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鵺の哭く夜  作者: 長谷川
9/10

また満ちる

 銀色の切尖きっさきが、夜の山を引き裂いた。

 耳元で闇の破れる音がして、シギははっと我に返る。

 獣の咆吼が轟いた。

 見ればすぐ目の前で、右眼に矢を受けたひぐまが仰け反っている。


「シギ! 其処を退け!」


 何が起きたのか、ただちに理解が追いつかなかった。怒号のした方を振り向けば、クマタカが鬼の形相で弓に矢をつがえている。


(血の、臭い)


 噎せ返るような、酷い臭いがした。狩った獣を捌いた時の臭いに似ている。

 随分となまぐさい。これすべて主の血かと思ったが、違った。

 たもとでとっさに鼻を覆い、目を凝らしたところでふと気づく。


「あ――」


 己が眼を疑った。

 視覚を失い、吼えたける主の足元に、宍色ししいろの着物が横たわっている。


 キク。噛まれていた。


 首筋から胸元までを真っ赤に染めて、ぴくりとも動かない。


「キク……!」


 走り寄ろうとした。されどシギが駆け出すより一寸早く、再び矢が夜を裂いた。

 二本目の矢がシギの耳元を擦り抜け、主の後肢に鋭く突き立つ。老いた羆は身悶えた。両眼を失い、退散しようとしている。その背を更にクマタカが狙う。


「タカ爺、つな!」


 三本目の矢が番えられたと知った時、シギはそう叫んでいた。

 脚を引き摺り、身を翻した主の後ろに立って、庇うようにかいなを広げる。


「シギ、何故だ」


 遠方でクマタカがおめいていた。しかしシギは構わず、逃げる羆を顧みる。


け、主よ」


 主もまた、最後にシギを顧みた。キクのようにめしいた両眼で、シギを見た。

 何故だ、と問われた気がする。故にシギは、笑ってみせた。


「おまえがおらねば、山が死ぬ。キクが心から血を流しても、護ろうとしたこの山が……」


 だから、往け。


 そう告げると羆はこうべを垂れて、程なく夜の山へと消えた。びっこを引きながら草叢くさむらを掻き分け、何処いずこかへと去ってゆく。

 主の姿が見えなくなったのを確かめてから、シギはキクへと駆け寄った。肉を食い破られた姿がミユギと重なり、堪らず嘔気が込み上げる。


「キク」


 返事は無かった。シギは口元を押さえながら、血溜まりへがくりと膝を折った。


「なあ、キク……あんた、どうして……」


 ――おれを護ったのか。


 呻くようにそう尋ねるや、知らず涙が溢れてきた。血で汚れるのも構わず、キクのからだを抱き上げる。

 まだ、仄かに温かかった。シギは細い肩を抱き寄せ、嗚咽した。

 あの川底で見たものは、きっとすべて鵺が食らったキクの悲しみだったのだろう。どうして鵺は最後に左様なものを見せたのか、シギは知るべくも無かったが、ただ、ただ、心に穴の開いたようだった。その穴の中を、黒い風のような、たきのようなものが、びゅうびゅうと吹き荒んでいるのだった。


「キク、すまない……おれは、何も……何も分かっちゃいなかった。それどころか、ずっとあんたを苦しめて……」

「……いいえ、シギさん。これは、鵺が招いたことですから……」


 はっと息を吸い、目を見開き、束の間呼吸が止まるかと思った。耳元で聴こえた囁き聲に跳ね起きて、己のかいなの中を見やる。


「キク! あんた、まだ生きて……!」

「……唄うたいのキクは、死にました。此処に在るのは、ただの空蝉うつせみ


 シギは半ば開いた口から、嗚呼、と吐息を洩らすことしかできなかった。腕の中で開かれた、烏珠ぬばたまの如きひとみに魅入られていた。

 どこまでも黒い、黒い、夜のように黒い眸である。しかし其処に星影は無かった。それは夜と云うより、暗い水底みなそこの色なのやもしれなかった。


「ねえ、シギさん……愚かだと、わらって下さいますか。己が悲しみもひとりで背負いきれず、鵺に食わせた、哀れな女を」

「キク」

「どうか、嗤って下さいな……その所為で貴方はきずを暴かれ、里ひとつ、滅びかけた。愚かな、愚かな女です。だから、これで良かったのだと」


 良い訳が無かった。良い訳が無いのに、シギは返す言葉が見つからず、一途にキクを抱き竦めた。

 月明かりよりも青く、白く染まったキクの頬を、黒い涙が伝ってゆく。されど彼女は微笑わらっていた。シギの頭上で照る月を、眸に映して微笑っていた。


「ねえ、ヤトリさん。其処に居ますか」


 と不意にキクが云い、シギは再び息を呑む。顧みればすぐ後ろに、あのさぶらいが立っていた。まるで闇からどろりと現れたのかと思う程、男には音も気配も無い。


「キクの飼っていた鵺は、あまりに育ちすぎましたわ。キクが死ねばくびきを解かれ、再び世へ放たれてしまう」

「……そうでしょうね」

「ですから此処で、仕留めて下さい。飼い主である娘ごと」

「駄目だ、キク」


 喉を震わせて叫び、シギは縋った。掌から零れ落ちようとするキクの命を、どうにか掬い取ろうとした。

 同じ頃、キクの躰の下で影が蠢いている。影は波立ち、地面を這って、逃れたがっているように見えた。死にとうない、と。


「クマタカ殿。シギ殿を」


 刹那、背後よりぐいと肩を引かれ、シギはまろぶように尻餅をついた。見れば其処にはクマタカがいて、そのままキクより引き離される。


いやだ、放せ、タカ爺……!」


 何度も身をよじりながら、シギは大層暴れたが、軽ゝと強弓つよゆみを引くクマタカに抗える筈も無かった。やがては大地に組み敷かれ、腹這いになってヤトリを見やる。

 青い、青い、月の下。枝葉の僅かなあわいから零れる、雨の如き光の中で、ヤトリは腰の得物を抜いた。が、程無くシギは目をみはる。


 何せヤトリの刀には、鍔より先のものが無かった。


 刃は付け根の辺りでぱったりと折れ、もはや刀としての体裁を成しておらぬ。かと思えばヤトリはその刃を、自らの腕に突き立てた。

 小指程も無い刃に裂かれ、鵺祓いの腕から血が流れる。ところが溢れた血はかの者の腕を伝い、指先から滴って、刀へと集まった。


 折れた刀が、みるみる元のかたちを取り戻してゆく。血は凝固して刃となり、気づけば一振りの血刀ちがたなが生まれていた。

 赤黒く不気味な刀身に、月の光が反射する。途端にキクの影が怯えた。ヤトリは眼下の異形を一瞥すると、ついに刀を振り上げた。


「キク……!」


 クマタカに押さえつけられたまま、シギが叫ぶ。


「……ねえ、シギさん」


 その聲に、キクが答えた。


「わたくしは――鵺は」


 赤い切尖が風を切る。


「鵺は、貴方の子が欲しゅうございました」


 華が、咲いた。

 赤く、赤く、咲いたと思えばすぐに散る、見事で果敢はかない華だった。

 鵺の哭く聲が木霊こだまする。

 シギがキクを見つけた日、確かに聴いた聲だった。



              *   *   * 



 山が、ざわめいている。

 風が吹いている訳でもないのに、ザワワ、ザワワと木が揺れている。


「かような山を見るのは初めてじゃ」


 と、この山をたれよりもよく知るクマタカでさえ、怯えた様子で身を竦めていた。ただひとり、袴を血で汚したヤトリだけが、超然と天を仰いでいる。


「……ご安心を。じき、夜が明けます。山がそれを感じ取り、歓び騒いでいるだけです。一度は去った獣たちも、時をかけてまた戻るでしょう」

「そうであれば良いのだが……」


 狩人でありながら、山が元に戻ると聴いても、クマタカはあまり歓ばなかった。かの爺が物憂い眼差しを注ぐ先には、膝をついたまま動かぬシギがいる。

 浮かれ騒ぐ山の中で、シギとその周りだけが静止していた。胸に華をこさえて眠るキクの姿を、シギはただじっと項垂うなだれながら見つめている。


「……救えなかった」


 やがてぽつりと零れた聲に、ヤトリもクマタカも顔を上げた。


「おれはまた、救えなかった……あれだけ傍にいながら、何も……」


 おもてを押さえたシギの指の狭間から、雫が伝って滴り落ちた。キクの死に顔は安らかで、苦しみなど微塵も無かったかのように見ゆる。

 されどシギの心は軋み、痛み、今にも張り裂けそうだった。故に着物の胸元を握り締め、シギは云う。


「なあ、ヤトリ殿。失礼を承知で云おう。あんたの刀でこのおれも、いっそ殺してくれないか」

「シギ、何を」


 驚き惑いてクマタカが呻いた。しかしヤトリは表情を変えず、シギの言葉の先を待っている。


「あんたを疑ったことは、詫びる。おれが愚かだった。いつも間違えるのだ、おれは。生きていても詮が無いのは、キクではない。鵺でもない。このおれだ。何も成し得ず、何も遺せぬまま惨めに生き長らえるくらいなら、いっそ……」


 キクの亡骸を抱いて、シギは再び嗚咽した。男のむせび泣く聲が、潮鳴りに似た木ゝの歓呼の狭間に落ちる。

 その双方を聴きながら、ヤトリは己がかいなへ目をやった。先程自らの刀で切り裂いた疵は、もう塞がりかけている。


「私の血で斬れるのは、鵺と呼ばれる異形だけです」


 ややあって鵺祓いの口から零れた答えに、シギが虚ろな目を上げた。


「私はその為だけに生まれ、その為だけに生きている。貴殿らのように歓び、怒り、悲しみ、なげき、笑うと云うことを知りません」

「つまり、あんたには生きる意味がある。酷く幸福なことじゃないか、それは」

「そうでしょうか」


 云いながら、ヤトリは再び天を振り仰いだ。いつしか妖雲は晴れ、見事な満月があらわとなっている。

 なれど夜明けが近い予兆であろうか。月はゆっくり欠け始めていた。まるで闇にまれてゆくような望月を見上げて、ヤトリは云う。


「シギ殿。我ゝ鵺祓いが何故、鵺を討つかご存知ですか?」

「何故、とは……鵺を野放しにしておけば、思いのままに人を食らい、やがて人の世が鵺の世になってしまう。だから……では、ないのか?」

「半分は、そうです。そしてもう半分は、鵺が人から悲しみを奪い尽くしてしまうから」

「……それの何がいけない? 結構なことじゃないか。今、この胸の内にある痛みを、苦しみを、鵺がすべて食らってくれると云うのなら――」

「では、月があれ程明るいのは何故です?」

「は? ……分かりきったことだ。あれは太陽と同じで、自ら光り輝いている。だから」

「いいえ、違います。月はやみの中にあるからこそ輝いて見えるのです。そして私はその月を、とても美しいと思っています」


 呆気に取られたシギを置いて、ヤトリは静ゝと歩き出した。

 彼の草を踏み締める音が、里を目指して遠ざかってゆく。

 山は未だ浮き足立っていた。

 其処へクマタカがやってきて、シギへと手を差し伸べる。


「ゆくぞ、シギ」


 眼前にある萎びた手を、シギはすぐに取れなかった。

 ただ、ただ、胸がつかえて、面を上げることもできない。


「立て。ヤトリ殿の仰る意味が分からんか」

「……ああ。分からない」

「ならば、生きよ。生きておれば、いずれぬしにも分かる日が来る」


 木の葉が幾つも舞い踊った。立て、立て、と山が云う。

 シギは涙を流してキクを見た。彼女の言葉が甦る。


 ――どうか嗤って下さいな。


「……嗤わないさ、キク」


 木ゝが立てる潮騒を聴きながら、シギはついに立ち上がった。

 その手をぐいと引き上げて、老爺が笑い、夜を仰ぐ。


「そうら、月が欠けるぞ。されど惑うことはない。山がやがて息を吹き返すように、あれも時を経て、また満ちる」


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