表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鵺の哭く夜  作者: 長谷川
7/10

烏珠の夢

 この世には、決して人の抗えぬ自然の摂理と云うものがある。

 例えば山がそうだ。山は時に恵みをもたらすが、同時に奪う。雪崩を起こしたり、大水おおみずを呼んだりして、人の営みを容易たやすく壊す。

 山の主とはそうした摂理の権化であると、シギはクマタカから教わった。

 たれよりも深く山を知り、寄り添い、護る者。

 すると山も彼の者に応え、並外れた長寿を与えると云う。ただの獣も百年生きれば山の神モノノケとなる。山の王、と呼び畏れるに相応しい存在に。


 この山の主は、下手をすればもう八十年も生き続けているらしい。定命を外れた老熊は今、ケモノとモノノケのあわいに在った。

 なればこそ、であろうか。あのクマタカですら主を討つことあたわず、せいぜい左眼を射抜いてきずをつけるのが関の山であった。


 その主が今、猛り狂っている。

 己が領分を侵しに現れた人と鵺とを前にして、猛り狂っている。

 山の夜が明けなくなってから、ほとんどの獣は何処いずこかへ去ったと聴いていたが、主はまだ此処にいた。たったひとり、山を棄てずに留まったと云うのであろうか。


「食い物も尽き、ともと云えばもう鴉くらいしかおらんだろうに……まったく物好きなことだな、主よ」


 気怠いからだもたげてシギが云えば、隻眼の熊が低く唸った。鵺はすっかり怯えて腰を抜かし、逃げることも叶わぬようである。

 だが、それでいい。この手の獣は逃げるものを見ると追う習性がある。主がふたりを見つけてもすぐさま襲ってこないのは、動かず騒がず居る為だ。


 鋭い牙を剥き出しにして、主はシギらを睨んでいた。どうやらまずは此方こちらの出方を窺う気らしい。

 故にシギはゆらり、かしの木に手をつき立ち上がった。支えが無ければ立ってもおれぬ程に酔っているが、幸い、頭は冴えてくる。


(不思議だ)


 あんなに憎く恐ろしかった山の主を前にしても、今のシギは平静だった。恐ろしくはない。取り乱してもいない。むしろ朋輩にそうするように、よく来てくれたと抱き交わしたい衝動すらある。


「主よ」


 とシギは語りかけた。ただの呪われしケダモノだと思っていたものが、今、いたく尊貴な生き物に思えて、シギの胸は高鳴っていた。


「なあ、主よ。おれは今日までおまえを恐れ憎んできた。殺してやろうと企んだことも一再ではない。おれの一生はおまえを殺す為にあると、そう信じて疑わぬ日ゝもあった。だが今は違う。おまえはおれを救いに現れた。そうだろう?」

「シギ、何を……!」

「もういいんだ。思い残すことは何も無い。むしろおれのような愚か者は、これ以上生きていたところで益がない。これより先も、無意味な穀潰しとしてさもしく生きてゆくくらいなら――」


 鵺の聲を遮り、シギは微笑わらった。涙が一筋頬を伝ったが、構わない。


「おれを食らえ、主よ。そして取り戻せ。おまえの力と、この山を」


 ひぐまが吼えた。まるでシギの言葉が通じたかのように、小山の如き巨体からだが持ち上がり、右腕を振りかぶる。


「駄目!!」


 夜をつんざくその聲は、誰のものであったのか。


「鵺よ、あの人を護って……!!」


 どろりと、闇が蠢いた。

 それはキクの瞼の下から溢れ、夜の闇と混ざり合う。

 かと思えば闇は月下で翼を得、くちばしを開いて鋭く哭いた。耳を塞ぎたくなる程の金切り聲に、シギも主も身の毛が弥立つ。


(なんだ、あれは)


 シギは我も忘れて呆然とした。

 キクの眼より流れ出た深黒の鳥は鷹のようにも、鴉のようにも見えた。大きい。

 その巨鳥が翼を広げ、猛烈な勢いで迫ってきた。あっと思った時にはもう遅い。


「シギ……!」


 誰かに名を呼ばれた気がした。

 されど答える間も無く鳥に呑まれ、五識が、闇に覆い尽くされた。



              *   *   *



 川の中に居た。


 凄まじい勢いで流れゆく、闇の川の底である。


 シギはこうべかいなで庇いながら、ゆっくりと目を開けた。

 しっかり両足をついていないと、吹き飛ばされそうな程強い風が吹いている。否、果たしてこれは風なのか、あるいは水か。とは云え凍えるような寒さはないし、不思議と呼吸もできている。


何処どこだ、此処は)


 何も無い、闇。見渡す限りの闇。己の手足は見えているのに、それ以外すべてが黒く塗り潰されている。聴こえてくるのは、吹き荒ぶ闇のたけりだけ。


(おれは、死んだのか)


 だとすれば此処は黄泉の国と云うことになるが、どうにも違うような気がする。死とはもっと冷たく、苦痛を伴うものだと思っていた。躰が端から徐ゝに千切られ、やがては無に溶けてしまう、そんなものだと。


(地面はある……のか)


 いつの間にか草履が脱げた足の裏で、闇の底をまさぐってみる。其処には確かに地面と呼べる感触があった。ほんの僅かざらついていて、されど少し温かいような。


(……進んでみよう)


 己の居場所が分からねば、帰ることも溶けて消え去ることもできぬ。シギは嵐の中を進むように慎重に、かつ力を込めて歩き出した。

 相変わらず、風は強い。気を抜けばたちまち飛ばされそうである。

 時折水泡の湧き立つのに似た音がするので、やはり此処は水底みなそこなのやも知れぬ。ところがやがて、耳を支配する唸りの中に、聴き覚えのある聲が混じり始めた。


 ひょおう、ひょおう、と。


(鵺の、聲)


 おぞましき人食いの黒き異形。なれど今は他によすがとするものがなく、シギは聲に向かって歩き始めた。

 程なく闇の向こうに光の染みが見えたかと思えば、次第に大きくなってゆく。シギが近づいていると云うよりも、光の方から此方こなたへと迫ってきているようだ。


「――キク」


 まばゆさに目が眩んだ刹那、シギは思わぬ呼び聲を聴いた。

 知らぬ男の聲に顔を上げれば、眼前に粗末な家がある。シギの家より小さく草葺きの、漆喰が剥がれかかった家である。


「タダキさん」


 その家の前で振り向いた娘の姿に、シギはただただ目をみはった。娘はシギが知るより幾許いくばくか若い、唄うたいのキクであった。


(いや、しかし、目が開いている)


 と、シギは綻びだらけの衣に身を包んだキクを見やる。齢十五か十六か、華の年頃と見ゆるキクは、立ち竦むシギを見てあてやかに笑った。

 彼女のふたつの眼窩がんかには、烏珠ぬばたまの如き眼が収まっている。くぬぎの実のようにくりくりとした、愛らしいひとみである。


「ああ、またそんな馴れないことをして。左様な細腕で薪割りなど無理だ、貸してごらん」

「いけませんわ、タダキさん。お気持ちは嬉しいですけれど、わたしと共に居るところを見られたら、また何を云われるか……」


 若かりし日のキクは美しく、されど何かに怯えていた。すると視界の端から不意に誰かの腕が伸び、彼女が手にしたまさかりを半ば強引に掴んでしまう。


「構わんさ。おれはいずれこの里の長になる男。故に皆、表立って雑言を吐いてくることもない。まあ、仮に吐かれたとしても気にせんし、逆に遣り込めてやる気でいるんだがな」

「ですが噂は立つでしょう。先日もわたしと度ゝ会っていることを、長様から咎められたと聴きました」

莫迦莫迦ばかばかしい。そんなもの、いちいちかかずらっておれんさ。そもそもおれは、鬼子の伝説など信じておらん。次の日蝕が何時いつ起こるかなんて、里で知っている者はいないだろう。だのにその年偶ゝたまたま生まれた者を、忌み子と蔑むなぞどうかしている。それがもし親父の子であったなら、誰も文句は云うまいに」


 云いながら、逞しい腕の主はぱかりと小気味良く薪を割った。隣で胸を押さえたキクの手は、よく見ればあちこち腫れて血が滲んでいる。薪割りが上手くできぬあまりに、肉刺まめができて潰れてしまったのであろう。


「……ですが父は墜死し、母も不治の病にたおれました。生まれる筈だった妹は流れ、里はずっと凶作で……」

「考えすぎだ。親御さんのことは確かに気の毒だった。されどいずれも不幸な巡り合わせが続いただけだ。そうなると皆、何かを誰かの所為にしたくて堪らなくなる。人の世とはそういうものだ。キク、おまえの所為ではない」

「……」

「おれは信じぬぞ。厄呼びの子など」


 云って、男が不機嫌に振り下ろした鉞が、またもたきぎを両断した。

 ところがその時、びょうと闇が暴れ狂い、目の前の光景を掻き消してしまう。シギはひたすら呆気に取られた。


「今のは、一体……」


 呟いたところで、また聲がする。今度も闇の彼方から。

 シギがいざなわれるように歩き出すと、再び光の染みが見えてきた。豆粒のような光は一気に肉薄し、闇に開いた穴の如く、シギに未知の情景を見せつける。


「――キク、遅れるな!」


 今度は何処ぞの山の中だった。誰のものとも知れぬかいなに手を引かれ、苦しそうに馳せるキクが見える。ふたりは道なき道を駆けていた。まるで噂に聴く九尾山きゅうびやまの如く深く険しい山である。


「まったく、親父もどうかしている。水神を鎮める生け贄などと……!」


 男の聲は怒りに震えていた。かなり長い距離を駆けてきたらしく、呼気は切れ切れ、足取りも些か覚束なくなっている。なれどふたりは足を止めなかった。岩だらけの急峻な斜面を、手を取り合って登ってゆく。

 キクは浅い編み笠を被り、せなには風呂敷を負っていた。それは見るからに旅の装いで、これから何処か遠くへゆくつもりなのだと、シギにそう予感させる。


「ですが、タダキさん。やはり里へ戻った方が……でないとわたしだけでなく、タダキさんまで……見つかればどのような目に遭うか、分かったものではありません。これ以上わたしの為に、迷惑をかけたくない……!」

「何を云うか」


 山の中腹と思しき場所で、ついに男が足を止めた。タダキと呼ばれた男はキクを顧み、勢い込んだ様子で告げる。


「キク、おまえは分かっておらぬ。分かっておらぬようだからはっきり云おう。これは他の誰でもない、おれの為にしていることだ。おれはおまえを失いたくない。だからこうして馳せているのだ」

「え……」

「おまえはかつておれに云ったな。自分は生まれてはならぬ娘であったと。だが、そんなことはない。この世におまえの居てはならぬ場所などありはしない。おれは、おまえを――」


 キクの眸から、涙が零れた。

 されど刹那、何かがひゅんと音を立て、薄暮の山を切り裂いていく。

 どっと鋭い衝撃があった。

 男が見下ろした左の胸に、篦深のぶかに刺さった矢が見える。


「タダキさん……!」


 男の躰がぐらりと傾いだ。

 やがてふたりの手は離れ、男だけが山肌を転がり落ちてゆく。


 キクの悲痛な叫びと共に、闇がすべてを呑み込んだ。


 次にシギが我に返った時、其処には轟ゝと暴れ狂う川がある。


「さあ、キクよ。穢れしその身を龍神に捧げよ。さすれば鬼子の呪いも解かれ、其方そなたもまた人としての死を許されるであろう」


 キクは、崖に立っていた。

 叩きつける雨の中、白い死に装束を身につけて、ぽつねんと立っていた。

 髪も、頬も、装束も、すべてが濡れそぼっている。

 故に誰も気づかぬのであろうか。


 キクは、泣いていた。


 死人のように真白い顔で、微笑みながら泣いていた。


「タダキさん。今、会いにゆきます」


 ゆっくりと宙へ倒れ込み、キクは崖から身を投げた。

 濁流が娘を丸呑みし、深い、深い、川の底へと沈めてゆく。

 川底にはただ、闇があった。

 冷たく、何の音も聴こえない、雪夜のような闇だけがあった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ