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 一人になって、家までの道のりで冷たい夜風にさらされながら、自分がかなり傷ついていることを不思議に思った。


 これだけ落ち込んでいるつもりも、傷ついているつもりもなかった。傷つくとも思っていなかった。タガルのことは、少なくともあきらめる努力をしているつもりだった。甘かった。

 もういっそ、マトラドに鞍替えしてしまおうか、と冗談交じりに考える。マトラドなら、きっとリゼルアルヴを受け入れてくれるだろうし、もし家庭を築いたら、いい父親になってくれるだろう。そんな未来は来ないけれど。


 マトラドはかつての恋人を待っている。待ち続けて、もう五年になる。彼の想いを邪魔する気はないし、リゼルアルヴはまだ、タガルのことが好きだ。冗談では言えても、本気でそれを行うことはない。そもそも、彼の恋人はリゼルアルヴとは正反対の『天国に一番近い女』だ。敵うわけがない。


 乾いた笑いが、薄く開いた口からこぼれ落ちる。情けない。色恋でこんなに落ち込むなんて。思春期の少女でもなければ、恋にうつつを抜かす権利のある人間でもないのに。

 そうやってどうにもならないことを、どうにもならないと思いながら歩いていたから、リゼルアルヴは気づかなかった。ここがいつも通っている寂れ荒んだ風俗街であり、建物の二階の窓から、彼女を恨めしげに見下ろす女がいることに。


 それがチャンバー・ポットの中身でなかっただけ、この女は優しかった。


 ざばあっとリゼルアルヴを頭にヒットした水は、彼女の意識を現実に呼び戻すには充分だった。衝撃で立ち止まり呆然とするリゼルアルヴは、耳障りな笑い声で、それをもたらしたのは頭上の人物だと気づく。それも当然だ。これだけの水が、自然にリゼルアルヴだけを狙うはずはない。


「みじめね、リゼルアルヴ! アタシを邪魔する罰よ!」


 見開かれた目と、吊り上がった唇。安っぽい化粧に、少し乱れた髪。

 ここが風俗街であることに思い至ったリゼルアルヴは、当たり前のようにその娼婦をタガルの取り巻き女であると断定した。そしてそれはまさに正解であり、二か月ほど前からタガルが逃げたがっていた女だった。


 ある意味、この女もかわいそうだ。本気になってしまったのだろう。あのタガル・ティ・トルヴァグに。


「……私を知ってるのね」

「当然よ、おバカさん! ここらじゃみんな知ってるわ! 『天国に一番遠い女』ってね!」

「あらそう。光栄だわ。あなたのような売女に覚えていただいているなんて」

「……なあに、その言い方? 気に入らないわ、ブスのくせに」

「少なくとも、あなたのその顔よりはマシな自信があるわ。鏡ってものを知ってる? あなた、乾燥しすぎだわ、唇ひどいことになってるわよ。痛くないの?」


 この通りに人はほとんど来ない。かつては栄えたとされているが、今はもう下級層の貧乏人がちょっとした贅沢をするときにしか使われない。大きな娼館はいつの間にか廃墟じみた湿っぽさをまとい、娼婦たちも絶望に支配されてしまった。いつかフェレピジアおばさんが、そう話していた。

 それもこれも、上流階級が通いやすい土地に、新しく華やかに風俗街ができたからだ。この辺りがまだ続いているのは、貧乏人や表で試せないおかしな癖のある男たちに、安い女の需要があるからだ。


 劣悪な環境の中で、この娼婦はタガルという輝く男を見つけてしまったのだろう。まるで真夜中に太陽を見つけたかのような思いだったはずだ。タガルという男は、それだけの魅力がある。中身はかなりクズだというのに。


 短く切りそろえた髪は、女らしくないとよく言われる。それでも自分が気に入っているし、何より乾きやすくて楽だから、リゼルアルヴは長らく伸ばしていない。娼婦の痛んだ赤毛と、自分の艶やかな黒髪を見比べて、あからさまに鼻で笑ってやった。短いことや、濡れているのを抜きにしても、あの娼婦より美しい髪を持っている。


「だいたい予想はできてるけれど、一応訊いておいてあげるわ。どうして私に水をかけたの」


 リゼルアルヴの問いかけに、娼婦が口を開く。その口から何か言葉が紡ぎだされる前に、リゼルアルヴが言った。


「そう、タガルが好きなのね。だから彼の傍にいる私が邪魔で、タガルが私から離れたと聞いて、いい気味だわって思ったんでしょう。今の私になら嫌がらせをしたってタガルは何も思わないはずだから、今まで目障りだったぶん、やってやろうと思ったんでしょう。どう? 正解? 間違ってはないはずよね」


 娼婦は開けた口から何も言えず、そのまま忌々しげにリゼルアルヴを睨みつけ、唇を強く噛んだ。ガサガサになった唇をそう強く噛んだら、きっと裂けて痛いだろう。哀れとも、かわいそうだとも思わなかった。

 普段のリゼルアルヴなら、持ち前の平坦な性格により、特別に感情を波立たせることもなかっただろう。しかし、今のリゼルアルヴは、その平坦さを失っていた。


 気分が悪いのだ。タガルのせいで。


 そんな状態で、この気分の悪さをもたらしたタガルに関係する嫌がらせを受けたら、さすがにリゼルアルヴでも腹が立つ。静かに頭に血が上っていくのを感じていた。


「残念だけど、私がいなくなったところで、彼はあなたに振り向いたりしないわよ。絶世の美女ならまだしも、あなたのようなみっともない女なんか視界にも入れたくないんじゃない? 少なくとも私はそうだわ。

 あなた、本当にみっともなくて、みすぼらしいわよ。みじめさがにじみ出てるわ。鏡をプレゼントしてあげましょうか? ちょうど上等な鏡があるの。縁が悪趣味で私は気に入らなかったんだけど、きっとあなたなら気に入るわ。だってメッキの縁よ?

 遠慮はしないでね、本当にちょうど、いいタイミングだったの。本物の金でできた縁の鏡を特注して、明日には届くはずなの。私はあなたのように体を売るような仕事はしてないけど、結構な収入があるのよ。メッキなんてもういらないわ。朝になったら運ばせるわね。

 ああ、あと、香油もプレゼントしましょうか? 髪がかわいそうなことになってるわよ。まるで雨ざらしのサルの毛並みみたい。いいえ、それじゃサルに失礼ね。とにかく大変だわ、びっくりしちゃったもの、私。そんなんじゃタガルに振り向いてもらうどころか、誰にも見向きもされないでしょう。今日もお客がないんじゃない?

 こんな時間に、たまたま通りかかった私なんかに、親切にもお水をくださる余裕があるんですもの。お優しいとは思いますけれど、それじゃ商売になんかならないわよ。あなたはきっといつか夜会に同席できるような高級娼婦になるんでしょうから、そのお手伝いができれば、私にとってそれ以上の名誉はないわ。ほら、私はお金があるから。

 私が一度試したものでよかったらいくらでもあげるわ。この服も差し上げましょうか。サイズはきっと大丈夫だと思うけれど、ああ、ごめんなさい、やっぱりダメかもしれないわ、私、あなたほど小さく丸くはないの。手直しが必要ね。

 自分でできる? できない? できないでしょうね、もしかして文字も読めない? なんてこと!

 そんなのでも高貴な方々のお相手ができるなんて、あなた天才なのね! 素晴らしいわ! 傾城とはきっとあなたのような美女のことを言うのね!

 お手紙はどうやってお書きになるの? それとも書かない? こんな時間に暇があるほど男を手玉にとってらっしゃる方のお話、聞きたいわ。どんな手を使っていらっしゃるの? それだけのテクニックがあって、どうしてタガルはあなたの隣にいないのかしら。

 もしかして焦らしてらっしゃるの? とんでもないお方ね、あのタガル・ティ・トルヴァグを焦らすなんて! これは彼が骨抜きにされる日も近いわね!

 ねえ、弟子入りさせてくださらない? 先生と呼んでいいかしら? それとも師匠?

 ああそうだ、お名前を教えてもらってなかったわね。あなただから、きっと素晴らしいお名前なんでしょう? 私と違って天国に近いお名前なんでしょう? たとえば、そう、マリアジナカトジナとか。『天国に一番近い女』の名前よ、もちろんご存知よね?

 そこまでいかずとも、とてもご利益のあるお名前なのよね? ドゥリ? キシェイ? それとも――」


 並べた名前はすべて、上流階級の女にはつけられない名前だ。つまりご利益があまりない名前である。八つ当たりに近いものだった。後悔はしていない。あちらはリゼルアルヴを知っていても、こちらは知らないのだ。初対面の相手に頭上から水をかけられるなんて最低なことをされて、黙っていられるほどリゼルアルヴは心が広くない。これくらいは許されるはずだ。


 娼婦が言い返す暇も与えずに、口が動く限り攻撃した。リゼルアルヴ自身も驚くほど、次から次へと彼女を貶す言葉が出てくる。それだけ抑えつけた怒りが溜まっていたのだと感じた。

 騒ぎを聞きつけて、他の娼婦たちも窓を開けて、リゼルアルヴと女とを見ていた。女という生き物は、大抵が他人の喧嘩を楽しめる。女同士のものならなおのこと。一種の見世物になってしまったが、構わなかった。


 同業の女たちの視線が苦しくなったのか、喧嘩を吹っかけてきたみすぼらしい女は顔を真っ赤にして窓を閉めてしまった。まだまだ言いたいことはあったのに。物足りない気持ちを抱えながら、リゼルアルヴは息を吐いた。


「あんた、おもしろいね! よかったよ!」

「……どうもありがとう」


 わざわざ外に出てリゼルアルヴの傍に寄ってきた、年嵩の女に声をかけられた。しわの目立つその顔は、多くの苦労が見受けられる。服も色あせて少し汚かった。

 ミビダリと名乗った女は、ポケットから三枚の硬貨を取り出して、リゼルアルヴの右手に握らせた。にやにやと底意地の悪そうな顔で。


 そうする理由がわからず、いらないときっぱり返したものの、ミビダリは頑として受け取らなかった。


「いいもん見せてもらった礼だよ。あんた、あのタガルにフラれたんだろう。今日はそれで酒でも買って、心を休ませるがいいさ」

「フラれてなんかないわ。そもそも付き合ってないもの」

「ああそうかい。でもね、あんたのその顔は、完全にフラれた女の顔だよ」


 くつくつと笑った姿は魔女のようだ、と思う。しかし彼女は、不思議な魅力のある女だった。


「それだけの金じゃ、安酒しか買えないだろうがね」


 そう言った魔女は優しい女だった。仲間内だけでなく、こんなところにまで話が広がってしまっていることに驚きつつ、きっとミビダリのなけなしの金であろう硬貨を握りしめる。

 マトラドといい、ミビダリといい、どうしてリゼルアルヴに優しくしてくれるのだろう。ただ、タガルが出て行っただけなのに。


 底辺の人々も捨てたもんじゃない。人生において何度目かのその思いに、胸が暖かくなった。


「ミビダリさん、どうせなら、一緒にどうかしら。知ってるかもしれないけど、私、結構お金があるの。あなたの優しさが嬉しいから、お礼においしいものでもごちそうさせてくれない?」


 リゼルアルヴの誘いに、ミビダリはまたにやりと笑った。


「あんた、本当にいい女だね。タガル・ティ・トルヴァグにはもったいない」

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