表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

2

 苛立ちからか、歩幅が大きくなる。深い呼吸を繰り返しつつ、大通りへ向かった。


 普段から身なりは小綺麗にしているため、中流以上の人間でよく賑わう大通りにも堂々と紛れ込める。平均的な、醜くもなければ美しすぎたりもしない、印象の薄い顔をしているから、人込みに紛れてしまえばもうリゼルアルヴを止められるものはない。


 しばらく大きな仕事はない。マトラドにもそう言われているし、リゼルアルヴもしばらく大きく動くつもりはなかった。だからこそ、初心に帰ってスリをすることにしたのだ。組織に入った新人は、朝から晩までスリを繰り返すことからしつけられる。リゼルアルヴも少女の頃にずいぶんと厳しく教え込まれたものだ。

 あらゆる犯罪において、盗みは基礎の基礎だ。ここ最近は人を騙してばかりで手を動かすことの少なかったリゼルアルヴは、スリの腕が落ちていないか心配だった。


 普段通りにすれば、すぐに彼女のポケットはいっぱいになった。心配は杞憂だったらしく、ほっと息をついたとき、人の頭の向こうに見慣れたオレンジの髪を見つけた。

 見間違いようもない。タガルの髪だ。背が高いタガルはよく目立つ。よくはねた粋な髪形も、男らしい顔つきも、タガル以外の誰でもなかった。


 その隣にはよく知った女がいた。仲間のうちの一人だ。たいへんに仲睦まじい様子だった。遠目からでも二人の距離が近いのがわかる。その近さから、腕を組んでいるのか、それとも手をつないでいるのか、疑ってしまった。背の低いリゼルアルヴからは、人が邪魔で確かめられない。

 リゼルアルヴは思い出したようで思い出していなかった。昨夜よみがえった記憶は実感を伴っていなかった。


 つまり、タガル・ティ・トルヴァグという男は、もとよりそういう男だったのだ。


 男も女も関係なく遊び人の多い仲間のなかで、最も女をとっかえひっかえしていた男が、タガル・ティ・トルヴァグだった。

 見慣れた光景であるはずだった。タガルはリゼルアルヴと一緒にいても女に誘われていたし、ときどき誘いに乗ってリゼルアルヴを置いていった。リゼルアルヴも、そういう男であることを承知の上でタガルを好いていた。


 しかし今、タガルの姿を見かけて、慣れているはずが苦しかった。そのことに驚いた。

 人込みの中で立ち止まってしまったリゼルアルヴは、人々から少しの不審感を向けられていた。あわてて歩き出そうとしたが、それこそが一番のへまだった。向こうからやってきた人にぶつかってしまったのだ。ポケットに隠していた腕飾りが落ちる。さきほどまで恰幅のいい婦人の腕をぎらぎら飾っていた、安っぽい腕飾りだ。


 まずい。人生においてはじめての失敗だった。組織に入ってからも、入る前からも、リゼルアルヴはスリに関して絶対の自信をもっていた。物心ついた頃にはすでにそうやって生きてきて、一度も誰にも捕まったことがなかったからだ。正確な年齢はわからないが、もう三十手前になったというのに、こんな明らかなミスを犯すなんて。

 素知らぬ顔で素早くその場を離れる。腕飾りは落としたことに気付かないことにした。


 逃げる最中にも、タガルのことが気になって見てしまった。すると、偶然、タガルと目が合った。彼の表情は変わらない。リゼルアルヴは逃げた。もう自分が何から逃げているのかわからなかった。

 人の目がなくなるところまで、ひたすら歩いた。不自然にならないよう、待ち合わせに遅れそうな女を演じながら。とてもではないが笑顔は作れなかった。


 路地に入り、建物と建物の間に挟まるような格好で、ようやく立ち止まる。誰もこんなところは見ない。こんなところを通るのは、リゼルアルヴのような身分の人間か、ネズミか虫くらいだ。

 薄暗く湿っている。どこからか腐ったにおいもする。ボロい部屋に似合わないせっかくの上等な服が汚れてしまいそうだ。しかし、今のリゼルアルヴを落ち着かせるのは、こういう汚い場所だった。

 子どもの頃を思い出す。マトラドの前のリーダーに見つけられるまで、リゼルアルヴはたった一人で、こんな場所で生きていた。親の顔は見たこともないし、自分に親なんてものがあったのかすらわからない。気が付いたらそこにいて、気が付いたら生きていた。


 あの日々がみじめだったとは思わない。それが当然だったからだ。今の方が、ずっとずっとみじめだ。

 親を知らないからか、リゼルアルヴには家族への強い憧れがあった。好きな人と一緒になって、愛をささやきあって、子どもを作る。そうしたことが女の幸せだといつか教えられた。たしか、組織に入って世話好きな女に引き取られ、しばらく一緒に暮らしたときに言われたものだ。その女はたぶん、そんな世間一般のふつうに沿っては生きられなかったのだろう。その声には悲しみと諦めがにじんでいた。


 それでもとても楽しそうに、本気でそれこそが女という生き物の幸福だと信じている姿が、リゼルアルヴには印象的だった。だからリゼルアルヴも、それこそが幸福なのだと信じた。

 タガルとはそんな未来は訪れないと、はじめからあきらめていたつもりだった。しかし、きっとどこかで信じていたのだろう。


 だって、リゼルアルヴの部屋に転がり込んで以来、タガルは仕事のない日は必ず帰ってきた。夜遊びこそタガル・ティ・トルヴァグの人生の楽しみだと豪語していたくせに、必ず帰ってリゼルアルヴの作る質素な夕飯を一緒に食べてくれたし、長く使ってさらに薄くなったシーツに文句を言いながらリゼルアルヴを抱きしめてくれた。タガルと遊んだ女たちに聞いても、そんなことをしてもらった女はいなかった。


 タガル・ティ・トルヴァグはたぶん年上で、リゼルアルヴにはとても魅力的な男性に見えた。リゼルアルヴより早く組織に入り、女を騙して金を巻き上げることを得意としていた。幼くとも女であったリゼルアルヴが惹かれるのも、当然のことと言えた。


 ガキは嫌いだと公言していたタガルは、リゼルアルヴのことを子どもと見なし、嫌っていた。たいして歳は変わらないはずだが、リゼルアルヴの本当の年齢がわからないことと、スリ以外は同年代の子どもに比べてもからきし駄目だったからだ。頭も弱ければ言葉すらはっきりしない。タガルだけでなく、マトラドや他の仲間たちからも子ども扱いされた。だからガキが嫌いなタガルには、最初、かなり敬遠されていた。


 それが変わったのはいつからだったのか、リゼルアルヴにもわからない。徐々にスリ以外にも覚え始めて、頭がいいねと褒められるようになってからだったと思う。会話をするようになって、たまに一緒に仕事をした。世話してくれていた女に一人立ちを許され、今のボロいアパートメントに暮らしはじめて、急にタガルが転がり込んできたのが四年前のことだ。


 強い雨の降る夜だった。前触れもなく叩かれた扉を開ければ、親しくはないが密かに慕っていたタガルが立っていた。はじめは一晩だけだと思っていた。しかし、一向に出ていかず、自分の部屋は引き払ったなどと言う。呆れた風を装っていたが、内心、嬉しかった。

 一緒に暮らしはじめて一年ほど経つと、だんだんとタガルのことがわかってきて、機嫌をうかがいながら生活するようになった。


 タガル・ティ・トルヴァグは束縛を嫌う。どこまでも自由であり、誰の指図も受けない。勤勉と禁欲とを嫌い、怠惰と快楽とを愛す。


 だからリゼルアルヴは、ものわかりのいい女であろうとした。束縛はしない。タガルの自由を邪魔しない。タガルが反発したくならないように、何もかもに関心がないかのようにふるまった。常に冷静であろうとした。そうすればタガルの機嫌はそう悪くならない。


 それもこれも、タガルと一緒にいたかったからだ。タガルが好きだったから。そして、タガルの一番であると思い込んでいたから耐えられた。

 本当は甘い物が大好きで、砂糖なしのコーヒーは苦すぎて泣きそうになる。タガルにすり寄る女たちは嫌いだし、他の女といるタガルを見ると嫉妬もするし、できればタガルと家庭を築きたい。親を知らないからうまく子どもを育てられないかもしれないけれど、タガルの血を引いた子どもなら、素直に愛せそうだった。


 しかし、それらはすべて、どうしようもない。リゼルアルヴは天国に一番遠い女だ。どうやら本当に、現世での幸せも掴めないらしい。


 特別なことは何もない。これはきっとよくある話だ。そう結論付けて、リゼルアルヴは諦めた。今度こそ、しっかりと、確かに諦めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ