国民の反乱
上空に浮かぶ巨大な雲――【女神殿】。
その中心、白く磨かれた神殿の最奥に、女神はいた。
玉座と呼ぶにはあまりにも軽やかな雲の椅子。
そこへ当然のように腰を下ろし、眼下の世界を見下ろしている。
口元には、うっすらと笑み。
慈愛ではない。
獲物を見つけた者の笑みだった。
「ふふっ……罠とも知らず、のこのこと近づいて来たわね」
女神の声は静かだった。
だが神殿全体に染み込むように広がり、薄い雲の壁をわずかに震わせる。
「シロ。準備はできているのでしょうね?」
その声に応えるように凛とした音声が響く。
「はいピョン。勇者達の誘導は、もう完了していますピョン。女神様が姿を現せば、全員いっせいに動き出しますピョン」
シロの声は、普段どおりだった。
震えもなく、乱れもない。
だが、通信の向こうでその白い指先だけが、ほんのわずかにこわばっていた。
「ふはははっ!」
女神はとうとう声を上げて笑った。
「この女神に抗った罪――その身に思い知らせてやるわ!」
笑い声が高く、長く、神殿の天井へとはね返る。
幾重にも反響し、雲の宮殿を満たしていく。
その下では、すでに戦いの歯車が動き始めていた。
超巨大空母《カケルダンジョン2》。
その甲板には、人、人、人。
隙間という隙間を埋め尽くすほどの勇者達が、びっしりと並んでいた。
剣を握る者。槍を掲げる者。杖を持つ者。素手の者。
だが、その表情はどれも似ていた。
目が据わっている。
口元は引きつり、呼吸は荒い。
興奮と狂気の境目が、もう曖昧になっていた。
そして次の瞬間、誰かが声を上げる。
「殺せっ!!」
それを合図にしたかのように、百万に届こうかという群衆の叫びが、同時に炸裂した。
「「「殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!!」」」
巨大な甲板が、声だけで震える。
鉄の床がビリビリと鳴り、
空母そのものが群衆の熱に押されて軋んでいるようだった。
常識では考えられない光景だった。
本来なら勇者とは、人を守る側の名だ。
それが今、全員同じ方向を向いている。
狙う先はただ一人。
天高原架。
その名だけを標的にして、狂信の群れが息を荒げている。
空母ダンジョンは、架達のいる本艦へ向けて、重たい唸りを上げながら進み続けていた。
その時だった。
カッ――
直後。
ドッ!!
ゴォオオオオオオオオオン!!!!
大爆発。
上空で炎が弾け、遅れて圧倒的な爆風が叩きつけてきた。
空が、赤黒く染まる。
あれは、架王の火炎魔法だ。
「うおぉぉお!?」
「な、なんだ!?」
「伏せろ!!」
勇者達の身体がまとめて後ろへ吹き飛ぶ。
軽い者は転がり、重装の者でさえ数歩よろめいた。
だが、それでも群れは崩れない。
倒れた者を踏み越え、また立ち上がる。
狂っていた。
「おい!あれを見ろ!」
誰かの叫び。
全員の視線が一斉に上へ向く。
塔の先端にあった雲。
その雲の奥から、今、光が溢れ出していた。
弱い光ではない。
直視すれば目を焼くほどの、神々しい輝き。
そしてそれと同時に、空母の各所に設置された巨大ディスプレイが一斉に点灯する。
そこに映し出されたのは――女神。
いや、正確には、それぞれが思い描く“理想の女性像”だった。
ある者には優しい聖女の姿。
ある者には可憐な幼馴染。
ある者には艶やかな姫。
ある者には慈悲深い母。
それを見たその全ての口が、同じ言葉を発した。
「「「おおっ!! 女神様!! 女神様だーーーっ!!」」」
群衆が熱狂する。
そして。
ドカァァァァァァァンッ!!
空母ダンジョンが、ついに架達の本艦へと激突した。
鉄と鉄が噛み合う鈍い衝撃。
船体が大きく揺れ、甲板の先端同士が繋がる。
橋などいらない。
ぶつかったその瞬間、そこが戦場になった。
巨大ディスプレイに映る女神が、口を開く。
『決戦の時は来た!』
その声は甘く、鋭く、鼓膜の奥に直接刺さるようだった。
『標的は目の前!偽王を倒すのだ!!』
声そのものはシロのものだった。
だが、スピーカーから放たれる響きは、完全に“女神”だった。
「「「おおおおおおおおおっ!!」」」
群衆が爆発する。
叫びと同時に、勇者達が雪崩れ込んだ。
先頭が走る。
その背を押すように次が続く。
転んだ者を踏み越えて、また次が走る。
天高原架へ。
ただその一点だけを目指して、百万の狂気が流れ込み始めた。
本艦の甲板へと次々に飛び移り、武器を振り上げ、怒号を上げる。
もはや軍勢ではない。
奔流だった。
そのすべてを、暗い部屋からシロは見ていた。
ダンジョン監視ルーム。
壁一面に並ぶディスプレイ。
無数のランプ。
低く響く機械の駆動音。
そこには、シロ一人しかいなかった。
外の狂騒が嘘のように静かだ。
叫び声も、足音も、怒号も、ここまでは届かない。
あるのは、電子音だけ。
シロは、ゆっくりとマイクのスイッチを切った。
「ふぅ……ピョン」
深く、長い息が漏れる。
そのまま椅子にもたれかかり、しばらく目を閉じた。
肩は重い。
耳の先まで、じんじんと熱い。
自分が今何をしたのか、分かっていた。
一声で、あれだけの人間を動かした。
一言で、あれだけの殺意を加速させた。
それでも。
シロは、そっと祈るように両手を胸の前で組んだ。
お父様。
約束は守りましたピョン。
お爺様……叔母様……。
りょうぴょんとエーコぴょんに、どうか力を貸してくださいピョン。
お婆様の暴走を、ここで終わらせてくださいピョン。
祈りは短かった。
答えが返ってくるとは、最初から思っていない。
それでも祈らずにはいられない。
シロは目を開ける。
ほんの一瞬だけ揺れた瞳が、すぐにいつもの色へ戻る。
そして、再びマイクのスイッチへ手を伸ばした。
女神の声として働くために。
狂気を最後まで導くために。
終わらせるために。
小さな指が、静かにスイッチを押した。




