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 リゼルアルヴは困っていた。


 事の発端はタガルのいつもの反発精神だ。タガルとリゼルアルヴは友人というには親しすぎ、恋人というには無関心な関係を続けて久しい。そんな関係であるから、リゼルアルヴはタガルの言葉に振り回されてばかりだった。そして今も、タガルによって困らされている。リゼルアルヴが頭を悩ませるとき、そのほとんどはタガルによってもたらされる。残念なことにタガルに惚れきってしまっているリゼルアルヴは、愚かなこととわかっていても、タガルの言葉を忠実に守るしかなかった。今のところタガルから見返りが与えられる見込みはないというのに。


 今回リゼルアルヴを困らせたタガルの言葉というのは、「おまえと一緒にいるのをやめる」というものだった。リゼルアルヴたちの所属する組織のリーダーに茶化されたのだ。おまえたちは恋人か、ただの友人か、それともリゼルアルヴがタガルの母親か、と。


 右と言われたら左と答え、上と言われたら下と答えるタガルだ。ましてリーダーたるマトラドとタガルの仲は相当悪い。リゼルアルヴはその場に居合わせたことを心底後悔した。

 タガルの顔が怒りで歪んでいき、マトラドは小馬鹿にしたように唇の端を吊り上げて笑っている。あわててタガルを家に連れ帰って、中に入ったとたんに言われたのが例のあれだ。

 まず衝撃がリゼルアルヴを襲った。しかしすぐあとに、やはりそう言うか、と思った。それが悲しかった。


 タガルのことはよく知っている。リゼルアルヴの家に彼が転がり込んできてもう四年も経っているし、それ以前からも交流はあった。タガルがどんなときに反発するのか、どんなときに天邪鬼を発揮するのか、充分に理解している。だからこそ、リゼルアルヴは悲しかった。理解しきってしまったものだから、タガルに縋ることもできないのだ。それはやめてくれ、一緒にいてくれと言ってしまったら、きっとタガルは本当にリゼルアルヴの傍を離れてしまう。だからといって、引き止めないのもおかしい。


 いっそタガルのことがわからなかったら、こんなとき、素直に引き止められたのだろう。泣いて縋って愛を告白できただろう。自分の滑稽さが悲しかった。


「そう。もし本当にそうするなら、タガル、あなたこれからどこに行くの? 一人でも大丈夫?」


 リゼルアルヴの部屋に転がり込んで数ヶ月後に、タガルはそれまで住んでいた部屋を引き払ったと言っていた。ここ数年、ずっとリゼルアルヴが身の回りの世話を進んでやってきたものだから、一人で生きていけるのかも心配だった。

 そう言ってから、ああこれは言ってはいけない言葉だった、と後悔した。これは今、一番口にしてはならない言葉だった。

 タガルの顔が、マトラドに茶化されたときと同じように歪んでいく。


「どこへなりとも行けるに決まってるだろうが。俺を誰だと思ってる」

「……そう。そうよね、あなたはタガルだものね」


 今日はやけに後悔してばかりだ。タガルにとって、リゼルアルヴという女はその程度の、茶化されたからと離れられる程度の、そんな女だったのか。リゼルアルヴは自惚れていた。忘れていた。タガルという男が、もともとどんな男だったかを。


「あなたの好きにすればいいわ。それが一番よ。だってあなたはタガルだもの。タガル・ティ・トルヴァグだもの。どこまでも自由だわ」


 いたって冷静な、ものわかりのいい女を演じる。ああ、悲しい。こう言うしかない自分が愚かで、悲しくて、悔しい。

 こう言えば普段のタガルは落ち着いてくれる。しかし、今日はその〝普段〟のうちには入らなかったらしい。舌打ちを一つ残して、本当に出て行ってしまった。


 これは予想外だったが、意外にも芯から冷静な自分がいることに気が付いて、リゼルアルヴはそちらに驚いた。もっと悲しくなるかと思った。悲しいことには悲しいのだけれど、死にたくなるほどではなかった。

 閉ざされた扉の前で立ち尽くす自分を、もう一人の自分が冷ややかに見ているような気分だった。ごく冷静に、思う。


 天国に一番遠い女は、この世でも幸せから一番遠いのか。


 特別なこともなく、その夜は過ぎた。久々の独り寝の夜は、なんとなく肌寒く感じた。






 翌朝は早くに目が覚めた。シーツの誘惑から抜け出し、いつものようにコーヒーを二つ淹れる。ベッドに戻ってはたと我に返った。そういえば昨夜、タガルはこの部屋を出て行ったのだった。起こすべき相手のいない空のベッドは、彼がいないことを確かにリゼルアルヴに実感させた。


 仕方がないので溜め息と共に寝室を後にし、朝食を摂る。一昨日買った、石のように固いパンを一切れと、コーヒー一杯だけの朝食。久々にコーヒーに砂糖をたくさん入れた。タガルは甘い物が好きな女が嫌いだ。リゼルアルヴは苦いコーヒーが嫌いだったが、タガルのことが好きだから砂糖を入れないようにしていた。やはり甘いコーヒーは飲みやすい、と息をつく。残ったタガルの分のコーヒーは捨てた。


 身だしなみを整えて、鏡の前でいろいろな笑みを試してみる。男を誘う妖艶な笑み。無垢な少女の笑み。疲れ果てた笑み。夫の葬式の喪主をする未亡人の笑み。恋人にプロポーズされ感動で涙しながらの笑み。何を考えているのか、本当に笑んでいるのかもわからない笑み。

 五十ほどの笑みを試してみて、表情筋の調子が万全だとわかってから、最後に鏡の中の自分に笑みを向ける。純粋に自分だけを労わる笑みだ。


 リゼルアルヴの部屋は、今にも倒壊しそうなボロいアパートメントの二階の角部屋だ。この辺りは下級層の住む土地であるため、たいてい同じような建物が並んでいる。滅多に晴れることのない曇りばかりの街で、リゼルアルヴの部屋は窓も小さく壁も薄いため、冬は昼でも凍えるような寒さになる。それでもリゼルアルヴはそれなりにこのボロを気に入っていたし、追い出されるか倒壊するまでは住み続けるつもりだ。

 タガルはこの部屋に来る前、ここよりかなり素敵な場所に住んでいた。こことは比べ物にならないほどの部屋だ。金はあるのにボロから出ないリゼルアルヴと、金があるから立派な部屋に住んでいたタガルとでは価値観が合わず、はじめは何度か衝突もした。転がり込んだのはタガルの方なのだから、嫌なら出ていけばいいと何度叫んだことか。ここ最近は、すっかり喧嘩なんてしなくなっていたけれど。


 申し訳程度の鍵を閉めて、いつものように家を出る。仲間の溜まり場まではそう遠くないが、仲間同士の決まりで遠回りをすることになっている。家と溜まり場が見つからないようにするためだ。


 リゼルアルヴが溜まり場へ向かうとき、タガルもまた溜まり場へ向かう。けれど一緒に行くことはない。別々の道を歩く。そういうものだった。

 だから特別この日も変わらない。リゼルアルヴはいつものように一人で歩き、いつものように街にはまだ人が少なかった。貧民層が多いと街に活気がなくなる。この辺りは特に歴史ある貧民街だから、こんな朝早くの通りにいるのは家のない最下層の人間くらいだ。


 溜まり場にはすでにリーダーのマトラドがいた。彼はほとんどの日を溜まり場で過ごしている。家はあるらしいが滅多に帰らない。マトラドの他には、まだ誰も来ていなかった。


 リゼルアルヴたちの溜まり場は、貧民街の迷路のような路地を奥へ進み、突き当たったところにある廃屋の玄関に入り、裏の扉から出てすぐ右に曲がり、頑丈そうなのに誰も住んでいない三階建ての建物の一階の左端の部屋に入り、玄関の向かいにある窓から外へ出たところにある。密集した建物の窓のない壁で四方を囲まれた、それなりの広さのある場所だ。仲間たちが拾ってきたソファやらテーブルやら、ガラクタであふれている。この場所すべてを覆う屋根はないが、端には雨が降っても溜まっていられるように、ところどころに屋根代わりのものが備えられている。


「今日も早いのね、マトラド」

「それはこっちのセリフだ、リゼルアルヴ」


 低い魅力的な声だ。他人を威圧するとき、最も効果的な深い声。この声に惹きつけられる女は多い。

 ふとタガルの声を思い出した。タガルはマトラドよりは高いが、なかなかいい声をしている。もちろんリゼルアルヴはタガルの声が一番好きだし、当然マトラドの声より好きだ。


 タガルとマトラドの仲は悪いが、リゼルアルヴとマトラドの仲はそう悪くない。良い友人として互いに尊敬できる関係であると、リゼルアルヴは思っている。たぶんマトラドの方も同じように思ってくれているだろう。こればかりはタガルに合わせるわけにはいかなかった。人間関係というものは、誰が誰を嫌いだから誰かを嫌う、というわけにはいかないものだ。


 仲が悪い、とよく表現されるタガルとマトラドの関係だが、詳しく言えばタガルが一方的にマトラドを嫌っているだけだ。マトラドは特別タガルを嫌ってはいない。ただお互いの相性は悪いのだろう。マトラドもタガルのこととなるとやる気をなくしてしまうし、タガルはマトラドに対してあからさまな態度をとる。時に衝突はするがごく稀で、二人とも仲間としてやっていける程度ではあった。


「昨夜ね、タガルが出て行ったわ」


 私とはもう一緒にいないんですって。

 うっかりマトラドに言ってしまった言葉は、つまりマトラドのせいだ、と伝えるための言葉だった。あわてて訂正しようとするも、一度口から出た言葉を飲み込むことはできない。

 何より訂正の前に、マトラドが、そうか、と呟くように答えた。実に平坦だった。まるでタガルとリゼルアルヴの間で起きたことなど、まったく自分には関係ないと言うように。


 マトラドが茶化さなければ、タガルは昨日までと変わらずリゼルアルヴの部屋にいたはずだ。

 無性に八つ当たりがしたい気分だった。タガルのことを子どもだとか言ってきたリゼルアルヴだったが、今の彼女もまた、タガルのように子どもだった。

 すべて見透かしたように、マトラドは笑んでいた。我らが頼れるリーダーは、ときどき本当に意地が悪くなる。


「こうなるってわかってて、あんなこと言ったんでしょう。私の幸せを邪魔するのは楽しい?」

「幸せ?」マトラドは眉を寄せて訝しげに繰り返した。「あいつといておまえが幸せ?」


 まるでリゼルアルヴがどんなときに幸福を感じるか、わかりきったような声だった。そんなはずはないのに。

 日々の暮らしは決して不幸ではない。むしろ幸せであるはずだった。リゼルアルヴはお世辞にも善人ではなく、善人と呼ばれる人間の実在を疑っているような女だったが、それでも人並みに幸福というものを夢見ていた。この時代によくある、結婚して家庭を築く、という女の幸せを信じていた。


 タガルと家庭を築く、なんてことは不可能に近く、そんな期待はしていなかった。けれど好きな男と一緒にいられるということは、リゼルアルヴにとっては幸せなことだった。


「あなたにどう見えていたかわからないけれど、私は幸せだったわ。本当よ」

「どうだかな」

「本当なのよ。だからあなたがあんなことを言って、タガルがうちを出て行ったのは、私の生活においてとても重大な事件なの。わからなくてもわかってくれるかしら」


 マトラドは肩をすくめて、呆れた目をこちらに向けた。

 少しだけそれに腹が立った。酸いも甘いも嚙み分けて、それでも困難な恋を選んだ物語のヒロインの笑みを浮かべ、マトラドに向ける。


「あなたもまた心から好きな人ができれば、きっと私の気持ちがわかるわ。特定の恋人でも作ってみたらどうかしら。昔の女をいつまでも引きずるなんて、あんまりにも女々しいんじゃなくて?」


 それは、マトラドの今なお生々しい傷口をえぐる言葉だった。彼の恋人は、五年前のある日、急に行方知れずになった。仲間のうちではもう死んだだろうという話になっているが、マトラドはまだ、彼女を探し続けている。

 溜まり場にはまだ誰も来ない。何もなかったかのような顔をして、リゼルアルヴはその場所から離れた。マトラドの方は振り向かなかった。彼のことは友人として尊敬しているが、今後は同じように思えないかもしれない。


 本当に、本当に残念ながら、リゼルアルヴはタガルに惚れきってしまっているのだ。タガルがろくでもない男だとわかっていても、それでも好きなのだ。本当に残念なことだが。


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