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タガルがリゼルアルヴの部屋を出た、という話は、仲間のうちで瞬く間に広がった。
タガルの取り巻き女が増えたのは言うまでもない。実のところ「タガルとリゼルアルヴは結婚するんじゃないか」と噂されていたから、リゼルアルヴはタガルを慕う女たちにとって邪魔者だったのだ。
リゼルアルヴの生活は何も変わらない。むしろ少し豊かになった。甘いコーヒーが飲める。ベッドは冷たいけれど、苦いコーヒーを飲まなくてもいいのはずいぶんと幸せなことだ。
たかがタガルと女が一緒にいる場面を見ただけで、あれほど自信のあったスリをミスしてしまったことは、リゼルアルヴを一日寝込むほど落ち込ませるにはもってこいだった。タガルのことは忘れた方がいいと、それで確かに悟ったので、それはそれでよかったのかもしれないが。
マトラドに酷いことを言ってから三日、リゼルアルヴはこの溜まり場に近づかなかった。落ち込んで寝込んだのもあるし、マトラドにどんな顔をして会えばいいのかわからなかったからだ。
朝早く溜まり場へ向かう。冬が近づき、溜まり場は凍り付きそうなくらい冷え込んでいる。マトラドはいつものようにそこにいた。
「……あー、ええと、そうね、今日も早いのね、マトラド」
「なんだその顔は。おまえ、そんなに不器量だったか?」
「あなた本当に最高ね。申し訳なく思ってたのが一気に腹立たしくなってきたわ」
にやりと笑って言われた失礼な言葉に、彼の優しさを感じた。
この日のリゼルアルヴは、どうやって自然に謝ろうか考えながらここに来た。マトラドの一番苦しい部分を傷付けてしまったのだから、きっと彼は激怒して、もしかしたらリゼルアルヴなど組織から追放してしまうかも、とまで心配していたのに。
頼もしいリーダーは、力強く、そして優しく、仲間を守ってくれている。
「この間はごめんなさい。気が立っていたの。言ってはいけない言葉だったわ」
「いや、いい。気にするな。それよりおまえ、スリでミスしたんだろう。珍しいな」
どうしてそれを知っているのか、と驚いてしまったが、マトラドという男はそういう男だった。仲間のことに関しては不思議なほど耳が早い。
「ちょっとね。やっぱり、心が落ち着いていないときには何をしてもだめなのよ。私も初めてのことだったから動揺しちゃったけど、もう大丈夫よ。そう、それで、頼みがあるんだけど」
「仕事は回さないぞ。そんな状態のやつができるものはない」
「違うわよ。今の私が役立たずなのは、私が一番わかってるわ。あのね、スリを教えてほしいのよ。初心に返って一からやり直そうと思って」
「俺がおまえに教えることはないだろう。少なくともスリに関しては」
「あるわ。仲間の中で一番悪事の才能があるのは、マトラド、あなたよ。あなたに教えてもらうべきことはたくさんあると思うの。お願い、ヴェディリアと一緒でいいから」
ヴェディリアとは、つい最近仲間になった子どものことだ。まだほんの七歳の女の子で、ちょうどスリの教育が始まったところだった。
マトラドは複雑な顔をして、眉間に皺を寄せて、目をぎゅっと閉じて、心底悩んだ様子を見せた後「いいだろう」と答えた。
「ありがとう、マトラド! あなたは最高のリーダーよ!」
思わず彼の手を取ってお礼を言う。断られると思っていたから、余計に嬉しかった。
それからマトラドと、とりとめもない話をして過ごした。そろそろ引き受ける仕事を減らそうと思っている、と言われたときは驚いた。
「どうして? みんなミスも少なく、うまくやってきたじゃない」
「だからだ、リゼルアルヴ。みんな慣れはじめてる。それに、もともと俺たちが手を出すべき領域ではないだろう。そりゃあ、まとまった収入は得られるが」
「殺しはずっと引き受けてないでしょう。何がいけないの?」
「『仕事』だからだよ。わからないか?」
おまえならわかるはずだ、と信頼を込められた目で見つめられては、考えてみるしかなかった。
もともと、この組織は組織というには小さなものだ。集団と言った方がぴったりかもしれない。いつもメンバーは三十人前後で、統率はほとんど取られない。マトラドがリーダーではあるが、それぞれ自由にするのがこの集まりの基本方針なのだ。
つまり、きっと。
「『仕事』だから、自由じゃないのね」
「それもある。惜しいな」
「はっきり言ってくれるかしら。わからないわ」
「自由に生きるためのもの、ではないからだ」
ほとんど正解じゃないか、と言い返そうとしたが、「自由ではない」のと「自由に生きるためではない」のは大きな違いがある、と気が付く。
ここに集う仲間たちは皆、自由に生きようとしている。下級層に生まれてしまったがために悪さに手を出し、それを当然として生き、中にはそれを楽しんでいる者もいるが、別に普通に働いたって構わないと思っている者の方が多い。
それなのに結局こうして生きているのは、普通に働くことができないから。下級層の中でも最下層に近い仲間たちは、まともな職には就けない。ならば正義に反することをするしかない。そうしなければ生きていけない。
仲間が集まり、悪さの技術を伝え合うのは、皆が一定以上の金を得られるようにするためだ。余剰分を分けてやるのはいいが、すべてを分け合うのはフェアじゃない。自分の力で生きていくことこそ尊い。そうすれば、自分だけの自由を得られる。世間から蔑まれ、あらゆるものに縛られている彼らは、せめて自由であることを望んでいるのだ。
リゼルアルヴは自由にさして興味はないが、そういう風に生きるというのは確かに魅力的だと思う。
我らがリーダーは本当に頭がいい。『仕事』について、そんなことを考えたことはなかった。前任に選ばれただけのことはある。
「掟を覚えてるか」マトラドが挑発的に笑った。
「もちろんよ」リゼルアルヴも笑って答える。「私欲で人を殺さないこと」
「生きるために盗むこと」
「喜びのために盗むこと」
「自由にあるために盗むこと」
「死んでも仲間を売らないこと」
「死んだら地獄へ行くこと」
「ただし、うっかり天国に行ったら幸せに暮らすこと」
「完璧だ、リゼルアルヴ」
「当然じゃない」
顔を突き合わせて笑う。友人の優しさに、虚しさが和らいだ気がした。
そっと心の中で「私は天国には行けないけれど」と呟く。こんな名前を付けられた時点で、リゼルアルヴは天国には行けるはずもないのだ。言い伝えの通りなら。
昼前にはぽつりぽつりと仲間が集まりはじめた。基本的な活動時間が夜であるため、昼に全員が集まることはない。ヴェディリアをつれたフェレピジアおばさんが現れたのは昼過ぎで、リゼルアルヴによくなついている女の子は、ぱあっと明るく笑った。
「おはよう、リゼルおねえちゃん!」
「おはよう、ヴェディリア。ご機嫌いかがかしら」
「もうサイコーよ! リゼルおねえちゃんに会えたから!」
「そう、それは嬉しいわ。私もヴェディリアに会えて最高の気分よ」
幼いヴェディリアはきらきらと輝く目をしていて、こちらまで明るい気持ちになる。こんな娘がいたら……と考えてしまうのは、仕方のないことだろう。
実際、ヴェディリアの存在は、仲間にとって素敵なものだった。ヴェディリアはみんなの娘であり、妹だった。可愛らしいその笑顔に、つい誰もがほだされてしまう。あのガキ嫌いのタガルでさえも、ヴェディリアが純粋に近寄ってくるとたじたじになって、渋々遊びに付き合ってしまうほどだ。
最もほだされ、どうにもならなくなっているのは、マトラドだが。
「ヴェディリア、俺に挨拶は?」
「今からするところよ! おはよう、マトラド!」
「おはよう、ヴェディリア。俺は呼び捨てか」
「だってマトラド、おにいちゃんって歳じゃないもの」
「言われちゃったわね、マトラド。いえ、マトラドおじさん、の方がいいかしら?」
「リゼルアルヴ、調子に乗っていると断るぞ」
「ごめんなさいマトラド、そう怒らないで。ほんの冗談じゃない」
あわてて謝るが、そもそもマトラドはそう怒っていない。下がった眉がその証拠だった。
仲間の中で、一番ヴェディリアに肩入れし、娘のように扱っているのはマトラドだった。かつて恋人との間にあった子どもを亡くしてから行き場を失っていた父性が、ヴェディリアに向けられているのだろう。
親子であると言われたら信じてしまいそうな仲の良さを微笑ましく思っていると、柔らかくこちらを見守っていたフェレピジアが、ふいにそっとリゼルアルヴを呼び寄せた。
「タガルが逃げたんですって?」優しいおばさんはしかめっ面で言う。「どうせしょうもない理由なんでしょう」
触れてほしくない話題だったが、こちらを心配してくれているのだろう。苦く笑うことしかできなかった。
するとフェレピジアは、呆れた顔をした。
「あの子はいつまでも子どもなんだから。あなたと一緒になってくれる日を待っていたっていうのに、まったくもう。でもあなたもあなたよ、どうせ出ていくのを見てただけなんでしょう」
「……おばさんにはかなわないわね」
「当然よ。いいかしら、リゼルアルヴ、あなたは自分の言葉を飲み込みすぎだわ。タガルに対しては特に。そんなのはフェアじゃないし、自由でもないわよ。自分から不自由になるのは、愚か者のすることなんですからね」
「ええ、わかってるわ、フェレピジアおばさん。でも、もういいのよ。彼のことは諦めたわ」
「なんですって」
「彼は自由だから、きっと結婚なんてしないんでしょうね。そもそも私の傍にいてくれたことが、全部何かの間違いなんじゃないかとすら思えるくらいよ」
自然に笑えているだろうか。不安になりながら、続ける。
「私は『天国に一番遠い女』だもの、きっとこの世でも、最高の幸せは手に入れられないんだわ。でも、今で充分だって思ってるのよ。不満のない日々を送ってる。それなりに幸せよ。だから心配しないで、おばさん」
「何を言っているのかしら。あなたが『天国に一番遠い女』ですって? そんな言い伝えは忘れなさいって言ってるでしょう。怒るわよ」
「ごめんなさい、怒らないで、もう二度と言わないわ。それが事実だとしても、おばさんの前では」
フェレピジアはなおも何か言おうとしたが、首を横に振って無用だと伝える。
リゼルアルヴは諦めたのだ。だからこれ以上、自分の中にまだ残ってしまっている気持ちを、掻き立てないでほしかった。
ごめんなさい、と呟くように言って、マトラドとヴェディリアの傍に戻る。フェレピジアは溜め息を一つこぼして「夜に迎えに来ますからね」とマトラドに告げ、帰っていった。
ヴェディリアのような幼い女の子にスリを教えるのは気が引ける。しかし一人で生きていくには、必要なことだった。
気づいた頃から善悪も関係なくスリで生きてきたリゼルアルヴも、あらゆる悪事に関して仲間の中で一番才能のあるマトラドでさえも、別に犯罪で生きていきたいわけではない。それ以外の生き方を選べないだけで。
ヴェディリアにスリを教えるということは、つまりリゼルアルヴたちと同じように、夜の闇の中で生きることを選ばせるということだ。心が痛まないわけがない。マトラドだってそうだろう。