逃避行
シギは山を馳せていた。
息せき切らせ、キクを背に負いながら、木ゝの間の闇溜まりを馳せる。馳せる。
これでも元は猟師の端くれだった男である。山のことはただの里人よりはよく知っていた。山道を外れて麓へ至る道は、ある。平生人の寄りつかぬ間道を下るのは恐ろしかったが、今はそれよりずっと恐ろしいものが、すぐ其処に迫りつつあった。
「本当なんだな、キク。鵺祓いというのは、鵺と思しき者はすべて斬ると――鵺が見つかるまで里人をひとりずつ殺してゆくものだと、確かにそう聴いたんだな?」
「はい。その所為で里人の大半が死に、廃れた里があったとも聴きました。このままではシギさんもわたくしも殺されてしまいます。一刻も早く逃れなくては……」
耳元で聴こえるキクの言葉に、怖気が走った。山への畏れと死への恐れで、真夏だというのに歯の根が合わぬ。
キクから鵺祓いの正体について聴かされたのは、クマタカがヤトリを連れて離れた直後のことであった。ふたりきりになり、シギが己の不始末を詫びようとしたところで、にわかにキクが云ったのだ。
「お逃げなさい」
と。
「かつて北国で噂に聴いたことがございます。鵺と云う妖は鵺祓いにしか討てぬものである、と。どれだけ高名な僧を招いても、できるのは人の世からほんの一時遠ざけることだけ。鵺を完全に滅するには、どうあっても鵺祓いの力が要るそうです。されど……」
鵺祓いは僧のような法力を持たぬ。あるのは鵺を祓うこと能う殺しの力だけ。
故に鵺祓いは鵺の疑いのある者をひとりずつ誘き出し、殺してゆく。キクの聴いた話では、鵺祓いとはそういうものらしかった。
だとすればあのヤトリという鵺祓いもまた、シギとキクを山中へ誘い、人目につかぬところで殺そうとしているに違いない、と、キクはそう云うのである。
「わたくしはこの足です。加えて目も見えぬとあっては、シギさんと共にはゆけません。ですからどうかお逃げになって。ヤトリさんの狙いは貴方です。あとのことは、わたくしが何とか致しますから」
シギの長着に縋ってキクは乞うた。その必死の様を見て、シギは逃げ出すことを決意した。
しかしキクを置いてはゆけぬ。シギを庇い逃がしたと知れば、あの能面のような男がキクに何をするか、分かったものではない為である。
(逃げなければ)
よってシギは、キクを背に負い駆け出した。
里へ戻ればヤトリに見つかり、殺さるる。ならばこのまま麓へ逃れ、奴の目の届かぬところへ身を隠すしかないであろう。
里人に報せるべきかとも思ったが、シギとキクが逃げたと知れば、ヤトリはきっといずれかが鵺と踏んで追ってくる。さすれば里はひとまず安全であろう。鵺祓いの正体を報せるのは、無事逃げおおせてからでも遅くはない。
(タカ爺は無事だろうか)
唯一心に懸かるのは、ヤトリとふたり、山へ消えたクマタカのことであった。シギとキクが休んでいたあの場所からそう遠くへは行っていないだろうが、シギはヤトリに見咎められることを恐れ、彼のあとを追わなかった。
なれど里でもっとも山の地理に詳しいのはクマタカである。とすれば逃げたシギらの追跡の為、ヤトリもクマタカを手にかけることはせぬだろうと思われた。
左様に己を納得させて、緩い勾配を下へ、下へ。間道はあちこちから枝葉が伸び、シギの視界を遮って、駆け抜けると闇が迫ってくるような錯覚を覚えた。
途端に恐怖で身が竦みそうになるも、歯を食い縛って掻い潜る。この際、己はどうなっても良かった。今はただ、キクだけでも逃がさなければ。
(もう、ひとりで逃げるのは御免だ)
風が吹く。粟が立つ。されどその度、シギは背中に感じるキクのぬくもりに奮い立った。夜を振り切って馳せる。馳せる。
(おれは、姉ちゃんを救えなかった。だから、今度は――今度こそは)
胸裡で強くそう願えば、知らず涙が溢れてきた。頬という頬を涙と洟で濡らしながら、しかしシギは止まらず進む。
息が苦しかった。喉の奥で血が滲んでいる。人ひとり背負って山を下るのがこんなにつらいものとは知らず、シギは喘いだ。
闇が足に絡みつくようで、重い。火があると目立つからと云って、提灯を置いてきたのが仇となった。わずかな月明かりに目を凝らし、のたくる木の根に躓かぬよう進むのは、それだけで精神が磨耗する。
「シギさん、少し休みましょう」
と、やがて見かねたキクが云った。
「いや、まだだ」
と、シギは答えた。クマタカと別れた地点から、まだ幾許も離れていないような気がするのである。振り向けばすぐ其処に、色の無い顔をした侍が、ぼうっと佇んでいそうで恐ろしかった。
故にシギは先を急ぐ。ところが幾らも進まぬ内に、足が縺れて倒れ込んだ。
疾うに限界を迎えていた膝は敢えなく崩れ、「あっ」と思った時には投げ出されている。キクとふたり、斜面を転がり、草叢に呑み込まれた。シギは草履が木の根に引っかかって止まったが、キクは先まで転げてゆく。
「キク」
慌てて身を起こし、キクの許へ走り寄った。彼女が斜面を転げ落ちるのは、今宵だけでも二度目である。しまったと思い惑って、シギはキクを扶け起こした。かつて姉が着ていた宍色の着物は、今や土と草に塗れている。
「キク、すまない。大丈夫か?」
「ええ……わたくしは大丈夫です。シギさんは? お怪我はありませんか?」
かような目に遭わされて尚、キクはシギの身を案じていた。その優しさが沁みると同時に、己が情けなくて堪らなくなる。
シギは力無く腰をつき、キクの肩から手を離した。目の見えぬキクは、答えが無いのを不安に思ったのであろう。闇の中、か細い指を彷徨わせ、シギの居場所を探っている。
「シギさん? どこか痛むのですか?」
「いや……平気だ。しかし何をやっても駄目だな、おれは」
シギを求めていたキクの繊手が、宙で止まった。それが行く先を失くしてゆるゆると下りてゆく様から、シギは失意の内に目を逸らす。
「ずっと昔からこうなんだ。何をやっても空回る。正しいと思ってしたことが、いつもろくでもない結果を招いて……そうして自分も他人も不幸せにしてしまう。おれは、本当に駄目な奴だ」
「そのようなことは」
「現に今だってそうだろう。最初にヤトリ殿が訪ねて来た時、大人しく山を下りていれば、こんなことにはならなかった。少なくとも、あんたを危険に巻き込むことはなかった筈だ。なのに、おれは……」
「それは違います。わたくしは、巻き込まれたなどとは微塵も思っておりません。シギさんはとてもお優しい方です。足手まといのわたくしを見捨てずに、こうして手を引いて下さって……最初にあの山崩れから救い出して下さった時だって」
「だがおれが、鵺かもしれないと云ったら?」
「え?」
「同じ瞽女の姐さん方を亡くした、あんたの悲しみを食らおうとしているだけだと云ったら?」
「な、何を云って……」
「正直に云おう。キク、おれは鵺かもしれない」
「かもしれない、とは?」
「自分でも分からんのだ。此処にあるのが己の記憶か、はたまたシギと云う他人の記憶なのか。ただひとつだけ云えるのは、おれは姉を亡くして間もない頃、鵺の聲を聴いたと云うこと」
「鵺の、聲を?」
「ああ。ある日おれが生きる気力も失くして呆けていると、不意に耳馴れぬ鳴き聲を聴いた。ひょおう、ひょおう、と泣いているような、誰かを呼んでいるような……そんな得体の知れぬ聲を」
当時里で何を為すでもなく、昼行灯の如く過ごしていたシギは、その聲に異様に惹きつけられた。じっと耳を傾けていると、まるで呼ばれているのは己であるかのような錯覚を起こし、聲の主を探してみようと云う気になったのだ。
山へ入ることをあれだけ恐れておきながら、聲に誘われている間だけは、心から恐怖が消えていた。ただ己を呼ぶ者の正体を知りたい一心で、ふらふらと山中を歩き続けた。
「そうして辿り着いた先に居たのが、キク、あんただった」
キクは息を呑んでいた。一体何を云われているのか、理解が追いつかぬ、と云った様子である。
シギとて自ずから話し出しておきながら、とても信じられなかった。己が既に化生に食われていて、死んでいることにも気づかずこうして呼吸をしているなどと。
されど鵺の聲を聴いたことだけは紛れもない事実である。聲を追って辿り着いた先で、半分土砂に埋もれたキクを見つけたシギは、ひとまず彼女を連れて帰った。
それは疵ついた者を捨て置けぬという善意の行動であったつもりだが、果たして真実そうであったのか、己にも分からない。あるいはヤトリが云っていたように、鵺の本能として子を望んだのやもしれぬ。歳の近い娘を攫い、手懐ければ、いずれ躰を重ねる好機に巡り会えるに違いない、と。
「仮にそうだとすれば、おれは己の悲しみもひとりで背負い切れず、鵺に食わせた愚か者だ」
と、自嘲を籠めてシギは告げた。
「その所為で今、里ひとつ滅ぼしかけている。そしてキク、あんたのこともこのような目に……」
「……」
「なあ、キク。嗤ってくれよ。たったひとりの姉も、好いた女も守れぬ莫迦者と、おれを嘲ってくれ。まったく本当に、何処までも救いようの無いおれを……」
シギはもはや心底愛想が尽きていた。他ならぬ己自身に失望してやまなかった。
このまま消えて無くなってしまえば良いとすら思う。もしも己が鵺ならば、キクを襲う前に尚のこと。
だのに此処まで逃げてきたのは、死ぬのが恐ろしかったからか。己こそが鵺であると、認めることを躊躇ったからか。
どちらにしても、何と醜く浅ましいことか。これこそおれという人間の正体だ、とシギは思った。己の弱さと愚かさに惑い、逃げることしかできぬ凡俗の――
「……そうですね。確かに貴方は駄目な人です」
と、その時にわかに、シギの天地が逆様となった。
突如として肩を押され、背中から倒れ込み、真円の月を真上に望む。
かと思えば月を遮るように、キクが腰へと跨った。覗き込んでくる彼女のうなじから、ほつれた髪が一房垂れる。
「折角貴方をひとり逃して、あの混ざりものの目をわたくしから逸らさせようとしましたのに。貴方はそんなわたくしの思惑を悉く無下にして――それがすべて故意ではないとおっしゃるのですから、なかなかどうして大したものです」
「……キク?」
ザアッと、黒い木ゝがさんざめいた。
遠くで再び鴉が飛び立ち、叢雲が月を隠さんと走り出す。
「ねえ、シギさん。鵺がどうして夜に哭くのか知っていますか」
「い……いや……知らないが……」
「それはね。月の下では人も獣も、皆、我ゝと同じ存在になるからですのよ」
――〝我ゝ〟?
我ゝとは、誰のことだ?
そう尋ねようとした矢先、シギの意識は輪郭を失った。まるで春陽に微睡むかの如く頭の中がぼんやりとして、まともに思考することができなくなる。
(……甘い、匂い)
花のような、蜜のような。
思わず心奪われる程芳醇な香りが、何処からともなく漂っていた。
それがキクのうなじから発せられているものだと気がついたのは、闇の中でも見事に赤い脣が降ってきた時だ。
シギはキクと接吻を交わした。深い深い接吻だった。
あまりに突然のことだったので、本来なら魂消て突き放すところだが、躰がまったく云うことを聞かぬ。四肢という四肢が弛緩して、力を籠めようにも擡げることすらできぬのである。
「キク」
接吻の合間に名を呼んでも、キクは全く答えなかった。ただ細い肢体を艶かしくくねらせ、ついにはシギの腰帯を外す。そのまま懐をまさぐられ、シギは呻きながら身を捩った。
「キク、よせ」
「あら、どうして?」
と闇の中、赤い脣が弧を描く。
「シギさん、貴方さっき、わたくしを好いた女と呼んで下さったでしょう? 本当はずっとこうしたかったのでしょう?」
「おれは――」
「良いんですのよ。この世の悲しいことはすべて――わたくしが忘れさせて差し上げますから」
――嗚呼、そうか。
こと此処に至って、シギは漸く理解した。
おれではなかったのだ。
鵺は、おれではなかったのだ。
あの悲しげな聲で哭く妖に、己が心を食わせたのは――
「キク、あんたか」
酩酊した喉から絞り出した聲は、ひどく掠れて届かなかった。
キクはもう、キクであってキクではない。シギの躰を貪るのに夢中で、呼んだところで答えもせぬ。
(本当に、どうしようもない)
己の上で啼く異形を前にして、シギは改めて自嘲した。
(おれという人間は、本当に――)
そんなひとりの男の唏きを、山が聞き届けたのかどうか。
その時不意に、草叢が割れた。
激しい葉擦れの音がして、炯ゝと閃くひとつ眼が現るる。
「誰っ」
と気づいた鵺が、着物を掻き合わせながら飛び退いた。
途端にぎらりと牙が光り、咆吼が轟き渡る。
気づけばシギは、笑っていた。
甘い瘴気に酔わされて動かぬ躰で笑っていた。
左眼に矢疵を負った巨大な羆。
彼こそが、この山の主であった。