえたかはわからないけど。思戯は、そっか、とだけ言って素直に私が差し出した短剣を受け取り、玉を自分の首に戻した。ちょうど、心臓の所に石がくる長さ。
「くれるってんなら、有難く貰うぜ。貧困層のガキだったから、意地汚くてな」
わざと茶化すように言う思戯に、頑張って笑顔を作る。
「売らないでね」
「おっと、その手もあったか。だが、あいにく金には困ってなくてな……大事にするよ」
「うん」
思戯を見る。
少し、微笑むような、愛おしむような顔。
もう、見てしまったから。言葉を交わして、交流してしまったから。
この気持ちに嘘をつくのも、この目の前の男性がこちらに向ける感情を知らんぷりするのも、もう、出来ない。
思戯が、好きだ。
このどうしようもない……優しい人が。
今度は涙だけでなく鼻水まで盛大に出てきそうだったので、急いで服で顔を拭って、視線を逸らす。
「そうだ。燎さんが、思戯の事探してたよ」
「まじか。どこ行ったんだあいつ」
燎と同じ事をつぶやく思戯に、自然と虚無が混じった笑いがもれた。思戯も自然に私に笑いかけてきて、頭をぐしゃっと撫でられた。
「ちょっと、燎を探してくる。お前を逃がす算段はあとでちゃんと伝えるから、待ってろ」
「うん」
パッと離れて行く手を、引き留める術を私はもたない。
遠ざかる命を、繋ぎ止める言葉を知らない。
そのまま、虚無の入り混じった笑顔で遠ざかっていく思戯の後ろ姿を見送り、私はテントの中に戻った。
「おはよう、お嬢さん。外で声がしてたけど、何かあったか?」
いつものようにテキパキと後片付けをしている慶珂を、ぼんやり眺めてしまう。
「ううん、なにも」
「?」
私の反応に、思戯が不思議そうに私を振り返った。そして、マジマジと私を見て、眉を寄せた。
「何があった?」
「なにもないよ」
私の言葉を聞いて、ますます険しい顔になる慶珂。何度か口を開閉させて、どう言おうか迷っているようだった。
「わかった。お嬢さんがそういうなら、聞かない。でも、いつでも、何でも聞くからな」
その言葉にまた泣きそうになるが、今度は涙は流れなかった。代わりに、感謝の言葉がこぼれ落ちる。
「ありがとう、慶珂。いつも、本当に」
「何度でも言うけど、俺は俺がやりたいからやってんだ。気にすんな」
ああ。
慶珂が、一緒に居てくれて、本当に良かった。
ぎりぎりの所で、精神が保てている気がした。
珠香、渾身の告白(無意識)を、華麗にスルーする思戯(優しさ)




