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三人で連れだって大通りへ向かう。人の多い大通りだ。市は賑わい、うっかりすると潰されそうに思える。ヴェディリアが波に拐われないよう、右手をマトラド、左手をリゼルアルヴが握る。
「いいか、ヴェディリア。あの店の前に行ったら、俺とリゼルアルヴは手を離しておまえを置いていく。おまえは迷子のふりをして、誰でもいい、なんでもいいから何かスってくるんだ」
やり方は前に教えただろう。耳元で囁かれたマトラドのその言葉に、ヴェディリアは少し緊張した風に重々しく頷いた。道行く人は誰もこちらを気にしていない。
ふと、わけを知らない人から見れば、自分たちは親子のように見えるのではないか、と思った。三人で仲良く手を繋いでいる姿は、もしかしたら、リゼルアルヴが望んでいる未来に似ているのかもしれない。
これを、タガルと、その血を引いた子どもとする未来が来れば――。
そこまで考えて、静かに息を吐く。まだあきらめられていなかったらしい。自分が情けない。
マトラドの指示通り、色とりどりの野菜が並べられた店の前で、ごく自然にヴェディリアの手を離す。ヴェディリアが迷子を演じやすいように、こちらもヴェディリアの名を呼びながら辺りを見回した。
小さなヴェディリアは、すぐに人で見えなくなる。かわいそうに、と思った。この訓練を続けていくうちに、緊張も、罪悪感もなくなってしまうのだろう。純粋なままでは生きていけないが、それはあまりに悲しいことだ。
悪を悪と判断できない人間は、もう普通ではない。リゼルアルヴのように。
マトラドと人混みから抜け出し、路地に入る。マトラドの顔には、ヴェディリアへの心配が大きく表れていた。それがおかしくて、つい笑ってしまう。
「本当に、あなたはヴェディリアのお父さんみたいね。私はそれがどういうものなのかわからないけれど、きっとそうでしょ」
「つい、な。わかるだろう、俺があいつを何と重ねているか」
「……素直なのね、今日のあなたは」
「フラれ仲間のおまえには口も軽くなるってもんだよ」
「あら、自虐が過ぎるんじゃない? そもそも私、タガルと付き合ってなんかないわよ。ただ彼が私の部屋に転がり込んできただけ」
「そうだった、そうだった。タガルとおまえは付き合ってなかったな」
「そうよ、一緒にしないでくれる?」
笑ってはいるが、リゼルアルヴは少し驚いていた。
このリーダーは自分だけで背負いすぎる節がある。リーダーとしての責任と、背負わなくてもいい個人の未来まで背負おうとする。そしてその重みを、誰にも悟らせない。バカな男だ。バカで、素敵な男だ。
こんな素敵な男を置いてどこかへ消えてしまった彼の恋人が、うらやましい。こんなに想われているのに、なぜ消える必要があったのだろう。わけもなく消えたのならば、リゼルアルヴはきっと怒りでどうにかなってしまいそうだ。
そんなマトラドが、こんな風に言うなんて。考えられない。何かあったのかと訊きたくなったが、躊躇った。そこまで内側に踏み入っていいのかわからなかった。
「ところで」マトラドは表情を変えこちらを見た。「おまえ、それほど腕は落ちてないな」
通りに背を向け、壁に肩をつけその体でリゼルアルヴを隠しながら、マトラドはにやりと笑った。
「いいえ、全然だめだわ」
ポケットから大粒の赤い宝石のついた指輪を取り出して、マトラドに渡す。
「あなたにばれちゃった。誰にもばれてないつもりだったけれど」
「俺の目を誤魔化せるとでも?」
「思ってないわ。でも、そうね、悔しいわ。とっても」
指輪を盗むのは難しい。指にぴったりはまっているから、どうしても持ち主の肌に触れなければならないのだ。気軽にやれば必ずばれる。
それでもリゼルアルヴならば、スってもばれないようにできる。今だって、持ち主は気付いていないだろう。
「向上心があるのはいいことだが、あまり思い詰めるなよ。これだけできるのは、仲間の中でもおまえくらいだ」
「あなたもできるでしょ」
「いいや、俺はしない」
「しないってことは、しようと思えばできるってことでしょ」
「そう怒るな、リゼルアルヴ。ほら、ヴェディリアが戻ってきた」
後ろからやってきたのに、リゼルアルヴより先にヴェディリアの存在に気づいたマトラドは、そう言って話を誤魔化した。こういうところは本当にたちが悪い。
ヴェディリアは息を切らし、肩を上下させて立っていた。目は見開かれ、口は半分あいている。緊張と、恐怖とが入り混じった表情だった。
訓練をはじめてしばらく、良心ある新人はこういう顔をする。まだ自分の中の善の部分と決別ができていないためだ。
かわいそうに、とついこぼしてしまった。マトラドに睨まれ、あわてて手で口を押える。
マトラドはしゃがんでヴェディリアと目線を合わせ、優しく笑んだ。
「成果はあったか?」
「う、うん、これ……」
握りしめた小さな右手をマトラドに差し出すヴェディリアは、小さく震えていた。
マトラドによってゆっくり解された手から出てきたのは、一枚のコインだった。
リゼルアルヴもマトラドも微妙な顔をしたのを見て、ヴェディリアはあわててこう言った。
「あのね、それだけじゃないよ! でもここじゃ、まだ人に見られちゃうと思うの。溜まり場に戻りましょ。そこで見せてあげるわ!」
「そうか、それは楽しみだ。リゼルアルヴ、おまえも、もういいだろう。俺が教えられることはないようだからな」
「ええ、構わないわ。マトラドにはまた今度教えてもらうから」
「おまえなあ」
来たときと同じように、三人で手を繋いで、溜まり場へ戻る。落ち着いてきたヴェディリアは、にこにことお出かけを楽しんでいるようだった。
溜まり場への窓を越えようとしたとき、すぐ向こうにいたタガルと目が合った。
妙な空気が流れる。マトラドは眉間に皺を作ってしまい、事情を知らないヴェディリアは無邪気にタガルに声をかける。リゼルアルヴはといえば、目が合ったまま、難しい顔をするしかなかった。
「……悪いけど、もう少しどいてくれる? そっちへ行けないわ。私もマトラドも、ヴェディリアも」
「……おう」
素直にどいてくれたタガルに内心驚きながら、向こう側に降り立つ。ヴェディリアとマトラドもそれに続き、奥に置いてある古びた革のソファに三人で腰かけた。
タガルの視線が向けられていることは、痛いほどわかった。しかし、こちらから話すことはない。白々しいほどの気づいていないふりをして、ヴェディリアの報告に耳を傾けた。
「あのね、ほら!」
ヴェディリアは、かわいらしくはしゃぎながら、誇らしげにポケットをひっくり返した。
そこからは、驚くべき量の戦利品が出てきた。あれほど怯えた顔をしていたのに、あの表情からは想像できない量だった。
金の腕輪に、コイン、紙幣もあった。指輪こそなかったが、盗れるものはことごとく盗ってきたかのような量だった。
リゼルアルヴは思わずマトラドを見た。マトラドもまた、リゼルアルヴを見た。
「……とんでもない才能よね、これ」
「ああ、間違いなく。おまえがやったのかと思ったくらいだ」
「私ですら、ヴェディリアくらいの歳にこんな量はなかったわ。とんでもないことよ、これは……天才だわ」
「謙遜しすぎだ。おまえだってこれくらいは軽々と持ってきただろう。ヴェディリアは、第二のおまえだ」
二人ともどうすればいいのかわからなかった。新人で、たった数回しか教えていないのに、これほど成果をあげる人間は少ない。マトラドの言うように、リゼルアルヴはこれと同じほど盗ってきたことがあったが、それはまた別と言える。リゼルアルヴは気がついたらスリで生きていたのだ、それなりにできてもおかしくはない。しかし、ヴェディリアは違う。ヴェディリアは、ここに拾われてくるまで、一度もスリをやったことがない。
きらきらした目で見つめてくるヴェディリアの頭を、リゼルアルヴは撫でてやった。「すごいわ」と素直に褒めながら。
リゼルアルヴが驚いた一番の理由は、盗んできた量ではない。良心のあるままに、これだけスって来たことに驚いている。
普通ではないリゼルアルヴだから、普通ではないくらいにスリが上手くできるのだと思っていた。しかし、緊張も恐怖もしているのにこれだけ上手くスれるヴェディリアを目の当たりにして、それは違うのだと思い知らされた。
スリにも天才はいる。リゼルアルヴは、自然に上手くなっただけだ。天才とはヴェディリアのことを言うのだろう。
「すごいわ、ヴェディリア」
「ほんとにすごい?」
「ええ、本当にすごいわ。弟子入りさせてほしいくらい」
「だったら嬉しいわ! リゼルおねえちゃんなら、お弟子にしてあげてもいいわよ!」
この子はおそろしい。輝く目を見つめながら、そう思う。訓練を続けていけば、ヴェディリアは必ずリゼルアルヴを超える。それがおそろしかった。この純粋な子どもが、リゼルアルヴたちのように、何のためらいもなく悪いことができるようになる未来が、それに導くのが自分たちであることが、おそろしかった。
夕方近くなると仲間のほとんどがやってくる。これから何かやろうというわけでもなく、たんにここに来るのが習慣になっているだけだ。
二、三日来なかっただけで、仲間はみんなリゼルアルヴを見て驚いた。タガルに出ていかれた、という話もあってのことだろう。いたたまれなくてその場を離れたくなったが、ここで離れたところで、どうせあることないこと囁かれてしまうのだ。反対側の端で女たちと喋っているタガルへの当てつけもあり、リゼルアルヴは笑ってそこに座り続けた。マトラドが気を使ってくれているのが痛いほどわかった。
仲間はみんな悪いやつではないし、リゼルアルヴも嫌われているわけではない。しかし、こういう集団においての恋愛というものは、基本的に厄介ごとを招くものだ。リゼルアルヴを庇ってくれる女もいるが、だからといってその女のタガルへの想いまでこらえてくれるわけではない。仲間たちはそれぞれ自由であるために生きているのだから。
そもそも、仲間内でのタガルの人気は、みんな本気にしているわけではない。一種のパフォーマンスであることを、群がる女たちも、タガル自身もわかっている。だから平和にやってくることができたのだ。本気になる女をタガル自身が跳ねのけてきたのもあるが。タガルもタガルで、誰にも本気にはならない。
この集団は、普通ではないのだろう。自由のためなら人を傷つけられる。他者より自分を優先する。しかし優しさや思いやりがないわけではない。こんな人間にしたのは誰なのだろう。はじまりのわからないこの組織の教えなのか、それともそうするしか生きられない社会のせいなのか。どうであれ、まともではないと感じた。リゼルアルヴ自身もまた、まともではない。
しばらく経てばリゼルアルヴの話題はなくなり、それぞれ勝手に騒ぎはじめる。フェレピジアがヴェディリアを迎えに来て、それを見送ってから、そっとマトラドが言った。
「大丈夫か」
こちらを見ずにかけられたその言葉に、溜め息が出そうなくらい安心した。リゼルアルヴは自分でも驚くほど、密かに傷ついていた。ざらついた紙を押し付けられているくらいの痛みではあるが、きっと一人になったとたん、ひりひり痛むたちのものだろう。マトラドがこうして隣にいて、なんでもないように会話をしてくれて、それとなく向こう側の仲間の目を誤魔化してくれていなければ、もっと苦しんだはずだ。
困ったような笑みを向けて、どうにか大丈夫だ、と意味を込める。
死にそうなほど苦しくはない。しかし、ここでずっと息をしていられるほど、楽でもない。
「……今日のところは、帰ることにするわ」
「それがいい。顔が真っ青だぞ」
「情けないわ、本当に。これくらいのことで」
「平和で元気な証拠だ。ゆっくり立ち直ればいい。胸は貸すぞ」
「ありがとう。お気持ちだけいただいておくわ」
送っていってやろうか、と言ってくれたものの、そこまで迷惑をかけるのは気が引けた。ちらりと目を向けてしまったタガルの方は、いつもと変わらず楽しそうだ。目が合って、あわててそらして溜まり場を出る。今すぐ吐けるくらいには、気分が悪かった。