世界が終わった後
深海で雨叢雲剣に触れた瞬間。
光が、脳を焼いた。
視界が弾ける。
記憶が、流れ込んでくる。
女神が笑った日。
邪神が堕ちた夜。
太陽が昇り、世界が生まれ、
そして幾度も壊されてきた記録。
それは、ただの歴史ではなかった。
罪と、選択。
赦しと、見捨てられなかったもの。
その連鎖だった。
白く、白く、視界が溶けていく。
気づけば、どこまでも境界のない空間に立っていた。
空も地もない。
なのに、不思議と不安はなかった。
温かい。
手を握り返される感触がある。
視線を落とす。
そこには、エーコがいた。
不安そうで、でもどこか懐かしい目。
ずっと遠くにいたものが、ようやく手の届く場所に戻ってきたような顔だった。
「……思い出した」
喉が震えた。
「海神龍の祟りで、俺は――」
名前が、自然にこぼれる。
「オトタチバナ」
「わっ……」
俺は反射的に、エーコを抱き寄せた。
長い、長い時間を置き去りにしてきた気がした。
抱きしめた細い肩が、少し震えている。
「すまなかった」
声にすると、それだけで胸の奥が軋んだ。
だが、エーコは小さく首を振った。
「……エーコでいいですよ」
そして、やわらかく笑う。
「前世でも、今世でも関係ありません。私は、架様が好きなのですから」
その言葉で、胸の奥の重石がほんの少しだけ軽くなった。
だが――
静かすぎた。
空間が、あまりにも静まり返っている。
「あれ……ここは?」
やわらかな光が、どこまでも広がっている。
その中心から、声が落ちてきた。
≪ここは、神界≫
振り向く。
そこに、太陽があった。
まぶしい。
けれど熱くはない。
ただ圧倒的で、見ているだけで胸の奥まで照らされるような光だった。
「誰もいない……」
≪この姿では分かりにくいか≫
光が、ゆっくりと収束していく。
そこに現れたのは、炎色の髪を持つ女だった。
エーコに似ている。
だが、その奥にあるのは人の重みではない。
世界そのものを支えてきた存在だけが持つ、途方もない密度だった。
「太陽神……?」
女神は静かにこちらを見た。
「そう呼ばれることもある。好きに呼びなさい」
強く、優しい声。
だが、どこか遠い。
「よく来ました。三種の神器を揃え、人のままここまで届いた者は、お前達が初めてだ」
俺は眉をひそめた。
「なんで俺達ここにいる? 深海にいたはずだ」
一瞬、間があく。
ほんのわずかに、太陽神の視線が揺れた。
≪世界が消えたからだ≫
今度は、低い男の声だった。
足元のない白い空間が波打ち、そこから地面のようなものが隆起して形を成していく。
現れたのは、村長に似た姿の男。
だが、もっと古い。
もっと根源に近い顔だった。
「我は現実世界の神。父神とでも呼ぶがいい」
その目がこちらを射抜く。
「黄泉の女神は、我が妻だ」
空気が張り詰めた。
「戦神が世界を壊した」
父神は淡々と告げる。
「すべてを無に返せば、障壁となっていた魂の絡まりが消え、我ら神が介入できるようになる」
怒りが、胸の奥から一気にこみ上げた。
「村長は……世界を正すためだけに、皆を殺したのか!?」
拳を握る。
だが父神は動じなかった。
「そこは問題ない……。共犯者がいたようでな。月神だ」
月神。
兎人を残して消えた神。
「ヤツは長い時をかけて、世界そのものを記録していた」
父神が手を広げる。
そこに、一つの石が現れた。
一見すれば、ただの石ころだ。
だが、見た瞬間に分かる。
それはただの物体ではない。
世界の重みを、そのまま閉じ込めたような異様さがあった。
父神はその石を手に取り、静かに言った。
「これが記録だ」
月神……。
会ったことはない。
けれど、何千年も潜み続け、そんなものを残していたのか。
いつか会ってみたいな、と一瞬だけ思った。
父神は石を見つめたまま続ける。
「この記録をもとに、我の力で黄泉は再生できる」
息を呑む。
だが父神は、そこで言葉を切った。
「だが、我にできるのはここまでだ」
「どういうことだ?」
思わず声が荒くなる。
「これで終わりじゃないのか?」
太陽神が引き継いだ。
「月神が全神力を使い切って残した記録は、黄泉が崩壊する直前のものです」
静かな声だった。
「女神も、魔帝も、再生されます。危機的状況そのものは変わらない」
俺の胸が重く沈む。
「我ら神が介入しようにも、崩壊までの時間が短すぎる」
太陽神の視線が、俺とエーコへ向く。
期待でもない。
評価でもない。
ただ、観察している目だった。
「崩壊直前にそこにいた君達が、対処するしか手段はない」
沈黙。
白い空間に、鼓動だけが響く。
やがて父神が口を開く。
「タケル」
その呼び名は、不思議なほど自然に胸へ落ちた。
「お主の本来の力を、少しだけ解放する」
父神の声は低い。
「その力で危機を脱し、女神を黄泉から追い出せ」
空気が張り詰める。
父神は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「だが、それだけでは、あの世界の穢れは消えない。お主はそれを知って――」
そこで言葉を切る。
飲み込んだ。
世界の傷は、そんなに簡単には消えない。
あれほど壊れたものに、重い代償がないはずがない。
それでも、神は言わなかった。
選ばせるために。
俺は、何も考えなかった。
世界の重さも。
代償も。
先のことも。
ただ、胸の奥でひとつだけ決めた。
「やる」
それだけだった。
神は、ゆっくりと目を開いた。
そこにあったのは、祝福でも、失望でもない。
「……そうか」
静かな声。
「それが、人間か」
次の瞬間、神気が体に流れ込んできた。
魂が震える。
骨の奥まで、忘れていた力の形が染み込んでくる。
失っていたものではない。
ずっと眠っていただけのものを、思い出していく感覚だった。
父神が手をかざす。
「では、黄泉を再生する」
白が満ちる。
太陽神が一歩前に出る。
その手が、エーコの手にそっと重なった。
「オトタチバナ」
その声は、さっきまでより少しだけ近かった。
「いい伴侶を得ましたね」
エーコは、迷わず俺の手を握り返した。
「はい。離しません」
光が、一気に膨れ上がる。
時間が逆流する。
白が崩れ、世界が戻っていく。
だが――
父神の目だけは、最後まで閉じなかった。
人間が選んだことを、
その結末まで見届けるために。




