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「お嬢さん。本当に、環に帰るんだよな」
「なぁに、確認に来たの、慶珂?」
重々しい雰囲気で口を開くから何かと思えば。ちょっと気を張っていたのを、ふっと肩の力を抜いた。
「……そうね。色々考えてみたけど、どれも実現が難しい。あとはもう、環に帰るしかないみたい。春陽にあそこまで懇願されたら、流石にね。とっても残念だけど……」
姉や珊瑚には言えない気持ちも、慶珂になら言えてしまう。
私のその言葉を聞いて、慶珂が小さく息を吐いた。
「そうか。いや、ここまで来たら、何が何でも帰らないと言い出すんじゃないかと、ヒヤヒヤしてたんだ。流石、大姐お嬢さんだな」
「なぁに、嫌味でも言いにきたの?」
何かを良い淀んだままの慶珂は、珍しい。いつも意見をはっきり言うか、全く言わないかなのに。
ちょっと意地悪に言ってみると、慶珂は案の定少し慌てたように否定した。
「違う。……ただ、もしも、もしもだ。お嬢さんが本当に諦めてなくて、王都に行くと言うなら、俺も覚悟を決めようと思ってたんだ。それがなくなって、なんというか、気が抜けてさ」
自嘲するように苦笑する慶珂に、同じようなものを感じて、こちらも苦笑が漏れた。慶珂にそこまで覚悟させてしまっていたとは……いや、それは最初からか。戴に行く事になった時に慶珂を選んだ、その時から。
「私も、なんだかこうなってしまって、気が抜けたようになってる。一緒だね」
「そうか。……大姐お嬢さんが言ってたように、ニ姐お嬢さんだけで抱え込む問題じゃない、それだけは覚えておいてくれ」
さっきとは打って変わって真剣にこちらを見る慶珂に、ちょっと驚いたが、少しだけ微笑んで頷いた。
「私に出来ることは、無かった。それだけの話よね」
慶珂は何か言いたげだったが、結局返事は無かった。
それよりも。
「慶珂、ありがとう。何度言っても足りないけど」
「いいや、俺も望んでやってた事だから。……色々あったな。遊船に行ったと思ったら誘拐されて、帰れると思ったら誘拐されて、あげく綜に行くために海寇使って」
私の真剣な感謝に、慶珂が茶化すように笑いながら言う。
「うぅ……、慶珂の中の私、攫われてばっかりじゃないの」
「実際そうだが?」
「反論の余地がない……ご心配おかけしました」
「いやいや、お嬢さん。俺は驚いてるんだぜ、その悪運の良さに」
「言葉おかしいよ、何よ、悪運の良さって」
「いつも何とかなってる、って事さ。だから、何とかなるよ。あいつらも。大丈夫」
綺麗に話をまとめた風の慶珂に、つい頬が膨らんでしまったのは仕方ないと思う。
そんな私を見て、慶珂はあははと今度こそ声を上げて笑った。
あの後、慶珂は部屋に戻っていった。結局、何しに来たか良くわからなかったけど、もしかしたら王都行きをちょっと応援してくれてたのかもしれない。違うかもしれない。あんなに環に帰らせたがってたもんね。
良くわからないまま眠りについて、翌朝。
朝食の席に、劉氏が居た。
その口から正式に、環から私を迎えに来ている使者の存在を告げられた。宰相の指示だろうか。
その使者が来るまで、劉家で正式に待機していてほしいと言われては、こちらはもう何も言えない。逆に感謝しないといけないだろう。
ただ、綜の市場に物見遊山に行くのは止められなかった。
劉家の私兵ではなく、綜の居留兵が派遣されてくるそうだ。
その名目は、私達の保護。という名の監視。良くある事だ。
その人達と一緒なら、市場に行っても良いそうだ。飛燕のように話のわかる人ならいいんだけど、無理だろうなあ。
その綜兵は、今日から劉家に来るらしい。
私は、当主の表情からは何も読み取れなかったので、朝食の後、みんなにどう感じたか聞いてみたら、おおむね安堵しているようだとの見解だった。
ようやく変な環の貴族の娘が帰ってくれるという感じだろうか。
よし。
そうと決まれば、市場へ繰り出すしかない。
だって、私にはもう何もやる事も考える事も無いのだから。家族のお土産を買うぐらいしかできない。
環からの使者の到着予定日時は、あと二日後ぐらいのようだ。
環からと考えれば、馬車を走らせても早いお着きだ。黄さんがどれだけ早く動いたかわかる。怖ぃ。
到着までの間、綜を満喫してやろう。……どこか、心に空虚が押し寄せてくるけど。気のせいだ。うん、きっと、気のせい。
綜兵の到着を待って、さっそく市場への案内を頼んでみた。
真面目な二人組だったらしく、事務的な対応をされたが、案内してくれるようだった。
ちなみに、春陽は鍛錬をすると言い、珊瑚はゆっくりしていると言って断った。尹にいた時もこんな感じだったのだろうな、と簡単に想像できた。無理に誘う事も無いだろう。
さっそく、兵士二人と慶珂をお供に、市場に繰り出した。




