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二年後の春

 趣味を読書と答えるようになって、一体どれほど経っただろうか。

 文字を覚えたのは幼稚園に入る前で、絵本は幼稚園の年少組で卒業したらしい。小学生になる頃には通り一遍の漢字を覚えていたようで、欲しいものを尋ねられると、決まって「面白い本」と答えていたようだ。

 母は、幼い我が子が難解な小説を読み解く様を見て、神童だと喜んだが、生憎と神童どころか、優秀ですらなかった。漢字の読み取りだけは、どんなテストでも間違えたことはないが、それ以外に目立った結果を残していない。

 市立中学から、中堅どころの県立高校に。その次は、私立の四年制大学へ。可もなく不可もなく、というところだろうか。大学に進むにあたり、兄弟が多い僕は学費が心配だったが、幸いにも年の離れた兄が学費の面倒を見てくれることになり、無事に進学と相成った。

 三年間、通い続けた高校を卒業したのが三月。下宿をすることになった僕は、四月までの間を引っ越しの準備に追われた。

 兄が一人暮らしをしていた時のお古などを譲り受けたおかげで、せいぜい、衣類や趣味のものを荷詰めすればいいだけだったのだが、その趣味のものが、如何せん手強かった。

 勿論、本である。一体、自分でも何冊あるのかわからない本の山を、全て持っていくわけにはいかなかった。軽く見積もっても二千冊はあるのだ。僕は泣く泣く、百冊ほどを厳選して段ボールに詰めた。

 こうして、僕は大学生として生活するために、はじめての一人暮らしを始めることになった……わけではなかった。


「ふむ。まさか、本当にこうなるとはな」

 引っ越しを終え、一息ついたところで、雪吹実代が相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。荷物自体はそれなりに多かったが、実代の両親に、僕の両親や姉。さらに弟たちを駆り出した結果、僅か数時間で全てが片付いてしまった。既にお互いの家族は帰路に就いており、今は僕と実代しかいない。

「本当にね。今でも少し不思議だよ」

 僕は苦笑して、今日から暮らし始める我が家を見た。

 地方の大学ということが幸いしたのか、地価が安く、家賃六万円にして一戸建ての借家を借りることが出来た。リビングに個室が二つ。後はトイレに台所に風呂という平屋であるが、僕たちはこの家を大層気に入っていた。

 まず、一つめの理由として、静かであること。大学からは自転車で十分ほどなのだが、住宅街の外れにあるので、夜は基本的に静かで、心ゆくまで読書が楽しめる。

 次に、かなり古い物件だということ。純和風のこぢんまりとした家で、何とも言えない叙情感がある。古くさいと言われればそれまでではあるが。

 最後に、小さいながらも縁側があるということ。四月に入ったばかりの今では少し肌寒いが、もう一月もすれば、裸電球でも天井にくくりつけて、風流な読書と洒落込める。

「二年前の約束が、ようやく叶ったというところか。我が両親ながら豪気なものだ。もっとも、二年も関係が保つまいとでも踏んだのだろうが、生憎と誠二は二年で私に見切りをつけるほど、賢くはなかったというわけだ」

「我ながらさかしいと思っているよ」

 文芸部存続のために交際をはじめてから、二年。付き合って二ヶ月で文芸部は潰れてしまったが、僕たちの関係はついえなかった。恋人という名目から始まった関係も、実を伴い、それに併せるように感情も芽生えていった。今は胸を張って恋人と言える。僕たちだけの定義での恋人ではあるが。

「ふむ。お互いにバカなりに、賢いというところか」

「バカだから、賢いってところかな」

 世間一般の恋人という定義に、無理に自分たちを当てはめなかったのは賢い選択だったと、今は思う。色々な問題を蹴り飛ばして恋人になったあの日。そして、遠回りをして本当の恋人になっていったあの時間。バカだったから、そんな無茶もできた。


 僕と実代の同棲を両親が認めたのは、幾つかの条件をこちらから提示したからだった。


 一つ、個室をそれぞれ持つこと。

 一つ、金銭の貸し借りをしないこと。

 一つ、破局の際は、新居などの段取りを自分たちで済ませること。

 一つ、きちんと大学を四年で卒業すること

 一つ、妊娠させないこと。


 これで良しと言った両親は、割と変人なのだろう。ただし、どうせ同じ大学に進み、お互いの家へ宿泊したりするのだろうから、このような宣言をするだけ、同棲のほうがマシだという判断なのかもしれない。実代のほうは流石にけっこう揉めたらしいが、最後は実代の一言が決め手だった。

「父さんは、母さんと同棲していたというじゃないか。二人の娘である私が、それを望むのは、もはや因果だ。責任は二人にある」

 その後、僕が両親共々挨拶に出かけた折に、実代の父が僕を見て「もう俺の手には負えない。君には苦労をかける」と悔しそうに呟いたのは、きっとそのためだ。以来、実代の父はたまに僕を誘って外食を摂っている。

「なんで、あんな子に育ってしまったんだろう」

「感謝してます」

「俺こそ、風変わりな娘を好いてくれている誠二には感謝してる。この際だから、もう父親と呼んでくれてかまわない」

 お養父さんと呼ぶのも不思議な気がして、親父さんと呼んでみたら、いたく気に入られた。

「実代の何処が好きなんだ?」

 楽しそうにそんなことを聞いてくる親父さんはやはり、義理の父というより、年の離れた友人というほうがしっくりきた。僕の答えは――恥ずかしいので思い出さないようにしている。


 居間で実代と珈琲を飲みながら、これからについて少しだけ喋った。

 大学は明日からはじまる。そろそろ夕飯という時間だが、一日で引っ越しをしたのだから、それなりに疲れている。店屋物か外食をしようということになった。

「どれ。一人で味気ない夕飯というのも可哀相だろう。不破も呼ぶか」

「そうだね」

 実代の言葉を受けて、僕は携帯電話を取りだした。不破にかけてみると、やや疲れた声が聞こえてくる。

 不破も、明日から同じ大学に通うことになっている。国立大学を受験したが、見事に落ちてしまった不破は、浪人することなく、第二志望である、私立――僕と実代が第一志望とした大学へ進むことを決めたのだ。

『こちらも、今日引っ越しを終えたばかりでね。夕飯をどうしようかと思っていたところだ。そちらに伺うので、店屋物でも頼んでおいてくれ……ああ、引っ越しを手伝ってくれた人も連れて行くので、二人分の追加としておいてくれ』

 不破にも手伝いがいて、まだ一緒だったのならば、余計な節介だったかもしれないが、今更「やっぱり来るな」とも言えない。苦笑しながら、近くの蕎麦屋の出前を四人分頼んだ。


 卒業以来会っていない不破だったが、たかが一ヶ月でさほど変わるはずもない。相変わらずの銀縁眼鏡に上品な面構え。ただ、一つだけ予想外だったのは、不破の引っ越しを手伝ったという人間が、同年代の女の子だったということだ。

「紹介するよ。嘉納妙かのうたえという。この二人は、鷹成誠二と、雪吹実代。皆、同じ大学に進む新入生だ」

 嘉納さんという女性は、小柄でとても愛くるしい人であった。亜麻色の髪はセミロングで、ふわふわとした猫っ毛。ぱっちりとした目元は子犬のようである。

「俊彦君と同じ高校のお二人ですよね。お話は聞いてます。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた嘉納さんに、僕と実代はやはり頭を下げて返しながらも、とても不思議な印象を受ける。俊彦君とは、やはり不破のことだろうか。

「嘉納さんは、不破と?」

 実代が躊躇うことなく、二人の関係を尋ねる。不破は苦笑しながら肩を竦め、ぽんぽんと嘉納さんの頭を撫でた。

「まあ、お察しの通りだよ」

 この展開には、流石の実代ものけぞった。


「夏休みに、予備校に通っていたのだけど、そこで知り合ってね。秋口あたりから付き合っていたのだが……そういえば、二人には言っていなかったな」

 四人で蕎麦を食べながら、不破と嘉納さんの馴れ初め話を聞いていた。

 不破が実代に告白してから二年が経つ。いつの間にか不破は、実代とも友達と呼べる関係を築いた。

 しかし、全く未練を捨て去れたわけでもないだろう。不破は端正な顔立ちをしているし、少々堅苦しいところはあるが、中々の弁舌の持ち主だ。波長さえ合えば、恋人を作ることぐらい容易いのではないかと思う。

 そんな不破だから、今まで浮いた話がないことが疑問で、実代への想いを消し去れずにいるのではないかと考えていたのだが、考え過ぎだったようだ。それとも、やはりあの日以来、綺麗さっぱり想いを断ち切ったのだろうか。

「水臭いな。教えてくれても良いだろうに」

「かつての想い人へ、恋人ができたと報告するのも、なんだか妙な話だと思ってね。鷹成には言ってもよかったが、君たちはどうにも二人組で行動することが多い。いずれ知れるだろうと思っていたら、卒業してしまい、今になったというだけさ」

 実代の言葉に、不破は堂々と「かつての想い人」という言葉を用いて返した。不破の隣に座る嘉納さんは特に驚くふうもなく、にこにこと蕎麦を啜っている。

「なるほどね。連れてくるからには、ややこしい事態にはしないというわけか」

 僕が言うと、不破は肩を竦めて頷いた。不破は既に、かつて実代を好きだったことを嘉納さんに伝えてからここに来たのだろう。そのような会話ができるほどの信頼関係が二人にはあるということだ。

 不破と僕たち。それに嘉納さんは同じ大学に通うことになり、否が応でも会う機会はある。何らかの拍子で偶然、嘉納さんが知るよりは、最初から自分で言っておいた方が後腐れがないのだろう。

「手放しで喜べることじゃないんですけどね。けど、俊彦君はそういう話を隠さないだけマシですし……雪吹さんを見てると、ああ、タイプなんだなって解ります」

 嘉納さんは肩を竦めるかわりに、呆れたような溜息をついたが、実代の顔を見てにこりと笑った。実代はその様子を割と神妙な顔で眺めていた。

「女の私から見ても、雪吹さんは綺麗です。ほんと、俊彦君を口説くのが大変だった理由がわかりましたよ。お茶に誘っても、珈琲を一杯飲んだらすぐに帰ろうとするし……」

「嘉納女史こそ、羨ましいほどに可愛いではないか。不破は女心など解する人間ではないし、誠二も似たようなモノだ」

 からからと笑うそれぞれの恋人を見て、僕と不破は苦笑を禁じ得ない。

 女の子同士の会話というのは、横に座っている男にすれば非常に間の悪いものだ。最初はどうなることやらと思ったが、嘉納さんと実代は仲良くなりそうだ。

「同学年ならば、敬語も要らんだろう。どれ、折角だからたえと呼ばせて貰おうか」

「じゃあ、私も実代って呼ぶね」

 否、既にすっかり仲良くなっていた。


「それにしても、不破を口説いたと言っていたが、是非そのあたりの話を聞きたいものだな」

 蕎麦を食べ終わり、僕が珈琲を沸かしている間に、三人はのんびりと居間で談話と洒落込んでいた。

「そう大した話でもないさ。そもそも、僕は口説かれた覚えがない」

 不破は僕のほうを見ながら、アイコンタクトで助け船を求めているが、僕はそれに気付かない振りをする。理由はとても簡単で、僕も興味があるからだ。

「ほんと、大変だったよ。俊彦君から話しかけてきたから、私に興味があるのかと思ったのに、全然ハズレ」

 嘉納さんは当時のことを思い出したのか、呆れたように不破の顔を見た。

「予備校の夏期講習で、参考書ではなく小説を読んでいたら、気になるだろう。その小説が、僕も愛読しているものであれば、尚更だ。読書仲間は多いに越したことがない」

 不破は諦めたように溜息をついて、言い訳のような言葉を口にした。ただ、それが本音であることが僕にはわかってしまう。この男は、恋敵とも友達になろうとするのだ。共通の本を読んでいるのならば、もう既に友達のつもりだった可能性すらある。

 仮に、同じ場所に僕がいたら、声はかけていなかっただろう。不破の社交性の為せる業だ。

たえはさぞかしモテるのだろう。本を口実に寄ってきた男も多いのではないか?」

 僕が珈琲を運んで、それぞれの前に置くと、実代は嬉しそうにカップを手に取り、しかし口を付ける前にそう言った。確かに嘉納さんは言い方こそ悪いが、男受けが非常に良さそうだ。

「予備校の夏期講習で、三回ぐらいかな。俊彦君以外だと」

 それが多いのか少ないのかはわからない。ただ、僕が高校生の頃、教室で本を読んでいるときに、誰かに声を掛けられた記憶はない。

「成る程。それで、僕もそのたぐいと思われた訳か」

「まさか、格好いいなあって思った人に限って、小説の話しかしないとは思わないでしょ。驚くよりも悔しくて、私から話しかけてるうちに、ね」

 何とも不思議な縁である。小説がきっかけで恋に落ちるとは。

 ただし、それ以上に妙な縁で結ばれている僕と実代である。風変わりだとは思うがさして驚いたりはしない。

「まあ、後は自明の理というやつだろう。おたえは容姿も良く、読書好きの上に、何かと突っかかってきて飽きない。口説かれた覚えがないのは、こちらから口説いているつもりだったからさ」

「俊彦君から口説かれた覚えなんて、こっちこそないんだけどね」

 嘉納さんはぼやくが、多分、不破は本気で口説いていたと思う。

 社交的な不破だが、真面目になればなるだけ、言葉は堅く、単調になっていく傾向がある。きっと、クソ真面目な顔をして「君は興味深い人だ」なんて言っていたのだろう。

 それはそうと、不破の嘉納さんへの呼び方だ。お妙とはこれ如何に。江戸時代の町娘でもあるまいに。時代錯誤もいいところだが、そんな呼び方をする不破が僕も実代も大好きだ。その呼び方を甘んじて受け入れている嘉納さんも、おそらく僕たちと趣味が合うのだろう。

 まったく、この二年間で親しくなった人間は、みんな読書好きの変わり者ばかりである。かくいう自分もそうなので、類は友を呼ぶとしか言い様がない。

「まあ、私たちの話はいいじゃない。それよりも、俊彦君から色々聞いてるよ。鷹成君と雪吹さんのこと」

 突然、嘉納さんはそれまでの流れを打ち切り、僕たちの顔を見て楽しそうに言った。

 僕たちの恋愛などあまり他人が聞いて楽しい話とも思えないのだが、僕たちの年代が他人の恋愛に興味を示すことは知っている。

 それにしても、僕たちの恋愛は何もない。付き合ってすぐの頃は、やはり戸惑いもあったし、そもそも恋愛という感情が湧いてこなかった。不破が実代に告白して、危うく別れそうになったり、文芸部が潰れてしまったり。それなりの事件はあったが、その後はもう、本当に穏やかなものだった。文芸部室改め資料室で本を読み、休みの日には二人で出かけたり。今でこそ、大学入学と同時に同棲という暴挙には出ているが、それも僕たちの関係が穏やかすぎたからだろう。

 一緒に暮らしても、きっと喧嘩すらしない。そんな僕たちの恋愛が、どう面白くなるというのだろうか。すっかり肺炎に罹ってしまっていて、おそらくもう立って歩くことすらできないレベルだろうに。

「私たちは、妙な事態から恋愛に発展した程度で、さして面白くもないが」

 実代も同じ気持ちだったようだ。付き合う前から考えていることは似たようなものばかりだったが、二年も一緒にいると、ますます似通ってきてしまうらしい。

「すごく楽しいよ。なんていうかな、私にとっては、特に――」

 ふと、嘉納さんは目を閉じて、静かに微笑んだ。

 それまでの和やかな雰囲気が、急に澄んだものに移り変わっていく。ふと隣を見ると、不破も何かを考えるように、遠い目をしてぼんやりとしていた。不破には、少なくとも思い当たる節があるのだろう。

 僕と実代の恋愛。それが一体なぜ、嘉納さんにこのような表情をさせるのだろうか。嘉納さんはずっと微笑んだまま、祈るように動かない。

「……嘉納さんにとっては?」

 僕が尋ねると、嘉納さんではなく、不破がゆっくりと頷いた。

「楽しいというより、嬉しいと言ったほうがいいと思うがね。まあ、お妙の中での話だ。気にすることもないさ」

 不破はそれだけを言って、嘉納さんを真似るように、そっと目を瞑るのだった。

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