夜明けぬ里
今宵もまた鵺が哭く。
ひょおう、ひょおう、と鵺が哭く。
その聲は聴く者によって笑っているようにも、唏いているようにも聴こえると云う。鵺は何が可笑しく、何が悲しいのであろうか。
今宵もまた、鵺が哭く。
* * *
大和国のとある山奧に、夜の明けぬ里があった。
全く以て奇怪なことで、その里ではある日を境にぱったりと夜が明けなくなった。山を下りれば日が昇り、暮れてまた朝が来ると云うのに、ただ里だけに朝が来ぬ。里人たちは困り果て、山の神に供物を捧げたり巫女に祷らせたりしたが、いっかな変化が見られなかった。
日が注がねば作物が育たぬ。作物が育たねば里人が飢える。
里長は頭を痛めた。このままではせっかく山を拓き、巨岩を除けて手に入れた田畠のすべてが無駄になる、と。
さては妖の仕業かと高名な僧を招いてみるも、僧は山に入れなかった。山道へ分け入ったかと思えばすぐに麓へ戻ってしまう。まるで何者かが僧の里へ立ち入ることを、固く拒んでいるようだった。
「これはもう、里を棄てるしかねえ」
と里人は口ゝに云った。里長は深く肩を落とした。里を手放すのは酷く惜しい。なれど山を出ねば皆が生きてゆけぬのである。
かような折りであった。暗い暗い山を掻き分け、ひとりの客人が里を訪れたのは。
「夜の明けぬ里があると伺って参りました」
里長の前で膝を揃え、恭しく頭を垂れたその者は、妖艶なる色香をまといし侍であった。
* * *
侍は名をヤトリといった。腰に見事な業物を提げておるので、皆、侍かと思ったが、話を聞くに武家の者ではないらしい。ヤトリは己を指して、
「鵺祓いのヤトリ」
と名乗った。鵺、とは夜になると不気味な聲で哭き出して、人ゝを恐ゝとさせる妖のことである。
「鵺は育つと夜を呼び寄せます。故に鵺の居る地は常夜となる。私はその鵺を討ちに参りました」
老いた里長でさえ見惚れる程の、端正な面差しを崩さずヤトリは云った。年の頃は二十二、三といったところであろうか。引っ詰めた長い黒髪を背まで垂らした姿はおなごのようで、袴をつけておらねば見紛うておったやもしれぬ。
聲は男にしてはやや高く、女にしてはやや低い。全く不可思議な客人であった。
なれどヤトリの言葉が真実ならば、里は再び朝を迎えることができよう。里人どもは行灯の明かりの中、膝を詰めて問い重ねた。
「しかし此処暫く、我ら鵺の哭く聲など聴いてはおらぬ。まこと鵺の仕業であろうか?」
「鵺が哭くのは実体を持たぬ間のこと。誰人も鵺の姿を知らぬのは、鵺が貌を持たぬ妖なれば」
「貌を持たぬ?」
「左様。鵺とは物の影に潜みます。影の中から哭くのです。そうして人を呼び寄せ、人の影に移り棲み、やがては人を食ろうてしまう」
里長の屋敷がざわついた。鵺が人を食らうとは、ついぞ聞いたことのない話である。集った年寄たちは皆、不安な視線を絡ませた。唯一涼しげな様子でいるのは、ただ白面の客人のみ。
「さ、左様な話は初耳じゃ。ならば食われた者はどうなるので?」
「無論、死にます。されど傍目には生きているかのように見える」
「生きているかのように?」
「鵺は、食ろうた人の皮を被るのです。その時こそ、鵺の力が最も増す時。人の姿を得ると、鵺はあたりに夜を呼びます。鵺に食われた人間は、日の下に出ると影が失せてしまいます故」
「そうか。だから夜を呼ぶのか。己が正体を隠す為に」
「ならば里人をひとりずつ、山から下ろしてみれば良い。麓にも夜がついてくるようならば、その者が鵺ということじゃ」
座敷に歓びの聲が満ちた。鵺を討つことさえ叶えば里は朝を取り戻す。三月にも渡った長い夜に、漸く明ける兆しが見えたのである。
年寄たちは安堵に顔を綻ばせた。なれどただひとり、里長だけが皺の間に影を畳んで、萎びた面を撫で下ろす。
「……しかしヤトリ殿の話がまことであるならば、少なくとも里人がひとり、鵺に食われたと云うことになる」
里長の一言で、一同がしんと静まり返った。
灯芯が身を焦がす音を聴きながら、鵺祓いが長い睫毛を伏せている。