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短編集 『K8O』

瞳 - Red & Black

作者: 夏目カガリ

 

 その日の放課後、クラスメイトの佐久間に誘われた。ある女に会いに行くのだと。一緒に行かないかと言われて断る理由は特になかった。一応の優等生で通る佐久間がそんな場所に行っているということへの好奇心もあったし、なにより退屈さが生活にこびりついている事を知っていた。待ち望んでいたわけでもない高校生活はやはり予想以上にくだらなく、僕は膿んでいた。



 放課後、制服のままで向かったのはシティの中心部からだいぶ外れた廃墟街だった。

第三次世界大戦後の復興期から取り残された元住宅街だ。今じゃお目にかからないような古いモデルのコンクリートの建物が整然と並んでいる。小学生の頃は幽霊が出るだとか、マフィアの隠れ家だとか、そんなありきたりな噂が流れていた。学校でも近寄ることを禁じられていたが、それはおそらく倒壊の恐れがあったからなのだろう。

 てっきり、それらしい店のある繁華街の方に行くものだと思っていた僕は、いささか不審気に前をゆく佐久間をうかがった。

 長身でブレザーをきっちり着こなしている彼はとても同世代には思えない。落ち着いた物腰と、ぴんと伸びた背中。生徒はおろか教師からも一目置かれる人間だった。県下有数の進学校の中で落ちこぼれの代名詞であり、かつその状況に何の感慨もなく甘んじている僕とは住む世界が違う。

 なぜ、僕を誘ってきたのだろう。佐久間とは確かにそれなりの友人関係を築いていたが、それでも学校外で会うようなことはこれまでなかった。誰とも隔てなく接するのが佐久間の『交友法』だと――他の人間がどう思っているかは知らないが――僕は承知していたし、所詮クラスメイトという関係でしかないのだと思っていた。

 しかし、何となく理解できる気もする。時折、居るものだ。どうしても気になってしまう人間というものが。ただ、彼を気になる人間は多数いたが彼が気になる人間は稀だったと思う。なぜ僕なのかは知らないが、それでもよく佐久間からの視線を感じていたのは事実だった。

 おそらくは僕が佐久間を胡散臭く思っていたからかもしれない。昔から常に物事を一歩退いて見てしまう癖があるからか、僕には彼が表面上を取り繕った人間に思えてしょうがなかった。正面きってそう口にしたことは勿論ないけれど。しかしある種の磁力のように、そういった不信感とは本人に伝わるものだ。

 だから佐久間は僕に興味を抱いたのかもしれない。傲慢な予想だろうか。



 ここだ、と佐久間が足を止めたのは廃墟街のさらに外れに位置する、今にも崩れそうな建物だった。元は何かの事務所だったらしいが、看板の字はもう読めない。赤錆のような色の外壁と巻きついている蔓草が、奇妙な斑模様を作り出していた。


「……こんなところに本当に人が住んでいるのか?」

「彼女が俺の幻覚じゃなければね。もう何度も来てるから、安心して」

「それって、佐久間の彼女?」

「まさか」


 ありえないと真顔で言い切り、それを払拭するかのように佐久間は微笑んだ。まるで僕を安心させるかのように。悪い冗談だ、目の奥は笑っていないくせに。

 そっと足を踏み入れたそのアパートは、外見以上に酷いありさまだった。階段のコンクリートはひび割れ、足を床から剥がすごとに埃が舞う。そのうえ廊下は暗く、夕日が差し込んでいなければまともに歩けないほどだ。


「あそこだよ」


 佐久間が指したのは三階の一番奥の部屋だった。慣れた様子でブザーを押せば薄く扉が開く。人が居たという事実もさることながら、ブザーという古典的な装置が今も機能しているということに驚いた。隙間から聞こえるぼそぼそとした話し声は女性特有の高音で、その声に思い出したように身体が緊張した。

 特に何も考えてなかったけれど、具体的にここは何をするところなのだろう。風俗の類にしては余りにも場所が汚すぎるし、街から遠すぎる。バスはおろか、道路すら通っていないのだ。僕たちはもっとも近いバス停から約30分歩いてここにたどり着いた。辺鄙すぎる。けれど佐久間は毎回この距離を行き来しているらしい。彼女でもない女に会うために。

 こんな人気のない場所を選んですることといえばもう薬の類しか思いつかない。……のこのこ来たのは浅はかだったか。



 そんな考えに思い当たり僅かに身を硬くしたとき、ドアが開いた。

 迎え入れたのは髪の長い女だった。背が高くて、白いノースリーブに白いスカートのシンプルな格好をしている。肌が病的なほどに青白く、どことなく気だるげで、不幸の匂いを漂わせる女だった。その上、腰まである髪は傍目からわかるほどひどく痛んでいる。

 しかし、そんな外見も女の瞳の前では何の威力もなかった。

 女の両目ははっと息を飲むほどに漆黒で、二重がはっきりしていた。黒目が大きい。吸い込まれそうなほどに塗りつぶされたその黒い両眼はまるで、奥深い森の中の湖のようだった。

 思わずじっと見惚れた僕の背中を軽く佐久間が押す。からかうような笑みを口元に貼り付けて、さっさと入れと無言で促された。むっとするより先に、こいつらしくないな、と思った。



 部屋の中は簡素だった。それなりに広さのある大きな箱のようなワンルームで、天井が意外にも高い。使われた形跡のないキッチンは埃をかぶり、家具といったらバネがはみ出したソファがひとつのみ。壁紙は九割がた剥げてぼろぼろだった。

 部屋の西側には幾重もの布が、壁や天井から垂れ下がっていた。その奥に窓があるのか、西日が布々を赤く染めている。電灯のない部屋で、そこからの赤い光だけが唯一の光源だった。明らかに異質な空気を漂わせている。

 近寄ってみると、麻の布にはひとつひとつ刺繍が施されていた。どれも同じ木の模様らしい。葉を埋め尽くすように金色の小さな花の群集が丁寧に縫いこまれている。草木に詳しい方ではないので、何の木かはわからなかった。

 その布の中を掻き分けて進むと、意外なほどすぐにベッドに突き当たった。なるほど、これはカーテン代わりというわけだ。

 ベッド脇には大窓がひとつあって、大きな夕陽がまっすぐに灰色の街を突っ切り、窓から差し込む。まるでこの部屋に向かって光を放っているように見える。太陽がこんなに大きなものだと感じたのは、生まれて初めてだった。

 一直線に差し込む赤い光。気圧されるほどに美しく、凶暴なほどのエネルギー。


「高瀬」


 呼ばれるまで気配に全く気づかなかった。内心の驚きを隠して振り向く。肩が揺れなかったことは、自画自賛していいだろう。

「鞄、預かっててくれないか。俺が先でいいよな」

「待てよ、何の説明もなし? これから何をするんだ、」


 佐久間は答えなかった。薄く笑みを浮かべている。さっきとは完全に種を異にする笑みだ。夕陽が赤く顔の半面を照らしていて、そのせいで陰影が深く見えた。

 赤と白い肌。赤と黒い瞳。それぞれ鮮明な二色のコントラスト。


「自分の番がきたら分かるよ。待っててくれ」


 僕に学生鞄をあずけて、佐久間は何のためらいもなくベッドへ腰掛けた。僕は無言で踵を返して、幾枚にも隔てられた布をめくりながらベッドから離れた。

 バネのはみ出したソファの上に彼の鞄と自分のを投げ出し、それから腰を下ろす。数メートル先の正面には布に隠されたベッド。佐久間の姿は見えないが、制服を脱いでいることは衣擦れの音でなんとなく察した。

 苛ついていた。状況が把握できない不安からか、ようやく奴が見せた酷薄さのせいか。

 夕陽に照らされた獰猛な顔。あれが真実。あれが奴の本性。

 いつかこいつは誰かを壊すんじゃないか、もしくは自らを破滅させるんじゃないか、そんな未来を予想させる笑みだった。しかし更に恐ろしいことは、それを佐久間自身も気づいているということだ。

 来なければよかった。もう知らなかった頃には戻れない。

 俯いた僕の横を、女が通りすぎた。顔をあげて睨みつければ、興味のなさそうな顔で僕をちらりと見て、あとは振り向かずにベッドの方へ向かう。

 それからの時間、僕はただひたすらに寝心地が悪いソファで丸くなっていた。



 張り詰めた緊張に疲労して少しうとうとし始めたころ、佐久間は出てきた。目を瞬かせれば、すっかり日が沈みきって部屋は暗い。


「俺の鞄、取ってくれるかな」


 ひどく疲れているみたいだけれど満足気な、それでいてどこか放心したような顔をしている。崩れ落ちるようにソファに倒れてきたので、慌てて身体を起こす。


「おい、ちょっと」

「大丈夫」


 ソファに寄りかかってだらしなく床に座り、佐久間は学生鞄を探ると時計を取り出した。時間をちらりと確認する目は少し落ち窪んでいた。

 そっと佐久間の横顔を観察した。制服の上着は脱いでいるが、服も髪も殆ど乱れていない。けれどさっきまでの己を完璧に律した風は名残すらなく、代わりに無垢なぼんやりとした表情をしていた。

 まるで憑き物が落ちたかのような。ほんの数十分前に見たあの笑みすら幻覚ではなかったのかと思うほどに。

 何気なく見ていたベッドの方から、女の手だけがゆらりと現れて垂れ下がっている布の一枚を引っ張った。ぶちぶちと乾いた音を立てて天井から一枚、布が舞い落ちる。それを肩からカーディガンのように掛けて女は出てきた。

 むき出しになった腕が余りに白く、暗闇の中で白光しているかのように見える。髪を梳いたのだろうか、さっきまでとは違って美しく艶を取り戻した黒髪が皮膚の上をなだらかに滑っている。よく見れば美しい女だった。なぜさっきは気づかなかったのだろう。

 数メートル先の僕を無表情に見すえて、女は呟いた。ここに来てから初めてまともに聞いた声は意外にも柔らかかった。


「あなたはいらない」


 佐久間が弾かれたように僕を見たのがわかった。僕の目はというと、その女に釘付けになっていたのだけれど。女の双眸はこの距離からもわかるほどに、やはり漆黒だった。さっきよりも深みを増したみたいだ。

「行こう」

 ゆらりと佐久間が立ち上がり、僕は追われるように彼の後を追ってその部屋を出た。

 扉を閉める前に振り向くと、彼女は心持ち小首をかしげ人形のように佇んでいた。



「高瀬は、必要なかったんだな」

 バス停までの道のりを辿りながら、佐久間がぽつりと呟いた。それには答えずに、代わりにずっと気になっていたことを口にした。

「彼女の目だけど」

「すごいだろう? 両目とも真っ黒なんだ」

「初めて見た……なんで後遺症が出てない?」

「さあ、わからない」


 黒と赤の目を伏せ、佐久間は地面に転がっていたコンクリートの固まりを蹴ると淡々と言った。その彼を見る僕の目も、片方赤い。全人類が各々生まれ持った色と赤をあわせて持っている。

 第三次世界大戦で使われた新型核兵器の後遺症だ。五十年近くが経過した今でもそれは衰えることなく遺伝している。どういう仕組みで瞳の色が変わるのかはまだ解明されていない。けれど例外はない。なのに、彼女は。


「ありえないはずだよな。大戦での被爆は世界規模だった。影響を受けていない人間なんて存在するはずがない。人から産まれた以上、必ず母体から遺伝する」

「その言い方、彼女が人じゃないように聞こえるけど」

「かもしれない」

 ふっと笑った横顔は珍しくも面白がっているように見えた。

「……彼女とあのベッドで、何をしてたんだ?」

「高瀬が想像していることは何ひとつしていないよ」

「僕が何を考えているかなんて分からないくせに。青年雑誌に載っているようなことはしていないと思ってるさ」

「はは、正解。……目を、見ていたんだ」

「目? あんな長い時間、ずっと? いくら珍しいからって、ちょっとマニアックじゃないの」

「彼女の目をずっと見ていると映ってくるんだよ」

「何が?」

「俺の、心が」


 一瞬、何を言っているのか理解しがたかった。心が目に映る? ありえない。それこそ存在するわけがない。マッチ売りの少女じゃあるまいし。


「見えるんだ、本当に。じっとあの黒い瞳を見つめているとだんだん現れてくる。俺の心の奥底に眠るモノが。 ……すごく汚いんだよ。そこらのスプラッタ映画なんて目じゃないくらい、汚くて醜くておぞましいモノが口を開けて笑ってる。 けどそれは確かに俺のモノなんだ。俺の中に沈殿している。もしかしたら、あれは願望なのかもしれない。 最も強い願望は、最も奥まった場所に仕舞いこまれているものだろ」

「……そんなもの、わざわざ見てどうするわけ?」

「彼女がそれを掬い上げてくれる。吸い取ってくれるんだ」


 佐久間は、とても穏やかに笑った。疲弊した様はぬぐえないけれど、安堵感に満ちていた。空には半分にきっかりと割れた月が掛かっている。さっきの夕陽と今の月光。光の加減でこんなにも人の顔は違って見えるものなんだろうか。

 そんなことを考えながらも、それが理由でないことは勿論わかっていた。


「それこそ幻覚じゃないのか。だってそんな御払いみたいな真似……彼女は巫女か何か?」


 巫女だってそんなことはできないだろうと思いながら、僕はそんな軽口を叩いた。もし相手が佐久間ではなく他の人間だったなら、もっと辛らつな言い方をしていただろう。佐久間が極めてリアリストだと確信していたからこれ位のことしかいえなかった。


「さあ。確かに幻覚、もしくは妄想かもしれない。ありえるはずのない瞳を持っているから神聖視しているのかも。けど、俺は確かに彼女が俺の醜い願望を吸い取ってくれていると感じているし、彼女自身も自分の能力を自覚している。それでいい」

「能力?」

「他に適当な言葉が見つからない。流してくれ」


 しばらく、無言の時間が続いた。記憶が正しければ、バス停まであと少しだ。

 聞きたいことはまだたくさんあった。例えば、彼女とどこでどう出会ったのか。他にも彼女を頼ってくる人間はいるのか。なぜ彼女はあんな場所にいるのか。あそこに住んでいる様子はなかったけれど、本当の居場所をお前は知っているのか。そもそも、本気でお前は信じているのか。彼女のその『能力』のことではなく、自分の『奥深い願望』とやらについて。

 しかしどれも些細なことに思えてならなかった。いずれ聞ける機会があるかもしれない。


「高瀬は、俺と同じなんじゃないかと思っていたんだ」

 バス停に着いたとき、辺りは来たときと同じようにまったく人気がなかった。

「他の人間には絶対に理解できないこの感情と似たものを、お前も持っているんじゃないかと思った。だから誘ったんだ。ずっと機会を窺ってたんだよ、実は。もしかしたら仲間が欲しかったのかもしれない」

「がっかりさせたかな」

「いや」

 佐久間は顔を上げ、うっすらと笑った。

「安心した。よかった」

「これからも、あそこに行くのか?」

「消えたわけじゃないから。俺が生きている限り、この願望とは背中合わせなんだ。

……怖いんだ。いつ皮膚が裏返ってこいつが出てくるのかって不安でたまらない。俺は、行かなきゃならない。たぶん死ぬまでずっと」

「また付いて行ってもいいかな」

「社交辞令はやめろよ。お前はもう来ない」


 佐久間はそう笑ったけれど、僕はいつの日か彼女の元を訪れると予感していた。

 佐久間と同じ位、いやそれ以上に黒く蹲ったものが僕のなかにも眠っている。

 部屋を出る間際、佇んでいた彼女。やはり、とても巫女とは思えない。

 なぜ、眠ったままにしてくれなかった。もう遅い。何もかも。


 扉を閉める前にその赤い唇は僕に向かって、またね、と囁いたのだから。






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