山の主
腰に吊っていた竹筒の水を、ヤトリがさらさらとキクの踝へ掛けやった。
キクの右の足首は、暗がりの中でもはっきりと見て取れる程に腫れている。提灯の明かりが赤いせいかとも思ったが、それだけではない。
恐らく斜面を転げ落ちた拍子に挫いたのだろう。濡れた手拭いを宛てがわれると、キクはほんの少し眉を顰めた。
漸く治りかけていた足である。やっとのことで骨が繋がり、ようようひとりで歩ける程に恢復していたものを、シギが再び駄目にした。
そんな己がただ情けなく、シギは忸怩たる憶いで項垂れる。その間にもヤトリは腰帯を一本器用に外し、キクの足へと巻きつけた。
「これで如何でしょう」
「ええ……だいぶ楽になりましたわ。ありがとうございます、ヤトリさん」
倒木に腰掛けたキクの素足に触れながら、ヤトリは眉一つ動かしもしなかった。礼を云われたところでにこりともせぬ。本当に白い能面を貼りつけたような男である。
「貴殿の方は如何です、シギ殿」
「……」
シギは何も答えられなかった。己の不甲斐無さに聲も出ぬ。山の夜に惑わされ、想い人を高みから突き落とした。こんな阿呆が何処に居ようか。あまりにも惨めが過ぎて、笑いの種にすらなりそうにない。
「キク殿に大事無かったのは幸いでしたが」
と、シギが口をきかないのを見たヤトリが、さして気に留めた様子も無く言葉を続けた。
「この足で山を下るのは、難しいでしょうね」
「……」
「かくなる上は一度里へ戻り、キク殿を休ませて、再び我らのみで下山するのが最善かと」
「ヤトリ殿。アンタ様、アレを見てまだシギめを疑いまするか」
反駁したのはクマタカであった。元ゝ無愛想な老人だが、この時ばかりはクマタカも気色ばみ、重そうな瞼の下にぎらりと敵意を光らせている。
しかしヤトリはやはり表情を変えない。腰の物を恃みとしているのだろうか。なれどクマタカも今は弓を持ち、腰には鉈も提げている。
「鵺というのは、かように闇に怯える妖なので? 妖が闇を厭うなど、聴いた例がございませぬ。今のシギの在りようが、この世の者である何よりの証ではございませぬか。態ゝ山を下りずとも、此奴が鵺でないことは既に明白かと存じまする」
「云った筈です、クマタカ殿。鵺とは食ろうた相手の記憶を弄するもの。人の世に馴染む為、元の人間の為人をすっかりそのまま真似るのです。即ち日の下へ出るまでは、誰人が鵺であるかは分からない」
「戯れ言を。アンタ様はシギの身の上を知らんから左様なことが云えるのじゃ。アレは決してまやかしなぞではない。儂には分かる」
「では、私にも分かるよう説明して戴けますか。シギ殿は先刻、何に怯えていたのです?」
鵺祓いの放った淡ゝたる一言が、あたりに静寂をもたらした。どういう訳か山渡る風さえ息を潜め、枝葉の擦れる音も止む。
シギは、答えられなかった。色を失った唇は戦慄き、聲を発しようにも言葉にならぬ。先程己を苦しめた忌まわしき亡者の姿が脳裡にちらつき、堪らず嘔気を催した。こうなるとあとはもう、我が身を抱いて背を丸める他術が無い。
「凡のことは、長の屋敷で聴いたであろう」
と、代わりに答えたのはクマタカであった。
「ええ。なれど屋敷で聴いた話だけでは、シギ殿の怯えように合点がいきませぬ」
と、鵺祓いも退かずに返した。
するとクマタカは苦い顔でシギを瞥見し、やがてのそりと踵を返す。
「ならば、話そう。シギよ、ぬしは此処におれ」
* * *
事の起こりは、先の冬に積もった雪が溶け出した頃のことだとクマタカは云った。シギの姉のミユギが果敢なく命を散らしたのが、ちょうどその頃である。
ミユギとシギは、それはそれは仲の良い姉弟であった。
ふたりは早くに両親を亡くし、シギより四つ歳上のミユギは母代わりとなってシギを育てた。元来世話焼きな性格がそうさせたのであろう。ミユギはシギを、弟と云うより我が子の如く慈しんだ。
クマタカは、そんな姉弟を一歩離れたところで見守っていたと云う。何故ならばかの爺は、姉弟の父親と昵懇だった。
否、それ以前の事柄として、クマタカは濃い自責の念を抱いていた。
姉弟の父母が死んだのは、猟師としての己が不徳の所為だと云うのである。
「この山には主が居る」
と、下草を踏み締めながらクマタカは云った。
もう三月も日が照っていないせいだろうか。夏の盛りだと云うのに、山肌は落ち葉に覆われていた。
しかもただの枯れ葉ではなく、緑のままの落ち葉である。このまま夜が明けなければ、山は早晩、死を迎えることとなるであろう。
「主と云っても、かの九尾や大神の如き魑魅魍魎の類ではない。もう随分長く、この山の獣どもの頂点に立っておる老熊じゃ。儂は若い頃からずうっと奴を狙っておってな。これまで幾度も山中で相対したが、ついに討つこと能わなかった。……そんな折りじゃ。シギの両親が柴刈りに出た先で、主に襲われ命を落としたのは」
この山の主が人を襲うのは、それが初めてのことではない。主は自ら人の領分を侵すような真似はしなかったが、人が己の領分を侵した時には容赦無く牙を剥いた。里人たちは狂暴な主の存在に頭を痛め、猟師を育てては山へ放ったものの、奴を討ち取れる者はいっかな現れなかったという。
「里人は皆、主を畏れ、猟師を志す者は年ゝ数を減らしていった。されどある日、シギが儂を訪ねてきてこう云った――両親の仇を討ちたい。故に猟師の技を教えて欲しい、と」
「……」
「儂は止めたが、シギはてんで聞かなんだ。放っておけば単身山へ分け入って、主に果たし合いを挑みそうな剣幕であった。となれば儂も看過する訳にはゆかぬ。仕方無しに奴を弟子とし、弓の技を教えた。なれどそれもまた、ひとつの大きな過ちであった」
「囚われてしまいましたか。山の主への復讐に」
老爺はついに足を止め、僅かばかり頷いた。やや背の曲がった後ろ姿は弓だけでなく、然許り重い業を背負っているように見えた。
「弓の引き方を覚えたシギはある晩、たったひとりで主を探しに山へ出た。そして何とも数奇なことに、主を見つけあとを尾けた。シギは風下から主を追ったでな。主も暫くシギに気づかず、これは討てる、と思ったそうな。しかし――」
その日、シギはミユギに行き先を告げていなかった。ただ「狩りへ出る」と伝えただけで、主を追うとは報せなかった。
姉が不安に駆られぬよう、計らったつもりだったのであろう。されどそれが仇となった。ミユギはシギが狩りに行く際、必ず身に帯びていた熊除けの鈴が、家に置かれたままであることに気がついた。
老熊に父母を殺された娘である。当然ミユギは弟の身を案じた。その晩に限っては、弟が敢えて鈴を置いていったことに思い至れる筈もなかった。
ミユギは鈴を届けようと弟を追った。夜の山を馳せ、弟の名を呼ばわり、主がいるとも知らずに提灯を翳して――
「ミユギは己の居場所を自ら主に教えてしまった。当然、主は――ミユギを襲った」
己が縄張りを侵されたと知った主は、怒り狂ってミユギを薙ぎ倒した。爪で引き裂き、肉を食い破って、うら若き娘の肌を余すことなく血で穢したという。
シギはその一部始終を見ていた。とっさに姉を助けようと駆け出したそうだが手遅れであった。
ミユギは熊に食われながら、弟の姿を認め、蚊の鳴くような聲で云った。
「逃げなさい」
と。
「以来、シギはあの様じゃ。山に踏み入ればミユギの亡霊に怯え、己が過ちに怯え、ついには弓も引けなくなった」
老人の肩は震えている。皺だらけの手が、提灯の明かりの中で悵然と目元を押さえた。
「すべては儂の咎じゃ。あの日、あの時、儂が主を討っておれば、シギがあのような憶いをすることも無かった。ミユギやチドリを死なせることも無かった……」
「チドリとは?」
それまでじっと口を閉ざしていたヤトリが、漸く聲を上げた。ずっと背を向けていたクマタカも、肩越しにヤトリを顧みた。その薄い唇に、自虐的な笑みがある。
「ああ、チドリとはシギの母御よ。……儂はずっと、あの女に惚れておった」
* * *
元来た道を引き返したところで、クマタカが愕然と足を止めた。
ヤトリも彼の隣に佇み、造り物めいた眼で、誰もいない倒木の上を眺めている。
「……何処へ行った?」
嗄れた聲で、呻くようにクマタカが云った。
妖しく浮かぶ月の下から、シギとキクの姿が消えていた。