鬼子の唄
ぺん、と琵琶の絃が鳴いて、灯明の火を幽か揺らした。
撥が絃を弾く度、琵琶は様ゝな音を出す。荘厳な音色を掻き鳴らしていたかと思えば不意にいと淋しげに、はぐれた音が闇を揺蕩う。
シギはこの音色がとかく好きであった。故に今宵も囲炉裏の傍に筵を広げ、その上に横様になって、灯明に赤く照らさるるキクの姿を眺めている。
「遥か、遥か東国の、山深くにあり暴れ川。水神鎮めよと里人が、贄と呼んだは鬼子の娘」
琵琶の響きに併せ、キクが朗ゝと唄い始めた。瞽女独特の節回しは、幾度聴いてもシギの心に沁み渡る。
特にこの鬼子の唄は、数ある瞽女唄の中でシギが最も好むものであった。キクもそれを心得ているから、細い聲を撓わせて琵琶の音色に憶いを載せる。
「厄呼びの年に生まれし娘、数多の禍招きけり。されど娘に焦がれし男、贄の宿命を哀れと思い、娘の手を取り駆け出づる。二人が馳せしは黒き山、九尾が治めし黒き山。追って縋るは猟師の息子、放たれし矢は夜を裂き――男の胸を、射抜きたり」
たっぷりと間を持たせ、べべんと勿体つけてから、キクは男の死を唄った。この時決まって泣くように震えるキクの喉が、シギはめっぽう好きだ。
「囚われし悲運の娘、穢れしその身を里の為、いざ擲たんと崖に立つ」
琵琶の音がにわかに激しくなった。腕を枕としたシギの目に、轟ゝと暴れ狂う川が見える。
娘は悲愴な覚悟で以て、川に身を擲った。両手を後ろに縛られたまま、濁流に呑み込まれ、あっという間に沈んでいく。
水の化身たる暴れ龍の肚の中を、娘は揉みくちゃにされながら流された。崖の上からそれを見送る覡どもが、幣を振り回して祝詞を唱う。
暗い暗い雨の日のことだった。キクの唄と琵琶の音を聴いていると、嘘か真かも知れぬその情景が、シギの目にも浮かぶようだった。
鬼子の唄は娘の姿が崖下に消え、やがて雨が上がったところで終わりを迎える。雲間から光が下りてくる様を、キクは琵琶の音一つで完璧に描いてみせた。なれど最後は重ゝしく、不穏な響きを以て唄は終わる。
終わりの音は娘の命が閉じるのを表しているのだと、シギは勝手にそう思っていた。晴れ渡る空と娘の死という明暗の対比は、殊更胸に刺さるから。
「やっぱりおれぁ、この唄がいっとう好きだなあ」
と感慨に耽ってそう云えば、絃の震えをそっと押さえて止めたキクが、たおやかに微笑した。
「シギさんは、このお唄を聴くといつもそうおっしゃいますね」
「何か変かい」
「いえ、いえ。それ程想っていただけて、鬼子の娘さんもきっと本望でございましょう」
からかっているのか何なのか、紅を引いたように赤い唇を隠してキクが笑った。その笑い方がまたいじらしく、シギはくらりと眩暈がしたが、幸いキクにシギの様子は見えていない。瞽女とは決まって盲いた女であるからだ。
現にキクもこの里へやってきてからというもの、いや、もっと以前から、二つの瞼は閉ざされたまま開くことはついになかった。十六の頃までは目も見えていたらしいのだが、病で視力を失い、以来瞽女として芸を磨いて生きているのだという。
「しかし、あんたのおかげでおれは退屈をせずに済んでいる。こうも夜が明けないとあっちゃあ、あんたの唄を聴くくらいしかやることがないからな。里の年寄どもは、稲のことはもう諦めろと云うし」
「いいえ。わたくしはこうして唄うことでしか、ご恩返しができませんので。シギさんには何から何までお世話になって、本当に感謝しているのですよ」
「いやあ、おれは大したことは何も……困っているおなごがいたら、助けてやるのが男ってもんだろう?」
「まあ、頼もしい」
「あ、当たり前のことを云っているだけだ。からかわないでくれ」
「からかってなどおりませぬ」
相変わらずくすくすと笑いながら、キクは細い指をまどかな顎へ宛てがった。琵琶を奏でるキクの手は、野良仕事で節榑た里の女のものとは違い、ひどく繊細で美しい。
その手を眺めているだけで妙な気を起こしそうになり、シギは慌てて跳ね起きた。瞽女と呼ばれる女たちは、時に夜鷹のような仕事もすると云う。
故にこのキクもまた、乞えば夜伽をしてくれるのやもしれぬ。されどシギは、じっと辛抱を続けていた。己の善意をまぐわいの為の前座と思われるのが、ひどく厭わしかったからだ。
「そ、そう云えば足の調子はどうだい。もうだいぶ良くなったように見えるが」
「ええ。お陰様で杖さえあれば、もうひとりでも歩けます。されど体の方が衰えていて、少し歩くとすぐに疲れてしまうので、もう暫く養生が必要ですけれど」
「それは勿論構わんが、足が完全に治ったら、どうするんだい」
「その時は、山を下りて寺へ戻ります。姐さん方のことを皆に伝えねばなりませんから」
「しかし、寺は東国にあるのだろう。目の不自由な女がひとりで帰るには、ちょっと遠すぎやしないかい」
「そうですね。されど帰らねば、皆が我が身を案じます。わたくしも目を失ってからひとりになるのは初めてなので、無事に帰り着けるのか、些か不安ではございますが……」
キクは指の腹でそっと鉉を撫でながら、面を憂いで煙らせた。
シギがキクを助けたのは、冬が明けて間もない頃のことだ。キクは幾人かの瞽女たちと各地を巡遊していたのだが、この山で地滑りに巻き込まれた。長雨が上がったばかりのことで、山の土が緩んでいたのである。
迫り来る土砂に押し流され、崖から転げ落ちた瞽女たちはみな生き埋めとなった。幸か不幸かキクだけは土を被ることを免れ、辛くもこうして生き延びたが。
其処へたまたまシギが通りがかってキクを助けた。キクの足は崖から落ちた拍子に折れていたが、近頃漸く良くなってきたように見える。
なれど快癒を歓ばしく思う一方で、シギは物淋しくもあった。キクが里を去れば己はまたひとりきりである。シギはこの山を下りることができない。ならば……。
「あ、あのさ、キク」
「何でございましょう?」
「おれに、あんたと同い年の姉がいたことは、話したよな」
「ええ、伺いましたとも。この衣も、帯も、髪留めも、すべてお姉さんのものだったのでしょう?」
「ああ、そうだ。そうなんだ。此処には女がひとり暮らすのに充分な用意がある。だから、もし、キクさえ良ければ――」
「――シギ。儂だ」
一世一代の決心は、外から響いた嗄れ声に遮られた。シギは跳び上がる程に驚いて、今のは誰の聲であったかと、キクと戸口とを見比べる。
「クマタカさまでございますね」
と琵琶を抱えてキクが云った。クマタカとは里の顔役を張っている老爺のことである。キクは目が見えない分、聲をよく聞き分けた。狩り名人であるクマタカは、シギのかつての師でもあるから、居留守を使う訳にもいかない。
「何の用だい、タカ爺」
と仕方なしに、シギは土間へ下りて応対へ出た。ところが戸を開けた矢先にぎょっとする。やや背の曲がったタカ爺の後ろに、青白い顔をした侍がひとり、幽鬼の如く佇んでいた為である。
「た、タカ爺、その人は……」
「客人のヤトリ殿だ。山の外から、遥ゝ夜を祓いに来てくだすった」
「夜を祓いに?」
「鵺を、探しております」
と、痩身の侍はそう云った。
「シギ殿ですね。此処へは長殿よりお話を伺って参りました。貴殿に二、三、お尋ねしたいことがございます。里の為、どうぞ我らにお力添えを」




