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 一度リゼルアルヴの部屋に寄り、濡れた服から着替えて、安い酒場に二人で入った。


 普段はあまり酒を飲まないリゼルアルヴだったが、この夜は信じられないほど飲んだ。ミビダリや居合わせたゴロツキの男たちとわーわー騒ぎ、安いが味は抜群の料理を口にし、仲間が見てもリゼルアルヴだと思われないくらいに声を上げて笑った。タガルの無茶やわがままに振り回された話をして、ミビダリが真剣にタガルを罵倒し、男たちがふざけてリゼルアルヴを直接的な言葉で口説いた。リゼルアルヴはそれを聞いて恥じらうでもなく、でもまだ好きなのと叫んだ。諦められないけど、もう諦めるのと泣いた。


 気がつくと朝になっていた。いつの間にか寝ていたらしく、酔いはほとんど醒めていたが、ひどく頭が痛んだ。


「飲みな。水だよ」


 ミビダリに差し出されたグラスを受け取り、飲み干して周りを見回す。一緒に飲んでいた男たちは、みんな死んだように眠っていた。起きていたのはミビダリだけで、おそるべきことに彼女だけはまだ酒を飲んでいた。

 まず財布の心配をした。安酒であっても贅沢をするつもりだったから、結構な大金を入れてある。それとなくポケットを触り、中身があることに安心した。


「あたしが見張ってたから、大丈夫だったろ」と、ミビダリはあのにやりとした笑みを見せる。「他のやつのことは知らないがね」

「……思ったより悪い人なのね」

「そりゃそうさ。あんたとおんなじだよ。昔は客が寝ちまったらすぐスったんだ。まだ未熟だったからね、そうでもしなきゃ生きてられなかった」


 リゼルアルヴが動けることを確認してから、ミビダリは店主を呼んで、金の入ったいくつかの袋をそのまま渡した。きっとそれらは、つぶれた男たちのものだろう。


「あの、ごめんなさい、寝ちゃって……。お店、閉められなくて迷惑だったでしょう」


 店主はそう謝ったリゼルアルヴに、少しだけ驚いた顔をして、すぐに大声で笑いだした。


「うちじゃよくあることだよ、気にするんじゃない。それより、タガルって男に言っときな。『男前なクズより女に優しい不細工の方がモテるんだぞ』ってな!」

「ありがとう。伝えるわ。必ず」


 結局、リゼルアルヴは一銭も払わずに店を出た。店主のたくましい笑顔は眩しかった。

 ミビダリと並んで歩く。痛む頭で、色々な話をした。タガルのことも、リゼルアルヴ自身のことも。そして魔女のような笑みで、ミビダリは言う。


「言い伝えなんざ、たいしたことないのにね。あんたは気にしすぎなんだ。『天国に一番遠い女』? そんなもん、かの大魔女リーゼヴィットくらいだろうよ」

「そのリーゼヴィットから『リゼル』がつけられたんだから、仕方ないでしょう」

「だからってねえ、リーゼヴィットに比べたら、あんたは小物だよ。ちんけな悪事しかしてないんだからさ」

「あら、そんな風に言うの? これでも誇りをもって生きてるのよ」

「はは、悪いね。そうだね、誰だって必死になって生きてる。あたしらみたいな底辺は特に。だからこそ、名前なんかにとらわれるんじゃないよ」


 優しく力強い言葉だった。それを受け入れられたら、どれだけよかったか。リゼルアルヴの中に根を張った、名前に関するコンプレックスは、魔女の言葉では消えなかった。


 ああ、そういえば、と思い出す。組織に入る前までは、名前の言い伝えを知らなかった。だから最初の頃、仲間たちにどうして名前を笑われるのかわからなかった。


 この国には、身分ごとにつけられる名前が決まっていて、良い名前と悪い名前とがはっきりと分けられている。名前は何よりも大切なものとされているのだ。いつか死んでしまったとき、神様に名前を覚えてもらえていたら、きっと天国に連れて行ってもらえるから、という理由で。だから親になる人はみんな、縁起が良くて、独特な名前を子どもにつけてやるのだ。階級ごとにつけられる名前は決まっているが、それでも名前と名前を組み合わせたりして、どうにか良い名前を考える。


 リゼルアルヴの名前は、最悪な名前と言えた。大陸にある国々が今とはまったく違う名前だった昔、ある国を滅ぼす寸前まで追いやった大魔女リーゼヴィットからとられた『リゼル』。最下級の女を意味する『アルヴ』。この二つを組み合わせるとは、親は娘を絶対に天国に行かせないつもりだったとしか考えられない。特に『リゼル』なんて、神様に一番嫌われる名前として有名だ。


 それらを知って、リゼルアルヴは『天国に一番遠い女』と呼ばれる理由を理解した。そして、いつの間にかそれを引きずってしまっていた。


 唯一、名前のコンプレックスを取り除いてくれるのは、タガルだけだった。タガルだけがリゼルアルヴの名前を聞いても顔をしかめなかった。マトラドもそうだったけれど、彼は笑われるリゼルアルヴを庇った。庇ったということは、名前を少しは悪いものだと思っているのだろう、とリゼルアルヴは感じだ。タガルだけが、何もしなかった。だから、タガルが好きになったのだ。本当に名前を気にしていないのだと思った。思い出した。きっとこれは、忘れてはいけないことだった。


 リゼルアルヴのアパートメントの近くで、ミビダリとまた呑む約束をする。ミビダリに、最後にこう言われた。


「いいかい、リゼルアルヴ。基本的にあんたを幸せにできるのはあんただけってこと、よく覚えておきな。そして、タガルがあんたを幸せにできる唯一の他人なんだって心底思えたら、今まで我慢してたこと、全部言っちまいな」


 それだけ残してミビダリは背を向けた。あれだけ吞んでいたのに、しっかりとした足取りで。

 頭は痛むが気分はよかった。タガルが出て行った日からなんとなく重く感じていた体が、なんとなく軽くなったように感じた。


 ――こういう、気分のいいときに限って、会いたくない人に会ったりする。


 階段を一段上がったところで、そんなことを思う。嫌な予感がして、ふわふわした心が重みを持った。

 それでも上がるしかないので、勘違いであることを願いながらゆっくり部屋へ向かう。


 そして見たくなかったオレンジを見て、溜め息をつくのだ。


「……何してるのよ、タガル」


 リゼルアルヴの部屋の扉に背を預け、座り込んでいるタガルがいた。見たところ、きっと長くそこにそうしていたのだろう。彼らしくない。

 部屋の鍵は、申し訳程度のものだ。針金を差し込めば子どもでも開けられるような、飾りに近しいもの。一緒に暮らしていた頃のタガルも、そうやって勝手に入ってきていた。


 それなのに、なぜ、入らずに座っているのだろう。不思議に思うのも無理はなかった。


 足音で気づいていたはずだったが、タガルは声をかけられてはじめて顔をこちらに向けた。ゆっくりと立ち上がって、口を開き、閉じて、また開いた。


「……遅かったな」

「友達と呑んでたのよ」

「おまえが? 仲間はみんな溜まり場にいたぞ、珍しく。誰と行ったんだ」

「私の勝手でしょう。仲間以外にも友達はいるわ」


 確かにそうだと思ったのか、タガルはぐっと押し黙った。

 リゼルアルヴが知っているタガルは、こんな風に苦しそうな顔はしない。彼はいつも自信にあふれ、楽しいことを求め、誰にも捕まらなかった。険しい顔をすることもあるが、それは彼以外によってもたらされる表情であり、今こうして、眉間に深い谷を作る理由がリゼルアルヴにはわからない。


 リゼルアルヴを責めるように見る理由もまた、わからない。


「……そこをどいてくれる?」

「……おう」


 やけに素直だった。鍵を取り出して、扉を開ける。

 てっきりタガルも入ってくるのだと思って開けたまま押さえてやっていたのに、少し待ってもタガルは入ろうとしなかった。


「入らないの?」


 声をかけてようやく、ゆっくりとした動作で彼はリゼルアルヴの暗く冷たい部屋に入ってきた。

 とりあえずコーヒーを淹れることにした。コンロに火を入れ、湯を沸かす。間がもたず、玄関で突っ立っているタガルを呼んだ。


「……なにやってるのよ。座ったら? 今、コーヒーを淹れるけど、いる?」


 やはり促した通りに、軋む椅子に腰かけたタガルに、小さく首をひねってしまう。コーヒーに関して返事はなかったが、用意はすでに済んでいた。

 湯が沸くまでの間に、窓を開けたり、財産の確認なんかをしておく。こんな部屋だが、一度も盗みに入られたことはないし、リゼルアルヴの財産がどこに隠してあるか、タガル以外は絶対に見つけられないと自信を持っている。今度もまた、特に盗まれた形跡はなかった。そもそもこんな部屋に住んでいる女がそれなりの金を持っているなんて、きっと誰も思わないだろう。


 タガルが何かを言いに来たのは明らかだった。コーヒーを用意している間に何か言ってくれたらいいけれど、と思っていたが、結局コーヒーの方が早かった。


 砂糖を多めに入れる。それを見て、タガルは少しだけ驚いたような顔をした。

 こんなときに苦いコーヒーなんて飲んでいられない。いっそミルクも入れてしまいたいくらいだ。今ここにミルクがないことを、心底不幸に思った。


「それで、どうして戻ってきたの。あなたはもう、ここには来ないと思ってたのに」


 タガルの機嫌が悪いとき、大抵はリゼルアルヴから声をかける。喧嘩らしきものをしたときも、いつもリゼルアルヴから謝っていた。

 不機嫌な顔をして、タガルは言う。


「戻ってほしくなかったとは知らなかった。新しい男でも見つかったんだろ、お望みなら今すぐまた出てってやるよ」


 彼らしい言葉だった。機嫌の悪いときのタガルそのものだった。

 以前のリゼルアルヴなら、うまくなだめられたかもしれない。しかし今は違った。体の芯が冷えていくような感覚のあと、カッと体が熱くなって、気がつけば叫んでいた。


「そんなことを言うのね! あなたらしいわ! とっても!」


 タガルという男は、そういう男だ。


 ずっと自分に言い聞かせて耐えてきた。何を言われても、タガルが好きだったから何でもできた。

 戻ってきたのはタガルの方だ。出て行ったのも。そもそも転がり込んできたのもタガルだったし、不透明な関係をはじめて、続けたのもタガルだ。それなのにどうしてリゼルアルヴが責めるような目で見られなければならないのか。


 様々な思いが一気にリゼルアルヴを襲う。その勢いに流されて、自分の声で頭が痛くなりながら、叫ぶ。


「あなた、そんなことを言えば私が苦しむってわかって言ってるでしょ! あなたがそんな風なら、私だってあなたを苦しめてやるわ!」


 我慢の限界だった。感情が抑えきれない。冷静になんてなれなかった。生まれて初めてのことだ。


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