本物の俺と偽者の彼
口は禍の元
夏季休暇で避暑地に行っていた婚約者が、女を連れて帰ってきた。
「本当にすまない、エディス。だが彼女は、本当の俺を愛してくれたんだ……!」
そして女連れで会いに来たと思えば、そんな戯言をのたまった。
「は、はあ……」
何聞かされてるんだろう。エディス・アボット伯爵令嬢は、『愛されちゃってる俺』に酔いしれている婚約者のジャスパー・オショーネシー子爵令息と、浮気相手らしき女に面食らった。
「ええと、ジャスパー? とりあえず、そちらの女性を紹介していただける?」
「ああ、そうだな。彼女はエイプリル・ダン。ダン男爵家の令嬢で、かの有名な『フール湖の女神』だ」
フール湖というのは避暑地で有名な場所だ。
夏は涼しくて過ごしやすいが、冬は極寒でとても人の住むところではないといわれている。
そのフール湖の女神はたいそう麗しく妖艶で、男たちの願いを叶えてくれるという。どんな願いかは察して余りある話だ。エディスが知っている女神の逸話はそんなものだった。
「そう……。それで、ダン嬢が本当のあなたを愛してくれたというのは?」
令嬢だったのね。エディスはさりげなくエイプリルを見た。少なくとも、同い年には見えない。令嬢というには薹が立っていた。
化粧が上手ね。それがエディスの感想だった。女神というのも頷ける美貌だ。それから視線を下にずらす。お見事としかいいようのないたわわな果実がふたつ。あれは偽物じゃないわ。大きさ、形、羨ましいの一言に尽きる。
「そう、そうなんだよ。エディス、聞いてくれ」
待ってましたとばかりに身を乗り出したジャスパーが語ることには。
エディスとジャスパーの婚約は政略である。望む望まざるに関わらず、親が決めたこと。ジャスパーは特に不満はなかった。貴族なのだからそういうものだと受け止めていた。
エディスのことも、好ましく思っていた。伯爵令嬢だと身分を鼻にかけることもなく、ジャスパーに寄り添おうとしてくれていた。
退屈で、平凡な日々に、不満はなかったのだ。
「だが、エイプリルと出会ってわかったんだ。本当の愛に!」
「ジャスパー様……」
うっとりとした顔で両手を合わせるエイプリル。抱き着きこそしないがさりげなく谷間を強調するあたり、あざとい。
「本物の俺をエイプリルが見つけてくれた。俺はこの愛に生きたいのだ。どうかエディス、わかってくれ!」
「本物の……ということは、今までのジャスパーは偽者だったと言いたいのですか?」
「そうだ!」
本当の、本物の、と言っているが、ようは浮気である。避暑地で出会った美女に誘惑され、コロッといってしまったのだろう。
アボット伯爵家の客間にいた、ジャスパーの従者があわあわと挙動不審になり、エディスの侍女と控えのメイドがこめかみを引き攣らせる。対比に笑い出しそうになり、エディスは考え込むふりをしてうつむいた。彼らのおかげで感情的にならずに済んだ。
「……わかりましたわ」
ややあって顔を上げたエディスが了承すると、ジャスパーは安心したのか満面に笑みを浮かべた。
「偽者と婚約などしていられませんもの。父に報告し、婚約は解消いたします」
「ありがとう、エディス!」
「ありがとうございます、エディス様!」
手を取り合って喜ぶ二人に、エディスは微笑んで見せた。
どうしてくれよう、この二人。
エディスとジャスパーが婚約したのは互いに十歳の時。家格はオショーネシー家が子爵と下だが、王国内でも重要な交通路があるため経営的には裕福だ。派閥間の強化を図る目的の婚約だった。
二人の乗った馬車がアボット伯爵家の門を出ていくのを眺め、エディスは唇を引き結んだ。
政略だった。それでもエディスはジャスパーが好きだった。きっかけなんてない。顔を合わせ、言葉を交わし、微笑みあう。その積み重ねでゆっくりと、エディスの恋は芽生えたのだ。
それを。
六年間の微笑ましい思い出のすべてを。
偽者、と言ってくれたのである。本当にどうしてくれようか。
「……俺ってなによ」
エディスの知るジャスパーは、自分のことを「僕」もしくは「私」と言っていた。
学園にいる高貴で麗しい令嬢に惑わされたりしなかった。
なにより――エディスのことを、いつも思いやってくれた。
「あれが、偽者、なんて……っ」
エディスは唇を噛む。泣くものか。あんな男に泣かされてたまるものか。それでも涙は溢れてきた。せめて嗚咽を漏らさないよう、エディスは唇を噛んだ。
長い夏季休暇が明ける直前、二人の婚約は破棄となった。オショーネシー子爵家の有責である。
「エディス!」
新学期、学園の馬車停まりでエディスは呼び止められた。
「シャノン様。おはようございます」
声をかけたのはシャノン・メイスフィールド公爵令嬢。メイスフィールド公爵家はエディスとジャスパーの婚約を取り持った、派閥のトップである。
「元気そうで良かったわ……。オショーネシー子爵令息の件では、申し訳ないと思っているのよ」
「お気遣いありがとう存じます。公爵閣下にもお骨折りいただいて……」
「あんな家と婚約させてしまったのは、うちの落ち度ですもの」
登校してきた生徒たちが聞き耳を立てているとわかったうえで、シャノンは声を潜め、囁くように、さりとて絶妙に聞こえるように言ってのけた。
「まさか、偽者の令息を仕立てて婚約させるなんて。ひどい裏切りだわ」
オショーネシー子爵家の嫡男。ジャスパーの替え玉を立ててエディスとアボット伯爵家を騙していたこと。
偽者が我が物顔で学園に通い、他家の子女たちまで騙していたこと。
まして今の学園には第三王子サイラスが在籍している。シャノンはサイラスの婚約者で、シャノンはエディスを親友、王子妃となったあかつきには側近として召し抱える予定だ。その関係でジャスパーはサイラスに声かけされ、学友として扱われていた。つまりオショーネシー子爵家は王子を、王家を騙していたことになる。
その信頼を根底から覆してくれたのだ。エディスとジャスパーの婚約が解消ではなく破棄となったのは当然といえよう。家ぐるみの詐欺。そういうことになったのだ。
「シャノン」
「サイラス様」
王家の紋章が刻まれた馬車が止まり、サイラスが降りてきた。鞄を持った侍従が続く。
「アボット嬢、夏季休暇は大変だったと聞いている。色々とあるだろうが、君はシャノンの友人で、未来の側近だ。誇りを忘れず、これからも励むように」
「ありがたいお言葉、しかと胸に刻みます」
礼を執ったエディスにサイラスがうなずいた。シャノンも満足そうに微笑む。
新学期初日。生徒だけではなくその従者たちも入り交じりごったがえす馬車停まり。
ここで言葉を交わすことで、エディスには非がないこと、彼女の後ろに公爵家と王族がいることをサイラスは明確にした。
これでエディスに難癖付けてくるものはいないだろう。いたとしても無視すれば良い。
それだけではないわね。エディスはシャノンとサイラスのやりように内心で唸った。
これまでジャスパーは、エディスの婚約者ということで、様々な恩恵を受けてきた。シャノンとの交友、サイラスの学友という立場、それらから得られるものは多かったはずだ。子爵家と下位の出身でありながら、一目置かれていたわけだ。
それがなくなる。だけでなく、あのジャスパーは偽者だった、と見られる。
何人かの生徒が気まずげに、あるいは苛立ち交じりにエディスを見て、目をそらした。彼らには見覚えがある。ジャスパーの友人たちだった。
昼休み、王族専用のサロンで、組んだ両手に顎を乗せた第三王子サイラスが言った。
「夏季休暇で『ひと夏の経験☆』しちゃった者にはよくある症状らしい」
サイラスは大真面目だった。
「ひと夏の」
「経験☆」
エディスとシャノンは吹き出さないよう堪えるので精いっぱいである。「☆」の部分は声のトーンを上げてくる芸の細かさだった。
「休暇前の全校集会で学園長が注意していたのに……」
サイラスの側近が残念そうに首を振った。
「症状なのですか?」
護衛を兼任する側近が手を挙げて質問した。律儀である。
「兄上……王太子殿下がおっしゃったのだ。中にはうつる者もいる、と」
感染症扱いだった。
新学期初日、なんとジャスパーは、堂々と遅刻してきた。
制服のシャツは上から三つ、ボタンを外して胸元をさらけ出し、趣味の悪いネックレスをこれ見よがしにぶら下げていた。ネクタイは外されてだらしなく首にひっかけてあるだけ。もちろんシャツの裾は出しっぱなしで、スラックスは靴が隠れるほど下ろされていた。ついでに伸びた髪を後ろで撫で付けていたし、眉に剃りが入っている有り様だった。
あまりにもわかりやすい素行不良に、目撃した全員が「あ……っ」となり、なるほど別人と納得したほどだ。
「惜しいことです。以前のオショーネシー子爵令息は、品行方正で優秀な生徒でした」
「そういう子のほうが重症になりやすいらしい。反動だとか」
側近が偽者のジャスパーを惜しんだ。
エディスのジャスパーは無遅刻無欠席。制服に乱れはなく、かといって隙なくお堅いということもない、ごく普通の生徒だった。先生や困っている者に自然と手を差し伸べる、紳士の見本のような人物であった。
「先程先生に呼び出されてましたけど、ちゃんと行きましたかね……」
護衛の彼が言う。すっぽかしたんだろうな。全員が思った。
朝にエディスを睨んでいたジャスパーの友人たちでさえ「あーもうコイツ本当に駄目だ」と諦めたのは、放課後になる前、三時限と四時限の間の移動時間だった。
「ジャスパー様」
困惑した表情の友人に気づかず、ほぼ一方的に話しかけていたジャスパーを、エイプリルが迎えに来たのだ。
「来ちゃった」
「エイプリル!? どうして学園に!?」
「どうせ今日は課題提出して終わりでしょ? そんなの友だちに預けて帰りましょうよ。わたしの部屋を探しに行く約束!」
エイプリルはジャスパーより年上の二十歳。男爵令嬢なので学園に通っていた。授業時間やおおまかな内容を知っていたのだろう。意図的である。
「そうだな! 俺たちの愛の巣だ、しっかり確認しないとな!」
卒業生とはいえ部外者のエイプリルに、教室が騒然となった。男子生徒が一人、足早に教室を出ていく。おそらく先生を呼びに行ったのだろう。
「そうだ、お前らにも紹介してやるよ。彼女はエイプリル・ダン男爵令嬢。俺の最愛の女だ」
何人かの生徒が顔色を変えた。兄姉のいる者は、エイプリルの名を聞いたことがあったのだ。むろん、悪い意味でだ。
「もう、ジャスパー様ったら」
豊満な体を強調するドレスのエイプリルに、女子生徒は見るに堪えないとばかりに顔ごと視線をそらした。ジャスパーがフンと鼻で笑った。
「女ってのはこーゆー、可愛くて素直なのがいーんだよ。お前らも覚えとけよ」
クラスの女子全員を敵に回すセリフを言い放った。「ヒェッ」と誰かが悲鳴を漏らした。
「その点エイプリルは最高だ。なぁ?」
「ジャスパー様ったら、褒めすぎよぉ!」
エイプリルを抱き寄せ、腕に当たる胸がぽよんと形を変えるのを見せつける。優越感たっぷりに笑い、提出課題をまだ近くにいた友人に押し付け、「じゃーな」と言ってエイプリルを抱いたまま出ていった。
「……課題、ちゃんとやってある」
やがて、友人がぽつり言った。
「偽者にやらせたんだろう」
もう一人が嫌悪を隠さずに答えた。
かつてのジャスパーの人格を表すような、几帳面な文字が、涙に滲む。
それが、決定打だった。
話は加速度的に広がり、尾ひれ背ひれをつけて自由に泳ぎ始めた。
何しろ学園は、国中の貴族子女が集まっているのだ。同学年、同じ世代の子どもがいなくても、同派閥なら一人は必ずいる。そこから話が伝わった。
一か月も経つと、国中の平民ですら知らないものはいないほどだった。
「いやもう……ここまでえらいことになるとは思っていなかったんですよ。本当」
発端となったエディスが顔の前で手をパタパタした。本当と言うわりに嘘くさい。
「そりゃあ、まあ……本物の俺って言うなら別人扱いされれば良い、とは思いましたけど」
そこは否定しない。エディスとしても、ジャスパーがあそこまで変わるとは予想外だった。
「オショーネシー子爵令息が、実は双子だった、となったのだよな」
「それは初期の噂ですね」
「本物が死んでしまったので、慌てて見つけたそっくりさんだと聞いたぞ」
「それは社交界のマダムたちの噂ですね。男娼から見つけたなんて、すごいこと考えますよね」
「以前のジャスパーは本当に偽者で、出来が良すぎて嫉妬した本物が殺して埋めた、なんていうのもありましたわね」
「それは子爵領周辺の噂ですね。物騒ですよねえ」
「……実は両方とも偽者だった、という話を聞いた。本物は幼い頃に死んでいて、オショーネシー子爵家はよく似た子どもを攫っているらしい」
「あ、それが今一番ホットな噂です。街道の宿場町で広がっているやつです」
全部把握している。
気の毒そうな顔こそしているが、すべての噂を知っているエディスこそがサイラスたちにはホラーだった。
王族専用のサロン。校舎の二階、南側に面し、気候が良いので窓を開けてある。
オショーネシー子爵家もびっくりしただろう。
嫡男が勝手に恋人を作り、「本物の俺」などと言い出し、婚約が破棄になったのだ。
派閥に泥を塗る行為である。
家の存続のためにあちこち奔走している間に嫡男は素行不良で停学を繰り返し、あらぬ噂が国中を駆け巡ったのだ。
ジャスパーが退学にならないのは、たしかに態度と見た目こそ不良そのものだが、成績が下がったわけではないからである。
男子生徒には馬鹿にした発言で嫌われ、女子生徒には性的なほのめかしで敬遠されているものの、暴力沙汰を起こしたり、犯罪に走ったりしたわけではない。
ただただ、本当に、どうしようもないやつになり下がっただけだ。
「二の兄が言うには」
第三王子サイラスが、組んだ両手に顎を乗せて言った。
「ある日、突然我に返ることがあるらしい」
「あるのですか!?」
シャノンが驚愕した。あの状態から我に返ったら、それはそれで悲惨な気がする。
「ああ。王太子殿下も同意なさっていた。そして、我に返った者は、例外なく悶え苦しむともおっしゃった」
むろん、羞恥にである。
「もっと幼少期に『俺の考えた最強のモンスター』やら『召喚した精霊が右目に宿っている』などで免疫をつけていれば、重症化は防げたらしいが……」
サイラスは大真面目だった。側近の二人がなぜかそっと目をそらした。
「後遺症とか残りませんの?」
「むしろトラウマでは?」
シャノンとエディスがほぼ同時に突っ込んだ。
「ですが、オショーネシー子爵令息はまだ本物のままです」
「噂に酔いしれている感じもします」
気を取り直した側近に、サイラスもうなずいた。
「万能感に満ち溢れているのだろう。こうなると、我に返らないほうが幸福かもしれないな」
窓の外からは学園のざわめきが聞こえてくる。ほぼ一体化している雑音に混じって、馬車の音が遠ざかっていった。
ジャスパーが我に返ったのは、学園卒業間際になってからだった。
エイプリルに新しい男ができて、アッサリと振られたからだ。
「彼ね、平民だけど自分の会社持ってて、お金持ちなの! 男はやっぱり甲斐性よ!」
力強く言い切り、男の腕にそのたわわな胸を押し付けて、颯爽と去っていった。
二人の愛の巣に残されたのは、不用品と、ジャスパー。エイプリルはジャスパーから贈られた宝石類はちゃっかり持って行っていた。
エイプリルの新しい男は、会社があるという別の街に彼女を連れて行くと、そのまま姿を晦ませた。エイプリルの持っていた宝石類を預かったまま。
男の正体はメイスフィールド公爵家の裏方使用人。汚れ仕事専門である。
アボット伯爵家とオショーネシー子爵家の婚約を潰した元凶を、主家であるメイスフィールド公爵家は許さなかった。
エイプリルの実家、ダン男爵家は派閥が違うため、その主家となる家に抗議文を送り、結果派閥から追放されている。
取り潰さなかったのは、その必要がないからだ。派閥を追放、となれば災害などの緊急時に救助を求められない。盗賊が襲ってきても自分たちで対処するしかなく、借金をしても保証がない。さらに、派閥を追放された家と縁を繋いでくれる家などどこにもない。放っておけば自然消滅するのに、わざわざ手をかけることをしなかった。
エイプリルにも言い分はある。ジャスパーはエイプリルを愛していると言うが、婚約も、結婚もしてくれないのだ。口では結婚したいと言ってくれる。主要な街道を持つ子爵家の次期当主は魅力的でも、ジャスパーに親に逆らう力はなかった。出会って二年、エイプリルはもう行き遅れといわれる歳だ。焦るのも無理はなかった。
男に騙されたとわかったエイプリルはそれでも新しい男を捕まえようとしたが、彼女が狙うような男には当然妻や婚約者がいて、体以外に取り柄のないエイプリルは遊び相手にはなれても本気には誰もしてくれなかった。
結局エイプリルは街を転々とし、金を稼いで実家に帰ろうとした。彼女がダン男爵家に辿り着いた時、屋敷は誰もおらず閑散として、売り物件の看板が立てられていた。
卒業間際の報復になったのは、理由がある。
オショーネシー子爵家の処罰は領地替えだった。その準備期間だ。
たかが婚約破棄にしては重い処分だが、ただの婚約破棄ではない。メイスフィールド公爵家の、ひいては王国の、主幹道路である街道を保有していた家と、王子妃となる公爵家の姫君の側近令嬢との婚約だったのだ。派閥に泥を塗っただけではなく、王族の結婚にまでけちがついてしまったのである。
おまけにあの噂である。最終的に『あそこの街道には化け物がいて、子どもを攫って皮を剝ぎ、その子どもになりすます』という怪談にまで発展した。
主幹道路を握ることで物、人、金だけでなく情報を得ようとしていた公爵家は、このままでは街道と周辺の宿場町まで寂れてしまうと危惧し、手を打ったのだ。王子妃になる娘の、それは餞別のひとつになるはずだった。
オショーネシー子爵家はジャスパーを廃嫡し、養子をとメイスフィールド公爵家に願い出たが、認められなかった。あのジャスパーを育て、噂に対処できなかった時点で信頼できないと判断された。アボット伯爵家への手前、厳しい処分を取らざるを得ないのだ。
街道を含むオショーネシー子爵家の領地はアボット伯爵家の一部となり、代官が置かれた。いずれエディスに子どもが生まれたらその子が継ぐ予定である。新しいオショーネシー子爵家の領地はメイスフィールド公爵領の最北端。農業と牧畜の町だ。たまに役人が来るくらいでほとんど放置されていた町だったので、歓迎されている。
そして卒業式。
「エディス・アボット伯爵令嬢!」
薔薇の花束を片手に、エディスの前に跪こうとしたジャスパーは、警備員に取り押さえられた。
当然である。
エディスの周囲には第三王子サイラスと、彼の婚約者シャノン・メイスフィールド公爵令嬢。そして二人の側近である令息と令嬢たちがいた。正確にはサイラスとシャノンを取り囲む輪の中にエディスがいた。
王子妃となる令嬢の側近に、素行不良の元婚約者が近づけるわけがない。薔薇の花束を持っていようとも、不審者が不審物を持って近づいてきたとしか思われなかった。暗殺者は花束の中にナイフを仕込むこともあるのだ。
「なっ!? 待ってくれ、俺は……!」
「王子殿下とご婚約者、側近方に何用だ?」
「プロポーズだよ! 見りゃわかるだろ!?」
「卒業式で求婚など聞いたことがない! 破棄ならあるがな!」
「それもどうなんだ!?」
卒業式、式後のパーティーでの婚約破棄は、残念ながら前例がある。婚約者のいる高位貴族の令息が、下位あるいは平民の令嬢と恋に落ち、もうこうするしかないと思いあまってしでかすのだ。婚約破棄は成功するものの、たいていの場合やらかした者はそれなりの処分を受けている。
「ぜっ、前例がないなら作ればいいっ! エディス! エディス、俺は気づいたんだ。君こそが真実の愛だと!」
警備員に押さえつけられながらも懸命に身をよじり、なんとかエディスに薔薇を渡そうとする。
「まあ、大変ね」
エディスが言った。口元には笑み。嘲笑ではない、求婚された感動でもない、ただの感想だった。
「本当の恋をして本物の自分になって、今度は真実の愛。それで、次は何になるの?」
「エディス……怒ってるのか? そうだよな……」
「怒るほど本物さんとは親しくないわ」
「俺、生まれ変わるから! やり直そう? エディスだけを愛すると誓うから!」
エディスは小首をかしげた。
「生まれ変わって適齢期になるのを待ってたら、おばあちゃんになっちゃうわ」
ジャスパーの言葉も愛も、何ひとつ、まったく信じていない。
今さらなのだ。本当の恋、本物の自分、などとお綺麗な言葉で浮気を飾り、努力を捨てて一時の情欲に溺れ、自分の楽しさを優先する軽薄な男。そんな男がエディスのジャスパーであってたまるものか。
ジャスパーは縋るようにサイラスを見た。
「殿下……」
「本物のオショーネシー子爵令息とは、はじめましてだな」
エイプリルとの愛の巣に入り浸りで、たまに学園に来ても遅刻に早退。サイラスと廊下ですれ違うことさえなかった。
サイラスの隣にはシャノンが、シャノンのそばにはエディスがいて、気まずかったのもある。気まずいから避け、なおさらエイプリルにのめりこみ、そのうち忘れていた。
「は、八年も婚約していたのに、そんなにアッサリ君は愛を捨てるのか!?」
「あなたにだけは言われたくないわ」
もっともである。自分でも苦しいと思ったのか、ジャスパーは赤面した。
「わたくしが婚約していたジャスパーは」
エディスが言った。
「困っている人を放っておけないほどやさしくて、お人好しだけど舐められっぱなしにしない程度にはしっかりしていて、勉強はできるけど完璧ではなくて、退屈が苦じゃない人だったわ」
顔を上げるタイミングが同じ。
手を伸ばすタイミングが同じ。
目が合って笑うタイミングが同じ。
言葉がなくても充分だった。
「そんな人を、あなたが「偽者」だと言って捨てたのよ」
エディスの目に涙はない。乾いたそれが、ジャスパーを打ちのめした。
「どうすればいい……? エディス、どうしたら……」
プロポーズだと張り切って選んだ礼服は、場違いなほどけばけばしい。エイプリルの好みが反映された一着だった。
「フール湖の女神にお願いしたら? 本物の俺を返すから、偽者の彼を戻してくださいって」
2月6日に発売された「不運な追放聖女だって幸せになります!アンソロジーコミック」に「こんなこともあろうかと!」が掲載されています。揚茄子央先生にすごく可愛く描いていただけたので、良かったら読んでみてください!




