君去らず
遠い昔。
荒れ狂う海の上で、私と彼は小さな木の船に必死にしがみついていた。
波は山のようにせり上がり、次の瞬間には谷のように落ちる。
船体はきしみ、今にも砕けそうだった。
雨は刃のように顔を打ちつけ、雷鳴は空を裂き、海そのものが怒っているようだった。
一寸先すら見えない暴風雨の中、渦が船を呑み込もうと口を開けている。
そして、その中心で暴れていた。
巨大な海の龍。
黒い鱗に稲光をまとい、怒り狂った目でこちらを見下ろしている。
≪人間よ!≫
雷鳴のような声が、海と空を震わせた。
≪神聖なる海に女を連れ入れるとは何事だ! 女もろとも、海の藻屑となるがいい!!≫
船が大きく傾く。
私は思わず彼の腕にしがみついた。
だが彼は、海水を浴びながらも龍を睨み返していた。
「龍神よ、怒りを収めろ!」
荒れる海にかき消されそうになりながら、それでも彼は叫んだ。
「これ以上嵐を続けるのなら、この神剣でお前を討つ!」
≪ハハハッ!!≫
海龍は嘲るように笑った。
≪船にしがみつくのがやっとの人間に、何ができるというのだ?≫
その言葉に、私は唇を噛んだ。
駄目だ。
このままでは、彼は勝てない。
いや、勝つ以前に、二人とも海に呑まれて終わる。
それだけは嫌だった。
彼には、生きていてほしい。
私は、決めた。
「私のせいです!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
彼が振り向く。
雨に濡れた顔が、驚きに見開かれる。
「女の私が一緒にいたせいで、あなたに迷惑をかけてしまいました!」
胸が痛い。
怖い。
それでも、言わなければならなかった。
「死ぬのは、私だけで充分です!」
私は彼の手を放した。
次の瞬間、体が宙に浮く。
船から離れ、私は真っ逆さまに海へ落ちていった。
「オトタチバナ!!」
彼が、私の名を叫んだ。
その声が、嵐の中でもはっきりと届いた。
ああ。
嬉しい。
昔、炎の中に取り残された私を、彼はその名で呼んで助けてくれた。
その時から、私は決めていたのだ。
何があっても、この人についていこうと。
けれど。
もう、お別れだ。
落ちながら、私は思う。
もう一度だけでよかった。
もう一度だけ、彼の胸に抱きしめられたかった。
≪女! 血迷ったか!?≫
海龍が嗤う。
≪まあいい! 順番に、尊き死を与えてやる!≫
私は落ちながら、龍を見上げた。
怖かった。
死にたくなかった。
でも、それ以上に、彼を生かしたかった。
「龍神――」
私は両腕を広げた。
「あなたに、私の命をあげる」
次の瞬間、体の奥が熱く燃え上がった。
髪が、太陽の色に染まる。
血が煮えるように熱を発し、全身を光が満たしていく。
「だから、永く……静かに眠りなさい!」
熱は炎になり、炎は光へと変わった。
その光が、まっすぐに海龍を包み込む。
海龍の声が、初めて恐怖に震えた。
≪貴様、太陽神の末裔か!! 我を封じる気か!? やめろ!!≫
龍の巨大な身体が光の中でもがく。
≪その代償は大きいぞ!! 貴様には恐ろしい祟りが降りかかる!!≫
私は、もう声を出せなかった。
熱が体を焼いていく。
指先から、肌が、髪が、少しずつ灰になっていくのが分かった。
≪我が復活するまで何千年もの間!!≫
龍の呪いの声が、耳に焼きつく。
≪お前は海の呪いを受ける! 何度転生し、愛する者と出会おうとも、お前は溺れ死ぬ!!≫
光がさらに強くなる。
≪そして愛する者はお前を忘れ、別の女と結ばれるのだ!!≫
龍は嗤い、叫び、最後には断末魔とともに光の中へ消えた。
海は静まった。
嵐は止み、渦もほどけ、怒り狂っていた海はまるで何事もなかったように穏やかになっていく。
そして私は、力を失ったまま、海の底へ沈み始めていた。
冷たい。
さっきまで全身を焼いていた熱が嘘のように消え、今度は深海の冷たさが骨の奥まで染みてくる。
やっぱり、死にたくない。
助けて。
私は薄れていく意識の中で、きらきらと光る海面を見上げた。
彼なら来てくれる。
そう信じたかった。
でも。
もう彼は、私のことを忘れている。
だから、来ない。
私の体は、ゆっくりと、深く、深く沈んでいった。
光が遠ざかる。
音が消える。
海の闇が、すべてを呑み込んでいく。
そして私は、深海の底へ消えた。
彼が気づいた時には、海は穏やかさを取り戻していた。
嵐の気配はどこにもない。
龍の姿も、少女の姿も、何一つ残っていない。
ただ、胸の奥にぽっかりと、説明のつかない空白だけがあった。
何か大切なものを失った気がする。
けれど、それが何なのか思い出せない。
彼は濡れた甲板の上で、ただ一言、無意識に呟いた。
「君去らず……」
その言葉だけが、静かな海に落ちた。
⸻
――あっ。
アタイは、全部を思い出した。
アタイ……いや、私。
前世でも。
その前の前世でも。
私は何度も何度も、彼に出会っていたんだ。
そして、何度も海に沈んで死んだ。
彼を守るために。
彼を生かすために。
そのたびに、彼は私を忘れ、別の女性と結ばれていった。
嫌だ。
そんなの、もう嫌だ。
私は彼と結ばれるために生きてきたの。
彼のために死ぬためじゃない。
死にたくない。
胸の奥から、その願いが泡みたいに湧き上がる。
その時だった。
青銅の鏡が、ふわりと光った。
やさしい光だった。
暗い海の底を、細い道のように照らしていく。
その先を、私は見た。
≪エーコ!!≫
光の向こうから、彼が現れた。
サメに乗って。
私は目を疑った。
そんなはずがない。
だって彼は、私を忘れているはずだ。
助けに来るはずなんて、ない。
これはきっと、死ぬ前に見る幻だ。
そう思ったのに。
彼はまっすぐこちらへ手を伸ばしてきた。
そして、迷いなく私を抱きしめた。
あたたかい。
その腕の感触。
胸の鼓動。
必死さまで伝わってくる体温。
ああ、これは幻じゃない。
現実なんだ。
≪あぁ……≫
涙がこぼれた。
≪あなたは、ついに私を迎えに来てくれたのね……ありがとう……!≫
私は彼にしがみついた。
もう二度と離れ離れにならないように、強く、強く抱きしめ返す。
彼が唇を重ねてきた。
そこから送り込まれた空気が、苦しかった胸いっぱいに広がっていく。
酸素が体の隅々にまで満ちていくのが分かった。
それなのに、私達はすぐには離れなかった。
海の底。
光のない闇の中で。
私達は、永遠のように長いくちづけを続けた。




