烏珠の夢
この世には、決して人の抗えぬ自然の摂理と云うものがある。
例えば山がそうだ。山は時に恵みをもたらすが、同時に奪う。雪崩を起こしたり、大水を呼んだりして、人の営みを容易く壊す。
山の主とはそうした摂理の権化であると、シギはクマタカから教わった。
誰よりも深く山を知り、寄り添い、護る者。
すると山も彼の者に応え、並外れた長寿を与えると云う。ただの獣も百年生きれば山の神となる。山の王、と呼び畏れるに相応しい存在に。
この山の主は、下手をすればもう八十年も生き続けているらしい。定命を外れた老熊は今、ケモノとモノノケの間に在った。
なればこそ、であろうか。あのクマタカですら主を討つこと能わず、せいぜい左眼を射抜いて疵をつけるのが関の山であった。
その主が今、猛り狂っている。
己が領分を侵しに現れた人と鵺とを前にして、猛り狂っている。
山の夜が明けなくなってから、殆どの獣は何処かへ去ったと聴いていたが、主はまだ此処にいた。たったひとり、山を棄てずに留まったと云うのであろうか。
「食い物も尽き、朋と云えばもう鴉くらいしかおらんだろうに……まったく物好きなことだな、主よ」
気怠い躰を擡げてシギが云えば、隻眼の熊が低く唸った。鵺はすっかり怯えて腰を抜かし、逃げることも叶わぬようである。
だが、それでいい。この手の獣は逃げるものを見ると追う習性がある。主がふたりを見つけてもすぐさま襲ってこないのは、動かず騒がず居る為だ。
鋭い牙を剥き出しにして、主はシギらを睨んでいた。どうやらまずは此方の出方を窺う気らしい。
故にシギはゆらり、樫の木に手をつき立ち上がった。支えが無ければ立ってもおれぬ程に酔っているが、幸い、頭は冴えてくる。
(不思議だ)
あんなに憎く恐ろしかった山の主を前にしても、今のシギは平静だった。恐ろしくはない。取り乱してもいない。むしろ朋輩にそうするように、よく来てくれたと抱き交わしたい衝動すらある。
「主よ」
とシギは語りかけた。ただの呪われしケダモノだと思っていたものが、今、いたく尊貴な生き物に思えて、シギの胸は高鳴っていた。
「なあ、主よ。おれは今日までおまえを恐れ憎んできた。殺してやろうと企んだことも一再ではない。おれの一生はおまえを殺す為にあると、そう信じて疑わぬ日ゝもあった。だが今は違う。おまえはおれを救いに現れた。そうだろう?」
「シギ、何を……!」
「もういいんだ。思い残すことは何も無い。むしろおれのような愚か者は、これ以上生きていたところで益がない。これより先も、無意味な穀潰しとしてさもしく生きてゆくくらいなら――」
鵺の聲を遮り、シギは微笑った。涙が一筋頬を伝ったが、構わない。
「おれを食らえ、主よ。そして取り戻せ。おまえの力と、この山を」
羆が吼えた。まるでシギの言葉が通じたかのように、小山の如き巨体が持ち上がり、右腕を振りかぶる。
「駄目!!」
夜を劈くその聲は、誰のものであったのか。
「鵺よ、あの人を護って……!!」
どろりと、闇が蠢いた。
それはキクの瞼の下から溢れ、夜の闇と混ざり合う。
かと思えば闇は月下で翼を得、嘴を開いて鋭く哭いた。耳を塞ぎたくなる程の金切り聲に、シギも主も身の毛が弥立つ。
(なんだ、あれは)
シギは我も忘れて呆然とした。
キクの眼より流れ出た深黒の鳥は鷹のようにも、鴉のようにも見えた。大きい。
その巨鳥が翼を広げ、猛烈な勢いで迫ってきた。あっと思った時にはもう遅い。
「シギ……!」
誰かに名を呼ばれた気がした。
されど答える間も無く鳥に呑まれ、五識が、闇に覆い尽くされた。
* * *
川の中に居た。
凄まじい勢いで流れゆく、闇の川の底である。
シギは頭を腕で庇いながら、ゆっくりと目を開けた。
しっかり両足をついていないと、吹き飛ばされそうな程強い風が吹いている。否、果たしてこれは風なのか、あるいは水か。とは云え凍えるような寒さはないし、不思議と呼吸もできている。
(何処だ、此処は)
何も無い、闇。見渡す限りの闇。己の手足は見えているのに、それ以外すべてが黒く塗り潰されている。聴こえてくるのは、吹き荒ぶ闇の哮りだけ。
(おれは、死んだのか)
だとすれば此処は黄泉の国と云うことになるが、どうにも違うような気がする。死とはもっと冷たく、苦痛を伴うものだと思っていた。躰が端から徐ゝに千切られ、やがては無に溶けてしまう、そんなものだと。
(地面はある……のか)
いつの間にか草履が脱げた足の裏で、闇の底をまさぐってみる。其処には確かに地面と呼べる感触があった。ほんの僅かざらついていて、されど少し温かいような。
(……進んでみよう)
己の居場所が分からねば、帰ることも溶けて消え去ることもできぬ。シギは嵐の中を進むように慎重に、かつ力を込めて歩き出した。
相変わらず、風は強い。気を抜けば忽ち飛ばされそうである。
時折水泡の湧き立つのに似た音がするので、やはり此処は水底なのやも知れぬ。ところがやがて、耳を支配する唸りの中に、聴き覚えのある聲が混じり始めた。
ひょおう、ひょおう、と。
(鵺の、聲)
おぞましき人食いの黒き異形。なれど今は他に縁とするものがなく、シギは聲に向かって歩き始めた。
程なく闇の向こうに光の染みが見えたかと思えば、次第に大きくなってゆく。シギが近づいていると云うよりも、光の方から此方へと迫ってきているようだ。
「――キク」
まばゆさに目が眩んだ刹那、シギは思わぬ呼び聲を聴いた。
知らぬ男の聲に顔を上げれば、眼前に粗末な家がある。シギの家より小さく草葺きの、漆喰が剥がれかかった家である。
「タダキさん」
その家の前で振り向いた娘の姿に、シギはただただ目を瞠った。娘はシギが知るより幾許か若い、唄うたいのキクであった。
(いや、しかし、目が開いている)
と、シギは綻びだらけの衣に身を包んだキクを見やる。齢十五か十六か、華の年頃と見ゆるキクは、立ち竦むシギを見て艶やかに笑った。
彼女のふたつの眼窩には、烏珠の如き眼が収まっている。櫟の実のようにくりくりとした、愛らしい眸である。
「ああ、またそんな馴れないことをして。左様な細腕で薪割りなど無理だ、貸してごらん」
「いけませんわ、タダキさん。お気持ちは嬉しいですけれど、わたしと共に居るところを見られたら、また何を云われるか……」
若かりし日のキクは美しく、されど何かに怯えていた。すると視界の端から不意に誰かの腕が伸び、彼女が手にした鉞を半ば強引に掴んでしまう。
「構わんさ。おれはいずれこの里の長になる男。故に皆、表立って雑言を吐いてくることもない。まあ、仮に吐かれたとしても気にせんし、逆に遣り込めてやる気でいるんだがな」
「ですが噂は立つでしょう。先日もわたしと度ゝ会っていることを、長様から咎められたと聴きました」
「莫迦莫迦しい。そんなもの、いちいち拘っておれんさ。そもそもおれは、鬼子の伝説など信じておらん。次の日蝕が何時起こるかなんて、里で知っている者はいないだろう。だのにその年偶ゝ生まれた者を、忌み子と蔑むなぞどうかしている。それがもし親父の子であったなら、誰も文句は云うまいに」
云いながら、逞しい腕の主はぱかりと小気味良く薪を割った。隣で胸を押さえたキクの手は、よく見ればあちこち腫れて血が滲んでいる。薪割りが上手くできぬあまりに、肉刺ができて潰れてしまったのであろう。
「……ですが父は墜死し、母も不治の病に斃れました。生まれる筈だった妹は流れ、里はずっと凶作で……」
「考えすぎだ。親御さんのことは確かに気の毒だった。されどいずれも不幸な巡り合わせが続いただけだ。そうなると皆、何かを誰かの所為にしたくて堪らなくなる。人の世とはそういうものだ。キク、おまえの所為ではない」
「……」
「おれは信じぬぞ。厄呼びの子など」
云って、男が不機嫌に振り下ろした鉞が、またも薪を両断した。
ところがその時、びょうと闇が暴れ狂い、目の前の光景を掻き消してしまう。シギはひたすら呆気に取られた。
「今のは、一体……」
呟いたところで、また聲がする。今度も闇の彼方から。
シギが誘われるように歩き出すと、再び光の染みが見えてきた。豆粒のような光は一気に肉薄し、闇に開いた穴の如く、シギに未知の情景を見せつける。
「――キク、遅れるな!」
今度は何処ぞの山の中だった。誰のものとも知れぬ腕に手を引かれ、苦しそうに馳せるキクが見える。ふたりは道なき道を駆けていた。まるで噂に聴く九尾山の如く深く険しい山である。
「まったく、親父もどうかしている。水神を鎮める生け贄などと……!」
男の聲は怒りに震えていた。かなり長い距離を駆けてきたらしく、呼気は切れ切れ、足取りも些か覚束なくなっている。なれどふたりは足を止めなかった。岩だらけの急峻な斜面を、手を取り合って登ってゆく。
キクは浅い編み笠を被り、背には風呂敷を負っていた。それは見るからに旅の装いで、これから何処か遠くへゆくつもりなのだと、シギにそう予感させる。
「ですが、タダキさん。やはり里へ戻った方が……でないとわたしだけでなく、タダキさんまで……見つかればどのような目に遭うか、分かったものではありません。これ以上わたしの為に、迷惑をかけたくない……!」
「何を云うか」
山の中腹と思しき場所で、ついに男が足を止めた。タダキと呼ばれた男はキクを顧み、勢い込んだ様子で告げる。
「キク、おまえは分かっておらぬ。分かっておらぬようだからはっきり云おう。これは他の誰でもない、おれの為にしていることだ。おれはおまえを失いたくない。だからこうして馳せているのだ」
「え……」
「おまえはかつておれに云ったな。自分は生まれてはならぬ娘であったと。だが、そんなことはない。この世におまえの居てはならぬ場所などありはしない。おれは、おまえを――」
キクの眸から、涙が零れた。
されど刹那、何かがひゅんと音を立て、薄暮の山を切り裂いていく。
どっと鋭い衝撃があった。
男が見下ろした左の胸に、篦深に刺さった矢が見える。
「タダキさん……!」
男の躰がぐらりと傾いだ。
やがてふたりの手は離れ、男だけが山肌を転がり落ちてゆく。
キクの悲痛な叫びと共に、闇がすべてを呑み込んだ。
次にシギが我に返った時、其処には轟ゝと暴れ狂う川がある。
「さあ、キクよ。穢れしその身を龍神に捧げよ。さすれば鬼子の呪いも解かれ、其方もまた人としての死を許されるであろう」
キクは、崖に立っていた。
叩きつける雨の中、白い死に装束を身につけて、ぽつねんと立っていた。
髪も、頬も、装束も、すべてが濡れそぼっている。
故に誰も気づかぬのであろうか。
キクは、泣いていた。
死人のように真白い顔で、微笑みながら泣いていた。
「タダキさん。今、会いにゆきます」
ゆっくりと宙へ倒れ込み、キクは崖から身を投げた。
濁流が娘を丸呑みし、深い、深い、川の底へと沈めてゆく。
川底にはただ、闇があった。
冷たく、何の音も聴こえない、雪夜のような闇だけがあった。