深海へ
世界が終わる、ほんの少し前――
深い海の底で、俺とエーコは再会していた。
サメの背にまたがったまま、俺達は強く抱きしめ合う。
冷たいはずの海の中なのに、エーコの体だけは驚くほどあたたかかった。
≪架様……! 本当に、来てくださったのですね……!≫
その声が、頭の中に直接響く。
俺は目を瞬かせた。
≪あれ……?≫
海の中だ。
口を開けば水が入るはずなのに、言葉が伝わっている。
≪これ、念話……テレパシーか?≫
≪はい≫
エーコがうなずく。
頬はまだ涙で濡れていたが、その瞳はさっきまでよりもずっと澄んでいた。
≪チートの呪縛から解放されたことで、神気を扱えるようになったのです≫
≪神気……?≫
頭が追いつかない。
ついさっきまで、俺は海に飛び込んで、エーコを助けることしか考えていなかった。
なのに再会した途端、急に話が神様じみてきた。
≪ってことは、俺は神様なのか? チートでその力を封じられてた、とか?≫
自分で言っていても、半分冗談みたいな言葉だった。
だがエーコは、まっすぐこちらを見返した。
≪いいえ。私達は人です≫
その返事はきっぱりしていた。
≪でも、人も、動物も、物も……みんな八百万の神の一つなのです≫
≪……何言ってるんだ、お前≫
思わず、そう返していた。
いや、それだけじゃない。
今のエーコの喋り方に、妙な違和感があった。
≪“私”……?≫
俺は眉をひそめた。
≪お前、いつも“アタイ”って言ってただろ。本当にエーコか?≫
一瞬、エーコの表情が揺れた。
悲しそうな、少し傷ついたような目。
だが、俺にはそれを気にしている余裕がなかった。
――まずい。
肺が限界だった。
抱きしめ合っていた腕に力が入らなくなる。
視界の端が暗く滲む。
ヤバい。酸素がない。
潜ってから、もうかなり時間が経っている。
しかも俺は途中で、自分の息をエーコに分けている。
今から浮上しても間に合わない。
たぶん、もう。
俺が苦しさに身をよじるのを見て、エーコの顔が青ざめた。
≪え……?≫
その声が震える。
≪架様、私のこと……思い出していないのですか?≫
なんで今そこなんだ、と言い返したかった。
でも声にならない。
エーコはそんな俺を見つめたまま、泣きそうに唇を噛んだ。
その時だった。
ぽわぁっ――と、青銅の鏡が淡く光った。
柔らかな光が、暗い海底を細く照らし出す。
海の底は真っ黒な闇だったはずなのに、その光だけが一本の道みたいに遠くへ伸びていく。
エーコの目が見開かれた。
≪あっ……!≫
彼女が息を呑む。
≪この光の先に行けば……架様も記憶を取り戻せるような気がします!≫
≪は!? いや、ちょっと待て――≫
止める間もなく、エーコはサメに合図を送った。
次の瞬間、サメが海底へ向かって一気に頭を下げる。
急潜降。
世界がぐるりと傾いた。
ちょっ、おい、エーコ、何して――!
思わず手を伸ばす。
だがもう遅い。
サメはまるで迷いなく、鏡の光を追って深く、さらに深く潜っていく。
……いや、もう何を言っても無駄だ。
どうせこのまま浮上しても間に合わない。
だったら、もうエーコに任せるしかない。
俺達はそのまま、暗い深海へ沈んでいった。
深く潜れば、水圧で体なんて簡単に潰れるはずだ。
肺も、耳も、骨も、無事じゃ済まない。
なのに、痛みがない。
それどころか、さっきまで喉を焼いていた酸欠の苦しさすら、いつの間にか薄れていた。
呼吸していない。
それでも、死ぬ感じがしない。
これも神気……なのか?
自分の手を見る。
指先に、わずかに光が絡んでいる気がした。
しばらく進むと、鏡の光とは別に、海底のさらに奥から何かが輝いているのが見えてきた。
暗闇の中に、一本だけ立っている光。
剣だ。
それは地面に突き立ったまま、静かに海の底を照らしていた。
海の底にある“はず”なのに、
まるでそこに属していないように見えた。
水に馴染んでいない。
揺れているはずの海の中で、
剣のまわりだけが、妙に静かだ。
流れが、わずかに逸れている。
まるで海そのものが、
その刃に触れないよう避けているみたいだった。
俺は目を細める。
あれが……エーコの剣?
だが、ただの武器には見えない。
見た瞬間、胸の奥がざわついた。
懐かしいような。
怖いような。
思い出したくない何かが、そこに眠っているような。
エーコが、ほとんど祈るような声で呟く。
≪見つけました……これが……タケル様の……≫
≪え……?≫
タケル……?
その呼び方に、心臓が跳ねた。
知らないはずなのに、知っている。
聞いたことがないはずなのに、何度も呼ばれていた気がする。
サメがゆっくりと速度を落とす。
海底に立つ剣の前で、俺とエーコは同時に手を伸ばした。
触れた瞬間――
カッ………………………………。
俺とエーコの手が同時に剣へ触れた直後、無量大数を超える光が、すべてを包み込んだ。




