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短編置き場

人形の真綿の檻

作者: 高倉 碧依

(何て事をしてしまったんだろう……)


 夕方というにはまだ少し早い時間だというのに、カーテンを締め切ったうす暗い部屋の中で、へたり込んだ少女がいる。


 その手に握っているのは、少女がへたり込む原因となった物。

 震えながらもう一度確かめた先にある、縦に入った一本の線を見つめながら、愚かで自分勝手な行動の結果への後悔と、何も知らない(れん)への罪悪感。そして、少しの喜びを感じている自分への嫌悪――


 自分の中で荒れ狂う様々な感情の中、予定よりも早くなりそうな蓮との別離に、少女は溢れる涙を止められなかった――


***************************************************


 高校三年生というのは何かと忙しい。

 

 今日改めて配られた進路調査票を前に、水野 彩花(みずの あやか)は深い溜息をついた。三年へ進級した時にも配られたこの紙に、彼女は第一希望も第二希望も家から通える短大を選んでいた。就職や家から離れての一人暮らしを考えなかったわけではないが、両親が進学を進めてきたことと、彩花があの家から離れることを渋る恋人に説得されて決めたことだった。

 だが、それを彼女は今悔やんでいる。


 彩花の両親は職場結婚だった。

 正確には少し違うが、似たようなものだろう。

 彩花の父、(ゆたか)は高梨商事で社長秘書をしている、真面目で誠実な父は社長の高梨 義信(たかなし よしのぶ)にも気に入られていて、よく家へ食事に呼ばれていた。そこで、社長の家で家政婦として働いていた母、奈々と惹かれ合い、結婚した。

 結婚後もそのまま働いていた奈々も、彩花を身ごもると裕と相談し仕事を辞める事にした。高梨夫妻は喜んでそれを受け入れたが、それから暫くして、義信から裕へ自分たちの家の敷地にある平屋に住まないかという打診がされた。

 突然の話に驚く裕に、義信は奈々が辞めてから妻の理恵子の元気がないと伝えたのだ。

 理恵子は所謂良家のお嬢様で、その彼女が義信との結婚で唯一したお願いが、子どもの頃から妹のように可愛がっている奈々を連れていきたいという事だった。もともと理恵子の家で働いていて身元もしっかりしているし、理恵子を溺愛していた義信は二つ返事で快諾し、奈々は住み込みで高梨家で働くことになった。

 明るく元気な奈々は高梨家で働いている他の者達ともすぐに打ち解け、義信も奈々を気に入っていた。

 そんな奈々が家を出ていってから、理恵子はよく溜息をつき、たまに一人で泣いているらしい。

 三男がまだ小さい事で悩みも多い妻を心配する義信に、裕は奈々と相談し、引っ越すことを決めた。


 今も彩花たちは家族三人でその家に暮らしている。

 平屋とはいっても4LDKのその家は三人で暮らすには十分快適で、家賃も光熱費もいらないという義信と、そんなことはできないという裕の間で決められた家賃は破格のものだ。

 産まれた時から彩花を知っている高梨家の人々は、皆彩花を可愛がっているし、妻の、母の我儘に付き合わせてしまっている水野家に感謝していた。


 彩花の恋人は、そんな高梨家の三男 蓮だった。


 蓮は彩花に言わせると完璧な人間だ。

 日本最難関と言われる国立T大を首席で入学し、首席で卒業。高校生の頃には剣道で全国一位になったこともあるが、その他のスポーツでも様々な成績を残してきた。

 強面の義信に似た兄達と違い理恵子によく似たその容姿は、どこか女性的でありながらも男性的な魅力にあふれている。柔らかな濃茶色の髪に瞳、涼やかな目元とすっと通った鼻筋。誰にでも優しく、物腰柔らかな男性――。

 蓮が嫌がるから一度も染めたことのないまっ黒な髪を肩先で切りそろえ、やせ過ぎでも太めでもない標準体型。夜更かしをしたり泣いただけで簡単に一重になってしまう奥二重瞼が一番のコンプレックスで、すらりとした足はちょっとだけ自慢。成績は良くて中の上で、運動はからっきし。

 そんな彩花には、付き合い始めてから二年経った今でも、なぜ蓮が自分を選んでくれたのか分からない。


 初めて告白されたのは中学三年生の時だった。

 「ねぇ彩花、俺と付き合わない?」彩花の部屋で勉強を見てもらっている時に言われたそれを、彩花は冗談だと思って笑って流した。まさか蓮が本気で言っているなんて想像もできなかったのだ。

 「俺は本気なんだけどなぁ、まぁいいよ」蓮もそう笑っていた。


 高校生になりファミレスでアルバイトを始めた彩花は、暫くするとバイト仲間で、違う高校に通う一つ年上の少年と付き合うようになった。だが、三か月も経たずに別れた。彼氏の浮気だ。

 中々キスもさせない彩花を「もったいぶる様な顔かよ」と言った彼の新しい恋人は、綺麗な大学生のお姉さんだったらしいが、もうどうでもいいことだ。


 フラれたと泣く彩花の頭を撫でながら、「なら俺と付き合おうか?」と言う蓮の言葉を、彩花は同情して慰めてくれているだけだと思った。「そんなに慰めてくれなくても大丈夫ですから」と答えた彩花に、「俺は本気なんだけどなぁ」と蓮は笑った。


 それから二カ月ほど経った頃だろうか――

 彩花はストーカーの被害にあった。

 相手の男はバイト先に来ていた客の男で、男と彩花の間に特に何かあったわけじゃなかった。いつものように接客しただけなのに、その日から恐怖の日々が始まった。鳴り続ける電話に気持ちの悪い郵便物。学校にもバイト先にも現れては待ち伏せをされ、果ては部屋から見つかった盗聴器――

 彩花を心配した蓮が、インターネットで買ったという機械を使って見つけたそれを見た瞬間、彩花の心は恐怖で壊れそうになった。

 そんな彩花を救ってくれたのは、やはり蓮だった。

 「彩花は俺が守るから」泣き叫ぶ彩花を抱きしめそう言った蓮は、それからストーカーの男と話をつけ、どうやったのか彩花をストーカーから守ってくれた。


「ねぇ彩花、この世で彩花を一番愛してるのも、大事にできるのも俺だけだよ。

俺が一生彩花を守ってあげるから、俺と付き合おう?」


 そう言って差し出された手を、彩花は取った。




 蓮は優しい。付き合い始める前もそうだが、彼女となってからは余計に。

 とても幸せな時間をくれた。


 ただ……その手を離さなくてはいけない日が来ることは、常に覚悟をしていた。

 高梨家の人達はみんな彩花達に良くしてくれるが、それでも蓮との付き合いにはいい顔はしないだろう。彩花のせいで両親を困らせるのも、高梨家の人達の顔を曇らせるのも嫌だ。きっと将来、蓮は蓮の隣に立つのに相応しい女性と結婚するだろう。

 そう、覚悟をしていたのだ。



 高校三年生の秋、日曜の昼さがりに、彩花はバイトに行くために駅前へと自転車を走らせていた。

 交差点で信号待ちをしている時、道路を挟んだ側にある高級ホテルから、スーツを着た蓮が出て来るのが見えた。ちょうど信号が変わったので、蓮に会ってからバイト先に向かおうとしていると、蓮の後から振り袖姿の女性と年配の男女が出てきた。

 その三人には見覚えがあった。

 義信の従兄弟夫婦と、その娘の志乃だ。

 何故だが動けなくなってしまった彩花の前では、三人に見送られながら蓮の乗ったタクシーが走り去って行った。

 タクシーを見送った三人が彩花に気付くと、彩花は慌てて会釈をした。


「君は確か義信さんのところにいる……」

「はい、水野 彩花です。

お久しぶりです」


 男性の言葉に挨拶をすると、三人は彩花に近寄ってきた。


「ちょうどよかった。君に話がしたかったんだ」

「話……ですか?」

「君と蓮君の事は知っている」

「……っ」

「今日志乃と蓮君は見合いをしてね、義信さんも蓮君も志乃との結婚に乗り気だ。春には婚約をして、来年中に式を挙げようかと思っている。

こちらの言いたいことはわかるかね?」

「けっ……こん……」


 掠れた声で零れた声に反応したのは志乃だった。

 真っ赤な振袖に派手な化粧を施したその様子では分かりにくいが、彩花よりも一つ年上の彼女は、たいして背は変わらないが、首を傾ける事で彩花を馬鹿にしたように見下ろした。


「私と蓮さんの結婚は昔から決まっていたことなのよっ!

結婚するまでは清らかでいたいって私が言ったから、蓮さんは手近にいたあんたに手を出しただけっ!

勘違いしないでよねっ!」

「こら、志乃。こんな道中で大声を出すんじゃない。

……もちろん、君も自分の立場はわかっているだろう?」


 その言葉に静かに頭を下げると、彩花はその場を離れた。

(蓮さんが結婚……。蓮さんはまだ23歳……結婚なんて……まだ先の事だと思っていたのに……っ

嫌だ……嫌だよ蓮さんっ)

 溢れる涙を拭いながら何とか辿り着いたバイト先で、店長に酷い顔色をしているから帰りなさいと促され、そのまま家へと帰る事になった。

 帰り着くと、奈々は高梨家へ行っているのか留守で、裕もいなかった。

 その事にホッとしつつ、何とか自分の部屋まで我慢していた涙が、部屋の扉を閉めたとたんに流れ出す。


「うっ、うぅっ、ひっ……」


 どれだけそうしていただろうか。

 暗くなった部屋の中、泣き疲れて霞んだ思考の中、彩花の中に一つの願いが浮かんだ。

(わかっていたつもりだった……。いつかはこうなるって思ってた……。

蓮さんの為にも、志乃さんと結婚した方がいい。

だけど……だけど、私も、何かつながりが欲しい……。

ちゃんと別れるから……諦めるから……蓮さんに愛された証が欲しい……)

 ふらつきながら立ち上がり、ベットの横の引き出しから小さな箱を取り出す。

 めったになかったが、この部屋でも蓮と愛し合う事はあった。その時の為に蓮が置いておいた箱の中身を出す。まだほとんど使われていなかったその内の一つを掌に乗せると、しばらく掌のそれを見つめた後、違う引出しから出した裁縫セットから針を一本取り出し、震える手のまま四角いそれの中心に刺した。

 刺し貫いた針を引き抜き、それをもとのように箱に納めて引出しに戻す。

 間違った事をしていると分かっていた。

 それでも、その時の彩花には、自分の行動を止める事が出来なかった――


***************************************************


 志乃との見合いがあってからも、蓮の態度は変わらなかった。

 変わらず彩花を優しく甘やかしている。

 いつ蓮が別れを切り出してくるのか怯えながら、彩花はバイトの時間を増やしていった。両親が反対しても、高校を卒業したらあの家を出ようと考えたからだ。バイトバイトでデートを断る彩花を、蓮が怪しんでいることは気付かなかった。



 寒さも厳しくなってきた頃、リビングの炬燵で寝ている彩花を母が叱ったのが始まりだった。


「彩花っ、こんな時間に寝てたら夜寝れなくなるわよっ」

「だって……最近やけに眠くて……、ちゃんと夜も寝てるから大丈夫だよ」

「それはそれで寝過ぎよ。なぁに、具合悪いの?」

「んー? わかんないけど、ちょっと熱っぽいかも」

「風邪かしら? ああ、もしかしてあの日が近いんじゃない?」

「んー? あ、そうかも」

「それなら薬はいらないわね、もうお風呂に入って布団で寝なさい」

「はーい」


 奈々に答えて炬燵を出ながら、頭の中にカレンダーを思い浮かべる。

(えーと、この前が五日で……。

あれ? ちょっと待って、今日って何日……?)

 ドクドクドク……とうるさい心臓をおさえながら、まさかという思いに囚われる。

 一度思いついてしまえばいても経ってもいられなかった。

 逸る気持ちのまま家を飛び出し、薬局で買って来たものを震える手で開封した。

 怖ろしいほどの長い時間を待ち、出た結果は――



 散々泣いた後、へたり込んだ恰好そのままに、自身の下腹部へそっと手のひらを添えた。


「蓮さんの赤ちゃん……」

(私の赤ちゃん……。

ごめんね、こんなお母さんでごめんね)


 父親を知らない子になるであろうこの子への罪悪感。

 蓮の分まで精いっぱい育てると改めて決意し、家を出る日を早めなければと考えた。一緒に暮らす両親を、いつまでも隠せるものじゃない事は簡単に想像がつく。

 

 その時、部屋のドアが軽いノックの音を立てた後に返事を待たずに開かれた。彩花が驚いて振り向いた先にいたのは、いつものように穏やかに笑った蓮だった。


「蓮さんっ、どうして!」

「裕さんから最近彩花の体調が悪そうだって聞いてね、大丈夫か心配になって」

「あっ、そのっ、別に病気なわけじゃないから大丈夫っ」

「そうだね、確かに病気じゃなさそうだ。

ねぇ彩花、俺に伝えることがあるよね」

「え?」

「それ、結果はどうだったのかな?」

「それ……? 結果って……」

「うん、その手に握りしめているものを俺にも見せて?」

「……っ」


 言われた言葉にハッとして慌ててその手を背中に隠した。彩花のその行動を見た蓮は、床に転がったままだった空箱を手に取り振った。


「彩花……中身を渡しなさい」

「違うのっ、試しにやってみただけでっ、大丈夫だったからっ」

「大丈夫っていうのはどういう意味? いいからその背中に隠したものを俺に渡して?」

「……ごめっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」 


 手を隠したまま頭を横に振り続ける彩花の前まで進むと、抱きしめるようにして背中に隠したものを抜き取った。一度それを確かめた後、彩花をきつく抱きしめる。


「彩花、結婚しよう」

「っ、ダメッ!」

「何で? 子供ができたならその子の為にも早めに……」

「この子は蓮さんの子じゃないっ」

「……彩花、馬鹿な嘘はやめなさい」

「嘘じゃないよっ、だから蓮さんは気にしないで志乃さんとっ」

「志乃……? って、誰の事?」

「誰って……蓮さんの再従兄弟で、お見合いした人でしょ?」

「再従兄弟って言われてもあまり覚えてないな、それに俺はお見合いなんてしてないけど。

彩花がいるのにそんな事するわけないだろう?」


 その言葉に嬉しさのまま連の背中に回そうとした手を、慌てて蓮の胸に置いて距離をとった。例え志乃との事が誤解だったとしても、蓮と彩花の結婚は周りに反対されるに決まっているし、何より……

(私……私、最低な事をしたっ)


「蓮さんっ、ごめんなさいっ、私っ」


 彩花が泣きながら自分がやったことを話すのを黙って聞いていた蓮は、小さく溜息をついた後、両手で彩花の頬を覆い、親指で流れ続ける涙を拭う。


「それで? もし本当に俺がお見合いをしていたら、彩花はその子とどうしようとしていたの?」

「どうって……?」

「最近バイトを増やしてお金を貯めてたようだけど、もしかしてこの家を出ようと思ったのかな?」

「それっは……」

「バカな子だとは知っていたけど、ね。

未成年の彩花が簡単に住む場所を見つけられると思っていたの?

アルバイトだけで生活できると思っていた?

子供を産んだ後はどうやって生活する気だったの?」

「あっ……」

「確かに彩花がやった事は許されないことだね、相手の意思を無視した、最低の裏切りだ」

「ごめんなさいっ」

「もういいよ、俺はそんなバカな彩花が可愛いから」

「蓮さん……」

「俺と結婚しよう、結婚……するね?」

「するっ、蓮さんと結婚するっ」


 泣きながらしがみついてくる彩花をしっかりと抱きしめた蓮は、満足そうに微笑んだ。




 それからの日々は瞬く間に過ぎて行った。

 彩花は短大に進む事をやめ、高校を卒業した後は、家族に見守られながら自分の中で成長していく命を育んでいる。

 蓮との結婚は驚く程すんなりと認められた。高梨家は勿論、彩花の両親もとっくに二人の関係を知っていたらしい。理恵子などは誰よりも喜んでくれた。ただ、結婚前の未成年である彩花を妊娠させたことで、蓮は義信と裕に一発ずつ殴られた。本当の事を言おうとする彩花を、結果的に責任は自分にあると蓮はとめた。


 彩花が誤解したあの日は、あのホテルで違う再従兄弟の結婚式があったらしい。仕事の関係で披露宴が終わり次第帰った蓮の他にも、あの時あのホテルの中には高梨家の面々がみんないたと教えられ、彩花はホッとするのとともに、ちゃんと蓮に確認しなかった事を後悔した。




 彩花の部屋は産まれてくる子の為に買い揃えた物で溢れていた。蓮は勿論だが、両親達に蓮の兄達も、競い合うように様々な物を買ってくるのだ。今日も義信にもらった物を大きなお腹を支えながら分けていると、後ろから暖かな腕に囲われた。

 振り向き仰ぎ見た先には、穏やかに微笑んだ蓮が彩花を見つめていた。


「ただいま、そんなに動いて大丈夫? 無理はしてない?」

「おかえりなさい、蓮さん。全然無理なんてしてないよ、それよりも見てっ、またお義父さんがおもちゃを買ってきてくれたのっ」

「またか……いい加減にして欲しいと言ってるんだけどね。

初めての孫に舞い上がってて、困るな」

「でも、この子の事を喜んでくれているのがすっごく嬉しいよ。

ねっ、あなたも嬉しいでしょ?」


 そう言いお腹を撫でる彩花は本当に幸せそうだった。

 そんな彩花の顎を持ち、軽い音を立てるキスをすると、蓮は聞いた。


「彩花は今幸せ?」

「もちろんだよっ、これからこの子が元気に産まれたらもっと幸せっ」

「良かった、俺もとても幸せだよ」


 段々と深くなっていくキスを繰り返しながら、奈々が夕食に呼びに来るまで、二人はその幸せな時間をゆっくりと過ごした――



♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢



 【高梨家のお人形】と呼ばれる少年がいた。

 赤子の時から兄達と違い全く泣かず、笑う事も無かった我が子を、両親は様々な医師に見せた。

 少年を見た医師は、様々な病名をあげるが、治療法は見つからなかった。

 成長すれば自ずと自我が生まれ、改善されていくと言われたが、歩けるようになっても、話せるようになっても、誰も泣く顔も笑う顔も見ることはできなかった。

 ただ、何かを学ばせると驚くべき速さで吸収し、少年を教えた者はこぞって少年を「天才」と称した。

 そんな少年を、親戚や父親の仕事の関係者達は様々な感情をもって、陰では【高梨家のお人形】と呼んでいた。


 ある日、母親は少年を連れてある親子に会いに行った。

 母親が妹のように可愛がっているその女の事は、少年も嫌いではなかった。

 家族がいない場では態度を変える者が多かった中で、その女とその夫は、数少ない変わらぬ態度で接してくる大人だった。


 女の腕の中ではしわくちゃな赤子が寝ていた。

(これが赤ん坊ってものか)

 そう思いながら触れてみようとのばしたその手を、赤子がギュッと握ってきた。

 多少は驚いたが、特に痛いわけでもないので放っておいた。

 すると、何やら呻いた後、赤子が少年へ向けて笑った。


「うーあぅー」


 初めて何かを、誰かを『可愛い』と思った。

 初めて何かを欲しいと思った。



 それが全ての始まりの日。

 その子を見ていると自然と笑顔を浮かべることが出来るようになった。

 その子が自分じゃなく他の人間に笑いかけるのが面白くなかった。


 その子の前では表情を変える少年に、母はそれでも喜んで泣いていた。

 その母を見て、家族にも笑って見せるようになった。怒ってみせるようになった。

 一度覚えたら、表情を変えることは簡単に出来るようになった。



 毎日会いに行っても、必ず夜には別れなくちゃいけない事が不満だった。

 だからある日母に聞いてみた。

「あやかとずっといっしょにいるにはどうしたらいいの?」

「そうねぇ、彩ちゃんが蓮のお嫁さんになってくれたらずっと一緒にいられるわよ。

そうなったら素敵ね。私も奈々と親戚になれたら嬉しいし、彩ちゃんは蓮の笑顔を私に見せてくれた大事な子だもの」


(およめさん、そうしたらあやかとずっといっしょにいられるんだ)



 彩花を手に入れる為に蓮がしたことを知ったら、彩花は逃げるかもしれない。

 彩花のした行動なんて筒抜けで、蓮がそれを利用していたことを知ったら、彩花は逃げるかもしれない。

(あんなもの使っているわけないだろう。ただ、彩花がその気なら、方法なんていくらでもある)



 だが、幸か不幸か、彩花が真実を知る日は一生来ないだろう。


 人形の作った真綿の檻の中で、優しい夢を見続けるのだから――


読んで頂きありがとうございます。

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