鵺探し
己の心音と息遣いばかりが、やけに大きく聴こえていた。
夜の山は、暗い。暗すぎる程に暗い。細い細い山道の左右に伸びる欅や楠木が、皓ゝたる月明かりの下に枝葉を広げ、奇っ怪な模様を描いている。
暫く山に入ることを避けていた所為で、シギはまず木ゝの異様な育ち方に驚いた。ずっと夜が続いている為だろう、草木は日の光を求めて未だかつてない程に伸び上がり、天井の如くシギらの頭上を覆っている。
(……獣の気配もない)
と手にした提灯の明かりの中で、シギは忙しなく目を動かした。
生温い夏の夜風が、びっしりと汗に濡れた額を不気味に撫ぜてゆく。額に貼りつく前髪の感触が、今宵はいつになく不快であった。
* * *
「鵺祓い?」
とシギが尋ねたのは、これより半刻程前のことである。
ヤトリと名乗った侍とふたり、シギの家を訪ねてきたクマタカは、勿体ぶって頷いた。この老練の猟師は歳のわりに健脚で、今でも現役を張っており、里山のことなら誰よりもよく知っている。
故に里長からヤトリ殿の案内を頼まれた、と、クマタカはやや憂鬱そうにそう云った。この爺が眠たそうに瞼を垂れているのはいつものことだが、今宵は些か事情が違うようである。
「はい。鵺祓いとは読んで字の如く、鵺を祓うことを生業とする者のことです」
「それが、あんただってのかい」
「はい。この里の夜の明けぬのは、鵺の仕業と見ております。何処かに人の姿を借りた鵺が居て、己が正体を隠すべく、夜を留めているのです」
「へえ。鵺という化け物に、そんな力があるとは知らなんだが……」
「確かに、物の影に潜んで哭いているだけの鵺ならば、左程脅威にはなりませぬ。されど一度人に憑けば、鵺は妖力を蓄えます。そして憑いた人間の悲しみが深ければ深い程、その力を増していく」
「人間の悲しみ……?」
「左様。鵺とは人の悲しみを食らって育ちます。孤独や喪失、絶望――そうしたものに寄り添うふりをして近づき、己の糧とするのです」
「……それは、一体どういう……」
「聴こえませんか、鵺の聲が」
「聲?」
「鵺は心に疵を負った者に囁きかけます。閨での睦言の如く、甘美で優しい慰めの言葉を」
――近う寄れ。近う寄れ。
汝は何も悪くない。汝の負うべき業はない。汝が苦しむことはない。
その悲しみを我に与えよ。さすればすべて食ろうてやる――
鵺はそんな風に囁くのだと、ヤトリは云った。悲しみの渦中にある人は甘い誘惑に逆らえず、鵺に己が悲しみを与えて食わせてしまうとも。
すると鵺はすくすく育ち、やがて宿主の魂さえ食ろうてしまう。そうして空になった肉体には鵺が宿り、妖でありながら人に紛れる。
鵺とは影の中でしか生きられぬ幻妖であるが故に、実体を欲するのだ。鵺の入った肉体は老いることを知らず、鵺祓いに討たれぬ限り、永遠に生き続けるのだと云う。
「そう、なのか……それは随分と、恐ろしいことだな……」
「ええ。しかし何より恐ろしいのは、鵺が子を欲するということ」
「子を欲する?」
「例えばシギ殿、貴殿の正体が鵺であったとして、どこかのおなごと契ったとしましょう。すると産まれてくる子はおしなべて鵺であるのです。これが男女の逆でもまた然り。即ち鵺は、繁殖の為に人を食らうということ――」
「お、おれは鵺などではない……!」
ヤトリの例え話に虚を衝かれ、シギは思わずそう叫んでいた。しまったと思い至ったのは、キクが驚いた様子で顔を向けてきた時である。
「なれどヤトリ殿の話では、鵺は食った相手の記憶まで己が物にすると云う。そもそもシギよ、ぬしはミユビが死んでからというもの、ずっと鬱ぎ込んでおったではないか。キク殿を迎えて幾分かマシになったものの、ひもすがら死人のような顔をして、ろくに口もきかず……」
「タカ爺、あんたまさかおれを疑ってんのかい。そりゃ、あんたの弟子になり損なったのは悪かったさ。申し訳ないと思ってる。だけどそれとこれとは……!」
「話が違うと云うのなら、つべこべ云わず共に来よ。山を下り、日を浴びて、ぬしが化け物なぞではないことを証してみせようではないか」
「厭だね、おれは鵺じゃない! なのにどうして態ゝ山を下りる必要がある? あんただって知ってるだろう、おれは、山にはもう二度と――」
「儂とて疑いたくて疑っておるのではない。なれど里の存亡が懸かっておるのじゃ!」
唾を飛ばして一喝され、シギは図らずも身を竦めた。クマタカの剣幕は常にない程で、膝の上に置かれた拳が瘧の如くぶるぶると震えている。
「……誤解なきよう申し上げておきますが」
と、其処へ果敢にも美貌の侍が口を挟んだ。
「我ゝが今日此処へ来たのは、里でもっとも最近親しい者を亡くしたのが貴殿だと伺ったからです。誰人が鵺であるのかはっきりするまで、順繰りに同じことを繰り返します。されどクマタカ殿は、真っ先に貴殿の名が挙がったのを聴いていきり立ち、貴殿が化生などであるはずがないと訴えておられました。貴殿の身の潔白を証したいと誰より強く願っておられるのは、他でもないクマタカ殿です」
シギは唖然としてクマタカを見た。偏屈者として名の知れた老爺は、うつむいたまま顔を上げようとしない。
しかし彼の薄くなった毛髪と、老斑の浮いた頭皮を間近で見て、嗚呼、この人は老いたなとシギは思った。クマタカは幼子を遺して夭逝した夫婦に代わり、シギと亡姉の面倒を見てくれた親代わりである。
故にシギは、幼い頃からクマタカを良く知っていた。姉を喪い、弟子になり損なってから随分疎遠になっていたが、この爺の本性は今も変わっておらぬらしい。
「……ごめん、タカ爺。だけどおれ、本当に鵺じゃないんだ」
「分かっておる。分かっておる。なればこそ共に来よと云っておる。ぬしが麓へ下りることを拒んだと知れば、里の者は皆ぬしを疑うであろう。儂には、それが耐えられぬ」
クマタカは深くうなだれていた。彼の皺だらけの手が力無く目元を押さえるのを見て、シギは己の不孝を恥じた。
「でも、おれ……おれは――」
「シギさんではありません」
「え?」
「この里でもっとも最近親しい者を亡くしたのは、シギさんではありません。わたくしです」
ところが不意にそのような聲が上がり、シギは大層驚いた。毅然と胸を張り、少しも怖じることなくそう告げたのは、他ならぬキクであった。
「貴女は、キク殿、とおっしゃいましたね。瞽女としてこの地に逗留されているという……」
「左様です。今は足の怪我の養生の為、シギさんのお世話になっております。故にわたくしも今はこの里の人間です。親しい方を亡くした者から順にとおっしゃるのでしたら、どうぞわたくしからお連れ下さいませ」
「キク」
「――わたくしが時間を稼ぎますから、シギさんはその間に……」
盲目のキクは手繰り寄せるようにしてシギの手を掴み、耳元でそっと囁いてきた。その間に、と云うのは身を隠せと云うことか、はたまた肚を決めろと云うことか。
どちらにせよ、キクはシギを逃がそうとしていた。彼女の細い指にぎゅっと手を握られると、心の臓を直接掴まれているのかと思う程、胸が切なくてたまらなくなる。
(キクは、おれの為に……)
自惚れてしまいそうだった。キクも己に思慕の念を抱いてくれているのでは、などと。
されどおなごに夜の山を歩かせるのは忍びない。山は危険だ。危険なのだ。いくら玄人のクマタカがついてゆくと云っても、その事実に揺るぎはない。
仮にキクまで姉と同じ目に遭おうものなら――
「分かった」
そう思いを馳せた時、シギはたまらず聲を上げていた。
「分かったよ。……おれも行こう」