孤悲を食らうもの
「あれは呪いだよ」
と、耳元で誰か囁いた。
「噂に聴いたことがある。この世には妖魔に好かれちまって、行く先ゝで不幸を招く者が居る、と」
面を上げると、見えたのは障子を透かす夕明かりだった。
「そういう者は生まれながらに、鬼に愛しまれているからね。故に鬼子と云うんだよ。それが女ならいずれは鬼が迎えに現れ、妻にと娶ってゆくと云う」
「じゃあ、あの子を川から引き揚げた里が燃えたのも?」
「不運なことだねえ。善意で助けてやったってのに……」
「そんな空恐ろしいものを傍に置いて、本当に大丈夫なのかい。幾ら此処が寺だと云ってもサ、所詮あたしらは尼じゃない。神仏の加護など望めるものかね」
「さあ、どうだろうね。何なら私らも唄念仏を習うかい」
「厭ね、念仏なんて辛気臭くて稼ぎになりゃしないよ」
「髪を下ろしてる暇があったら、流行り唄のひとつでも覚えないとね」
花の如き女どもの朗笑が、わっと開いて遠ざかってゆく。キクは窓辺に腰かけて、蝉の聲の間にぼんやりとそれを聴いていた。
布団を敷いて寝起きするのが精一杯と思しい、至極小さな座敷である。其処は尼寺の離れであった。他の瞽女たちが暮らす長屋は他にあって、ただひとり、キクだけが此処に居る。
〝悲しいかな、悲しいかな〟
やがて日が落ち、夜が更けると、キクの枕元から聲がした。
〝哀れな娘。鬼の愛嫁。今宵も汝の悲しみを、我が綺麗に食ろうてやろう〟
キクの瞼は開かない。
ただ其処からとめどなく溢れる涙が、暗い影へと吸い込まれていった。
ある日には琵琶を爪弾き、か細い聲で唄を練る。暴れ川に飛び込んだ娘の唄を唄ってやると、キクの影は歓んだ。この世でキクの唄を好むのは、ただ彼女の影のみだった。
〝良い唄じゃ。良い唄じゃ。もっと唄って聴かせておくれ〟
と影は云う。影はキクの唄を食らい、どんどん大きく育っていった。それでもキクは構わなかった。
「次はどんな唄がいい?」
と唯一の連れ合いに語りかける。すると決まって、瞽女の姐たちは不気味がった。キクは己の影の中に、鬼を飼っている、と云うのである。
「あんたはまた、そんな陰気臭い唄を唄って」
姐の中にはそう云って、キクを打つ者もあった。その度寄り添う彼女の影は、枕を濡らす涙を食った。
「ほれ、あんたに仕事だよ」
と云われれば、顔も知らぬ男の閨に侍る。そうして暫く飼われれば、男は不運に見舞われて、やがて身を滅ぼしてゆくのだった。
「まさか本当に効くとはねえ」
と相好を崩し、姐らに金を手渡す者が居る。
いつしかキクは売り物になっていた。
持ち主に呪いをもたらす鬼子として、あちこちに売られていった。
呪いを買ってまで人を陥れたいと云う者が、人の世には多く居る。
〝愚かだねえ、愚かだねえ〟
と影は嗤った。
「いいのよ、鵺。わたくしにはおまえさえ居てくれれば」
とキクは微笑み、己が心を千切っては、夜毎影に与えていった。
そんなある日のことだったのだ。次なる興行の地を目指して旅していたところ、呪いを鬻いでいた者たちに、ついに呪いが降りかかったのは。
山は唸り、崩れ、鬼の力に酔った醜女どもを呑み込んだ。
ただひとり、鬼に愛でられた美しい娘だけが、玉の緒を繋ぎ留めた。
ひょおう、ひょおう、と影が哭く。
その聲に釣られ、やがてふらふらと現れたひとりの若人が、泥の下からキクを掬い上げた。
* * *
杖をつく。
其処に地面のあることを確かめて、そろりと一歩、足を出す。
杖をつく。
そうして徐ゝに、亀の這うような速度で進んでゆく。
山間の里にある、シギの家の裏手であった。縁側を下りた先で、キクは懸命に歩び方を思い出そうとしていた。
四季は巡り、また蝉の鳴く季節となっている。燃えるような緑を湛えた山ゝは、生命で溢れ返っていた。
それは目の見えぬキクにも分かる。此処はとても豊かな山だ。故に己が長居してはならぬ。早う折れた足を立たせて、この山を下りねばならない。
(でないとまた、禍を呼んでしまう)
震える両手に力を込めて、またひとつ、杖を進めた。
ところが杖の先が何かに当たり、ずるりと滑って手元が狂う。「あっ」と聲を上げた時には頽れて、キクは砂地に座り込んだ。
〝キクや、キクや〟
と、途端に影が聲を掛けてくる。たらふく餌を与えた為か、この頃影は、日の高い内でも語りかけてくるようになっていた。
〝その足はまだ治っておらぬ。無理を通せばより傷む。そう焦ることもあるまいに〟
「駄目よ」
と息を弾ませながら、汗を拭ってキクは云った。
「此処に長居をしてはいけないの。早く寺へ帰らなければ」
〝帰ったところで、汝を待つ者などおろうかい〟
「いいえ。誰も居ないわ。けれど、それでも……」
〝……〟
「……可笑しな話ね。生きていても詮の無い、わたくしばかりが生き残るだなんて。いっそ姐さんたちと一緒に死んでいれば、こんな想いをせずとも良かったのに」
何故、わたくしはいつも生き長らえてしまうのかしら。
そう云って泣くキクに、影は何も答えなかった。ただ地表をぞわりと撫ぜて、波打ちながら這い寄っていく。そののち、キクの瞼から零れる悲しみを食らおうとして、
「――キク!」
サッと音を立てて影が引いた。家の表から、鍬を担いだシギが戻った為だった。
「何してるんだ、そんなところで。……泣いているのか? どこか痛むのか?」
若人はすぐさまキクに駆け寄ると、横から抱くようにして扶け起こした。土と、汗の匂いがする。日の下の闇の中、キクが手探りで探り当てると、シギの指は田畠の手入れのあとで、あちこち泥に塗れていた。
「あっ……す、すまん、こんな汚れた手で……」
「……いいえ、お気になさらないで。むしろとても助かりました、ひとりでは立てぬと困っていたところでしたので……」
云いながらキクは、そっとシギの手を離した。これ以上己に触れていれば、この若人にも穢れが伝染ってしまう。そう慮ってのことであった。
「歩く練習をしていたのか。そいつはいい心がけだが、まだちっとばかし早いんじゃないか。もうじきまた、麓の町から医者が来る。其処で経過を診てもらってからの方がいいだろう」
「ええ……ですがあまりのんびりしていては、シギさんにご迷惑がかかりますので。目も見えず、歩くことすらままならぬとあっては、何のお役にも立てません。これではただの穀潰しですわ」
「別に構わんさ、おれはこのとおり独り身だし。里は去年からの豊作で、食い物はむしろ余ってる。その対価なら、おれも里の皆も充分にもらっていることだしな」
「対価?」
「あんたの唄さ。こんな田舎じゃ、琵琶の音が聴ける機会など滅多に無い。皆、この家から聴こえるあんたの唄を楽しみにしてるんだ。それをおればかり独り占めするんじゃねえと、さっきもおやっさんに小突かれたよ」
「……ですがわたくしは、流行り唄もろくに唄えませんし……まともに唄えるものと云ったら、陰気でつまらぬ唄ばかりで……」
「そんなことは無いだろう。おれは好きだぞ、あんたの唄。まあ、唄心などからきしのおれが云ったところで、仕方がないかもしれないが――特にあれだ、〝鬼子の唄〟。あれがいっとう好きなんだ。良かったらまた今度、聴かせておくれよ」
その晩、キクは泣いた。
シギから与えられた部屋の中で、はらはらと涙を零して泣いた。
すると影がまた寄ってくる。涙を食おうと寄ってくる。
〝キクや、キクや。悲しいのなら食うてやろう。苦しいのなら舐めてやろう〟
「駄目よ」
と、昼間と同じくキクは云った。
「これは悲しみの涙じゃないの。ただ嬉しくて泣いているの」
〝嬉しくて?〟
「そうよ。だってあの人は、わたくしの唄を好きだと、云ってくれた――」
〝分からぬ〟
と、その時ぽつり闇が洩らした。
〝人は、嬉しくても泣くものか〟
吹き荒ぶ黒の中、シギは聲の主を一目見ようと天を仰ぐ。
〝なあ、シギよ。汝の涙は何の涙か?〟
影は闇の中から、シギの頬を滑って光る心の珠をじっと見ていた。
「これはおまえには食えんぞ、鵺」
故にシギは、口の端を持ち上げる。
「なあ、鵺よ。おまえは最後に、キクの何を食ったんだ」
闇の流れがいっそう激しくなった。もう、まともに目も開けていられない。
〝戀を食った〟
笑うように、唏くように影は云った。
〝我はおまえと離れ難いと云う、キクの戀を食ったのよ〟