第五話 吸血鬼と四季と画家
「四季に生きる私の肖像画を描いてほしい」
瑠東のハロウィンパーティーから帰ってきて荷物を片付けた後。ソファに腰を下ろして向かい合い、改めてエジェオの依頼内容を聞いた。それはずっと、出会ったときから隠されていた依頼の内容だった。
「四季に生きるエジェオ?」
「ああ。私たち吸血鬼は夜しか知らない。日が少し長くなったとか、気温の違いとか。花は咲いても夜の闇で色が翳む。四季の色をあまり知らないんだ。いや、知らないというより今はあまり覚えてない、が正しいな。浅葱が感じた季節の空気感の中で生きる私を描いてほしいんだ」
エジェオは考える様に言葉を口にする。浅葱でもエジェオの言わんとすることは分かる。以前ダンピールだったころ、友人と旅をしていた話を聞いた。そのころは太陽は平気だったようだから、日中に街を歩いて四季を感じたりしたのだろう。だが、それは随分、それも相当昔の話らしい。
「お、れに、描けるかな」
不安になる。外に出るようになって一年は過ぎたといっても、自己表現が上手くできてるかと言われれば自信がない。依頼されたものはみな、モチーフがあった。あくまで浅葱のフィルターを通して描いたものばかりだ。かといって浅葱にとってはモチーフを自分の癖はあれどそのまま素直に描いているつもりである。今回のエジェオの依頼は、正面切って「浅葱の解釈で、自己表現で」描いてほしいと言われている。それは画家として当然持ち合わせていなければならないスキルなのだが、如何せん自己肯定感と自信が低い浅葱には難しい問題だった。
「私は描けると信じている」
真っ直ぐな、背中を押すような声色だった。
「納得いくまで何度でも描き直していい。どれだけ時間をかけてもいい。私は君を初めて見たときから、いつまでも待とうと決めているんだから」
急かさず、穏やかで、意志の固い言葉だった。浅葱は今日までの生活の面倒を見てもらった恩義と待たせてしまった申し訳なさに喉の奥がきゅっと締まる感覚がした。
「……わかった」
今はただ、受領した返事しかできなかった。
とはいうものの、浅葱の頭にはしっかりと仕事の依頼として認識されているらしく。翌日起きたときには頭に描きたいものが浮かんでいた。
朝御飯を食べる前にサイドテーブルに置いていたA4サイズのスケッチブックにざっと描き上げる。
エジェオが光の下に、金木犀に手を添えて目を細め香りを楽しむ姿。いつもの無表情とは違ってどこか微笑んでいるようにリラックスした表情が特徴的だ。
この三年間、いつもあまり変わらないエジェオの顔を見て来たのに、なぜこんな笑っている顔を思い浮かべたのだろう。最後に微笑んでいる顔を見たのはいつだったか。思い出そうとするが、去年より前の暮らしを思い出そうとするとはっきりと思い出せない。靄がかかったように目の前が白く霞んでいく。
とにもかくにもまずは食べるか、とスリッパをひっかけリビングに向かう。ズボンのポケットには海の石を入れておく。何のためともないし、屋敷の中なのだからなくすこともないのだが、今はもう幼い子供を連れ歩いている気分なので面倒を見る様に肌身離さず連れ歩くようになった。
リビングに入ると、料理をした形跡としてトーストの香りがした。焼かれてまだそんなに時間は経っていなさそうだ。キッチンを覗くと、木目のトレーの上にマーガリンの浸み込んだトーストとスクランブルエッグ、ミニサラダとそれぞれの皿に分けられた朝食が用意してあった。と、それと一緒にリングのメモ帳を破った後のあるメモ書きが残してある。
『眠る前に朝食を用意した。温めて食べてなさい。』
簡潔ながらもどこか母親のような文面に浅葱は少し笑ってしまう。スープだけ用意されていないのは、起きるまでの時間が分からないため、冷めてしまうと思ったからだろう。電気ポットに水を足し、先にレンジで食事を温めてからポットの電源を着ける。コーヒーメーカーでコーヒーを沸かし、諸々の朝ご飯の準備を完了させる。温めたトーストからはマーガリンの香りが、スクランブルエッグからはバターの香りがした。コーヒーもいつも通り牛乳を入れて砂糖なしのカフェオレを作った。
リビングのテーブルに配膳して手を合わせる。
先に瑞々しいサラダを食べ終えてから、トーストとスクランブルエッグに手を付ける。スクランブルエッグは浅葱の好きな甘い味付けになっており、トーストと一緒に食べると格別に美味しい。トーストもかぶりつけば十分に浸み込んだマーガリンがじゅわりと染み出し甘みとこってりとしたオイルが美味しかった。
朝御飯後の食器洗いを済ませて、一旦部屋に戻る。
エジェオの肖像画を描くために浅葱は自分の中の季節を観察し直そうかと浅葱は考えていた。今の時期ならもう金木犀が咲いているだろうから、資料として写真を撮りに行くのもいい。イチョウ並木が散歩するルートの中の公園にあったから見に行くものいいだろう。ススキ野原を見に行ってもいいし、焼き芋の匂いを感じたり、枯れ葉を踏む音に耳を済ませたりするのだっていい。そのどれもが浅葱にとっての秋だ。
いっそ数日かけてどれもを見に行くのもいいかもしれない。
「……そうしようかな。うん、それがいい。おれも見たいし」
気が付けば浅葱の外へ出るハードルはどんどん低くなっていっていた。
クリーム色のシャツに茶色に白と菱形模様の入ったニットベスト、フリーサイズの深緑のズボンを着て、浅葱は公園に向かった。近所、と言っても屋敷から三十分も歩く距離にある公園はテニスコートや陸上競技場、サッカー場が併設している総合運動場だ。ランニングコースと一緒になっている散歩道もあり、朝夕や土日は子どもが遊びに着たり、犬の散歩に訪れている人も多い。その中で桜が植えられている場所や、銀杏並木のある道がある。浅葱は遊びに来ている家族連れを眺めながら目的地に足を運んだ。
並木道は総合運動場の南側にある。去年の秋になんとなく足を運んだタイミングがイチョウの見ごろで、眩しい黄色がどこか心を温めていた。浅葱は枯れ葉の赤茶も好きだが、光に透かされ輝く黄金色の方が好きだった。何よりイチョウの扇形の葉の形がいい。目に見て秋だと分かる。
落ちているイチョウの葉の中で綺麗なものを目視で探し、拾い上げ指先でくるくる回す。
いつ見ても可愛らしい形だ、どれだけ見ていても飽きない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、片手で手に持った扇の葉を撮る。見上げる様に下から見たイチョウの木を写真に撮り、並木の奥まっていく一本道も撮る。
そのまま進んでいき、赤茶色の落ち葉が隅に溜まる散歩道に出る。特に何も考えず、隅に寄って落ち葉を踏んだ。
がさがさ。かさかさ。ざく、ざく。
これぞ秋の音。スピーカーから聞こえる焼き芋販売の歌もいいが、やっぱりこういうオノマトペに変換できる音はいい。目で分かるのもいいし、目に見えなくても音で想像するのが楽しいのだ。
下を向いて落ち葉を踏んでいるのを楽しんでいたが、顔を上げた先に茶色いベンチがあるのを見つける。すこしはしゃぎすぎた気持ちを落ち着かせるために浅葱はベンチに腰を下ろした。
背もたれに寄りかかり、空を見上げる。薄い雲が広がり、ところどころにちぎった綿のような平たく濃い白の雲が流れている。夏のパッキリとした青々しい空とは違い、淡い水色の空になると秋や春の空だなと浅葱は思う。先日の十五夜でも、完全な晴れた夜空ではなく、薄雲かかった朧月夜だった。朧月夜は春の季語だが浅葱にはそれが秋めいて見せていたのを覚えている。
画家として生計を立てようとし、正社員と画家の兼業の生活リズムが辛くなったころから四季に目を向けなくなっていた。思えばそれは秋ごろだったきがすると振り返ってみる。自然と感じる秋の匂いに頭の片隅で秋の情景を浮かべていたものの、あのころの浅葱の見えている世界は灰色だった。否が応でも色彩を叩きつけてくる絵が、正気でいる証拠として絵を描き続けていた。そんな状態の絵でも買ってくれる人はいて、でも何も感じていなかった。同時にそのあたりから心療内科に通い出し、鬱と診断されていたのだったか。
それを考えるとあのままあの部屋で生活していたら本当に命はなかったかもしれない。エジェオの存在は浅葱にとっての命綱なのだと今更ながら自覚した。
「……よし」
金木犀を見に行こう。エジェオに添えるのは明るい光の色がいい。そう思った次の瞬間には立ち上がっていた。思うままに動いているおかげか、浅葱の足取りは軽かった。
金木犀は総合運動場から出てからしばらく歩いた先の、遊具の置いていないグラウンドのような広場に植えてある。これも秋に外に出た際に香りにつられて見つけたものだ。
金木犀の香りは、金平糖のような砂糖菓子の香りに似ている。甘いが甘すぎず、青臭くなく。ちいさな橙の花が集まって咲いているのも可愛らしくて浅葱は好きだった。さらに言うなら金木犀という音の響きと名前の漢字も好きだった。
スマートフォンで写真を撮りつつ絵の構想を考える。
秋の色味と考えて、銀杏の黄色、金木犀の橙、夕闇の深紫、落ち葉の茶色や赤、深緑というのもいい。エジェオの銀色の髪と赤い瞳、白い肌には黄色や橙、赤茶が合う。アクセントで深紫を使うのもありかもしれない。秋は豊穣というコンセプトを持ってきてエジェオを飾り付けるのも楽しいだろうか。しかしそれは、浅葱が見た秋とはまた違ってくる。エジェオは浅葱の目に見える秋の中にいる自分を描いてほしいと言った。なら飾り付けるのは違うだろう。それなら一緒に描く秋の風物詩は一つに絞り、日常の一場面として描いた方がエジェオの期待に添えられる。
考えに考えて、浅葱のうちには金木犀とエジェオを描きたいという気持ちが沸き上がる。そうとなれば屋敷に帰って下描きで案をいくつか描いていこう。
まだ日は高い空をもう一度見上げ、深呼吸をする。
体は思ったよりも軽かった。
十一月に入ってから、冬は駆け足にやってきた。その間にエジェオの秋の肖像画は出来上がったものの、エジェオに見せようとしたら「楽しみにしたいから、すべて出来上がった後でいい」と言われた。そう言われた後に浅葱も、最後に描く夏の肖像画が今からかけ離れた出来栄えだったなら後悔しそうだと思ったため、エジェオの希望に沿うことにした。描いたすぐは自信作ではあるのだが、時間が経つとどうも勢いがなくなる。それが冷静に作品を見れるための距離を置く時間であるとは分かっているが、浅葱にとってはその勢いが自分に自信が持てる唯一の自己肯定感が上がっている期間なのである。
木枯らしが吹く夜だった。冬の間はエジェオが起きている時間が長くなるため、必然と一緒にいる時間が増えていく。とはいえ、必ずしも毎日というわけではない。製作期間中は浅葱は自室に引き籠るし、眠たくなれば早い時間に引っ込んでしまうこともある。エジェオも書斎でゆっくり本を読む時だってある。それでも他の季節より浅葱とエジェオが共にいる時間が多いと感じるのは、冬の期間は浅葱の気持ちが落ち込みやすくなっているからだ。幸いにも全く意欲がなくなるわけじゃなく、暗い気持ちになる、苦しい、誰かと話したい、と人を求めるようになるため浅葱はエジェオの邪魔にならない範囲でリビングの暖炉前に一緒に暖まるようになった。その日も朝から異様に気持ちが重く、昔の嫌な記憶を思い出す半日であったため、エジェオと共にコーヒーを飲みながら暖炉のあるリビングで過ごしていた。気を紛らわすためのスケッチブックへの落書き、読もうと思って積んでいた本の消化。どちらも気が進まず、シャーペンを手にとっては数本の線でやめ、本を開いても三行目からページを上滑りしてしまい閉じてしまった。
三人掛けのソファに横になり、暖炉の火をぼんやりと眺める。ぱち、ぱち、と薪の燃える音が心地よく、ゆらゆらと揺れる炎が催眠にかけられるように眠気を誘う。うとうとし始め、瞼を開いたり閉じたりするのをエジェオは黙って見守っていた。
そうして、瞼を落とす。物音の静かな屋敷の中に風が吹きつける音が微かに広がっていた。夢を見ているのか、リビングの照明が消され灯りは暖炉の火だけとなった室内にエジェオが本を読んでいる。青白く、しかし暗い室内は雪が積もったように寒々としている。
浅葱は横になりながらも読書するエジェオを見ていた。炎に照らされるエジェオの顔は血色がよく見え特徴的な瞳の色であっても浅葱と何ら変わりない人間のように思えた。
エジェオは今自分が人間と同じように彼を見ていることを知ったらどう思うだろう。エジェオは人間嫌いと言わけではない。そうであったなら、画家に声をかけ続けたりしないだろうし、今も謎にある人脈を築いたりしないだろう。ダンピールは、人間と吸血鬼のハーフだ。かつてそうだった記憶があるのなら、人間に戻りたいと思うこともあるのだろうか。浅葱はぼんやりとした意識の中でそんなことを考えた。
「浅葱、浅葱」
体を揺さぶられ、はっと目を覚ます。目の前には浅葱に影を落とすエジェオ。
「私はまだここにいるけれど、そろそろ零時を回る。部屋に行って寝るといい。自分の部屋で寝た方が体を痛めないからな」
変わらずの無表情だが瞳に心配の色が見える。先ほどのことが夢だったのかと思い返しながら浅葱の口はエジェオを呼んだ。
「……エジェオは」
「うん?」
「エジェオは、人間に戻りたいとか思ったことある?」
エジェオの眼が軽く見開かれる。一度天井を見上げる様に考え、横になっている浅葱を見下ろしながら彼は答えた。
「吸血鬼になったばかりのころとかは思っていた。どちらかというと神様を恨む気持ちが強かったけれど。今もたまに、人間が羨ましくなることはある。浅葱が見る昼間の景色を聞いた時とかな」
「あ、話さない方がよかったりする?」
「いつも私から聞いているだろう。今日何があったかって。見れない景色を浅葱を通してみるのは楽しい。だけど同時に羨ましくもある。同じものを見られる人間がな」
「ほら、起きたおきた」とせっつくようにエジェオは浅葱をソファから起こす。浅葱もゆっくり体を立たせ、軽く伸びをしてから残り少ない砂糖なしカフェオレを飲み干した。
「それじゃ先に寝るね。おやすみエジェオ」
「ああ、おやすみ浅葱」
おやすみをいうときのエジェオの表情は分かりにくいが優しい顔をしている。エジェオの挨拶に手を振ってリビングを出た。
リビングに持って行ったスケッチブックや本をベッドの脇に置き、ベッドに座って少しぼんやりしたあとに浅葱はスケッチブックを広げ先ほどの夢で見たエジェオと暗い部屋の光景を描いた。色はシャーペンで描いているからモノクロでしかないが、浅葱だけには見た光景として色が見えている。
暖炉に照らされる吸血鬼、とは描いているものの冬の絵としては季節感が弱いだろうか。窓の外に雪、とも考えたが外からの光がないなかで暗い部屋から雪が見えるか? という問題が浮かび上がる。エジェオが室内で暖炉とともにいる絵を描きたい。しかし冬らしい記号的なものもほしい。
視線がカーテンの閉まった窓に行く。かすかにかたかたと風に吹かれ揺れる窓の音が聞こえる。
ふっと浮かんだ構図をすぐさまスケッチブックに描き出す。これは二パターン浮かんだので実際にどちらを採用してエジェオに差し出すかは両方描いてから決めよう。早速描こう、と思ったが浅葱の体は休息を欲しているらしく徐々に体は重くなっていっていた。
二枚のキャンバスに絵を描き終えるのはいつもより時間がかかった。一カ月半かかり出来上がりが一月に入ったころの二枚の絵はいつもとは違うテイストのものになり、浅葱個人としては満足の出来栄えだった。出来上がってから改めて見直してみると、二枚の絵の片方は主体がエジェオとは別のものに見えてしまう。これは没、ではあるが浅葱は気に入ってるのでこっそり保管しておこうと思う。
不意にドアがノックされる。「浅葱、今いいか」
「だ、大丈夫。いやちょっと待って、待っててな」
エジェオに渡す用の絵を裏返しに立てかけ、没にしてるほうだけ表に向ける。「いいよ、どうぞ」と促すとエジェオは部屋に入ってきた。
「明日の初詣のことなんだが……ああ、できたのか」
彼は表向きになっているキャンバスの絵を近寄りながら眺めた。
絵は、暗い部屋の中に暖炉だけを灯し、部屋のガラス越しに本を読むエジェオを見る浅葱を描いたものだった。窓の外は雪が降っており、より冬の寒さを感じた絵になっていると浅葱は考えていた、のだが。どう見ても目を引くのはエジェオよりも手前に大きく描かれた浅葱の方だ。これではエジェオの肖像画とはならない。
「それは没にした方なんだ。エジェオに渡すのはこっちの裏返している方。適当に保管しておこうかと思ってる」
「正規の方は見たらだめか」
「最後にまとめてみたいと言ったのはエジェオだろ。見せてもいいけど後悔しない?」
「私はこっちの絵も好きだからもう片方も見て私が没にするか選ばせてほしい。最高なのは両方貰うことだが」
「強欲ぅ」
すこし悩んだが、浅葱はもう片方もエジェオに見せることにした。裏返し、表面をエジェオに見せる。
こちらは暗い室内で暖炉に火に照らされ、本を読むエジェオを雪降る窓外から描いた絵だった。これはエジェオを中心として描かれているものになり、一般的な肖像画とは違ってくるがこちらの方がより希望に沿っていると描いた本人は思っていた。
エジェオは厳しい顔をして二枚見比べる。いつも以上に難しそうな表情だ。
そして顔を上げ言った。
「両方買おう。いくらだ」
「待て待て待て、気が早い」
依頼主から絵を引っ張り上げ、自分の背に隠す。
「まだ全部できてないだろ。一枚一枚全部に値段をつけるのはあとにしよう。おれはそうじゃないと安心できない」
「目に見えた成果の方がやる気出ると思うんだが?」
「人によるだろ、おれは今は言葉で褒められればそれでいいよ」
「わかった、両方とも素晴らしい絵だった。空気の冷たさに光の暖かさ。そこに描かれる私の自然体でいる絵は素晴らしい。君の目には私はこう見えているのだな」
まるで子供を見るような、それとも純真なものを見るような。懐かしさなのか、羨ましさなのか、微笑ましさなのか、はたまた嬉しさなのか。温かい眼差しでエジェオは浅葱を褒めてくれた。
絵について褒められなれていない浅葱には、自分から言っておいてむず痒い気持ちになる。「と、とりあえず」と話の軌道を無理やりに戻した。
「明日の初詣だろ。なにかあった?」
「ああ、それなんだが——」
明日の予定を聞きながら、浅葱は頭の片隅で思う。
エジェオは本当に自分の絵を気に入ってくれているんだな、と。
それから椿の季節が過ぎ梅が咲くころになり、鶯やメジロを見かけるようになったころ。
一月二月と次に描くエジェオの肖像画はどんなものにしようかと春のモチーフを考えていた。三月に入れば先述したように梅の花や。鶯、メジロが出てくる。少しすれば桜も咲く。そういえば三月はアネモネも咲くんじゃなかったか。四月に入れば藤の花も咲く。花の香りが春を告げる時期だ、できればそれを伝えたい、が。あれもこれも花を追加するのは全体のバランスがよくない。どうしたものかと考えていたが、花が咲く月に入ってすぐに答えは出た。
迷うくらいなら実物を見て決めた方がいい。
結局は浅葱が見たもの、感じたものの絵を描いたらいいのだ。再三エジェオもそう言っている。
久方ぶりに海辺のカフェ「フェリチタ」に行ってみよう。あの近くにも梅や桜は咲いていた。思い立ったら吉日とばかりに浅葱は外出の準備をする。白い麻のシャツに茶色のサスペンダー、焦げ茶のズボンに若草色のロングカーディガンを羽織り、スケッチブックとシャーペン、消しゴムを画材鞄に入れて屋敷を出た。
電車で一時間。ガタガタと揺られる中、春の日差しが心地よかった。
特に道に迷うこともなく辿り着いた「フェリチタ」ではどうやら混雑時のピークが過ぎたあたりらしく、人がまばらになって席に座っていた。
「いらっしゃいませー……あっ!」
出迎えてくれた店長の奥さんが浅葱に気付くと満面の笑みで「月見里さん!」と名前を呼んでくれた。
「こんにちは、お久しぶりです」
「お久しぶりですー! 月見里さん、お元気でしたか?」
「まあ、そこそこに。……奥さんは、ちょっと痩せられましたか?」
なんとなく印象として脂肪が削げ落ちたように見えた浅葱が聞くと、奥さんはびっくりした顔をしてすぐに笑い飛ばした。
「いえ、むしろ太っちゃって。産後太りで体の方に脂肪が付いちゃったんです」
その言葉を聞いて今度は浅葱が驚く番だった。
「出産されたんですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「ちなみに性別はどちらで?」
「可愛い女の子なんですよ、あの天使の絵にそっくりな」
奥さんはそう言って奥の壁にかけられている浅葱の描いた天使の絵に振り返った。出産までの期間を考えると結構すぐ妊娠したんだろうか。
「では、今は子育てで大変でしょう。カフェもやって、ではてんてこ舞いなんじゃ」
「今はピークの人が足りない時に手伝ってます。アルバイトの子もいますからね」
「あ、お席はご自由にどうぞ。テラス席に行かれますか?」と改めて店員として案内され、浅葱はいつの間にか指定席になっていたテラス席へと向かった。
テラス席の柵の上にブロンドの丸い髪と白い翼、白い服とズボンを着た少年がにこにこと浅葱を出迎えた。彼は浅葱が描いた天使の少女が浅葱の話をしてこのカフェにやってきた天使たちの一人だ。
「おにーさん、ひさしぶりだね」
「ひさしぶり、天使くん。たしかきみの絵は描いたんじゃなかったかな」
「うん、描いてもらったよ。でもこのお店が気に入っていすわっちゃってる。あの子は二人のところにちゃんと降りられたから、ようすも見にね」
「なるほどね」
会話しながら席に着くと、注文を聞きに来た奥さんがテラス席の扉を開けてやってきた。今日はお昼ご飯はこちらで済ませようと思っていたので、浅葱はカフェモカとほうれん草とベーコン、ジャガイモのキッシュを頼んだ。カフェモカは少年の分も。
「さいきん来てなかったけど、おにーさんなにしてたの?」
「パトロンからの依頼で季節の絵を描いてた。四季全部の絵を描くことになったから、その季節ごとに季節を感じられる場所に行ったり、製作していたら遠のいちゃってね」
浅葱の前の席に座る天使の少年。少年は可愛らしく両手で頬杖をついて少しつまらなさそうに「ふーん」とだけ返した。
カフェモカとキッシュはすぐにやってきた。マグカップのひとつを少年の前に移動させ、自分は早速キッシュに手を伸ばした。
すんなりと入るフォークとナイフ。食べるところを切ろうとするとジャガイモの触感がした。下に敷かれたパイ生地をまでナイフが届き切り離し、口に運ぶ。味付けされたジャガイモとしんなりしたほうれん草、香ばしくジューシーなベーコンに卵のツナギが濃くもしつこくない味に仕上がっている。バターのほのかな風味も次を食べようという食欲を誘い、どんどん口に入れてしまう。
「春の絵はかいたの?」
「いや、これから。何を描こうかなと散歩でここに来たんだ」
「そうなんだ。春だし、やっぱり桜?」
「かな。梅にメジロもいいと思うんだけど、如何せん絵が浮かばなくてね」
「それならじつぶつ見に行く? ボクといっしょに」
キッシュの最期のひとかけらを口に放って、もごもご咀嚼する。飲み込み、訊ねる。
「きみはここから離れられるの?」
「べつにボクは個人的な理由でここに来てるだけで、しばられてるわけじゃないからね。どこへだって行けるよ」
天使の少年はぬるくなったカフェモカをコクコクと飲み下し、唇をぺろりと舐めてにっこりと笑った。
「とあるおうちの梅の木によくメジロやヒヨドリが来るんだ。なにかさんこうになるかも」
「なるほどね。それは見てみたい」
浅葱も濃く甘く、それでいて程よく苦いカフェモカを飲み席を立つ。
奥さんにお会計をしてもらって、天使と揃ってカフェを出た。天使の先導でまだよく知らない街中を歩いていく。天使は道のところどころで立ち止まりいろんなものを紹介してくる。この三毛猫は人に懐いてていつも撫でさせてくれる、この場所は十六時になるとたこ焼き屋の車がやってくる、金曜の十五時になるとあの家からピアノで曲を弾く音が聞こえてくる、あの駄菓子屋はたまにお菓子をおまけしてくれる、など。
「で、そのだがし屋さんの裏にあるおうちの梅の木がもくてきち」
ぐるりと駄菓子屋を周ると塀から高い位置にはみ出ている梅の木があった。ちょうど時期なのだろう、満開に花が咲いている。高い位置に三羽ほどのメジロもとまっていた。すかさずスマートフォンで写真を撮る。
「距離があるからかな、逃げないね、メジロ」
「だがし屋のおばあちゃんがよく話しかけてるからだよ。ことばはわからなくても、やさしくされてることはわかるから」
「言葉は分からなくても、か。言葉が分かっても優しさが伝わらない時もあるよね」
「それはヒトとしてのけいけんちが足りないんだよ」
「罵倒されてる?」
「さとしてる。だって、つたえる側だってうけとる側だって、けいけんちがなければべつの意味にしかとられないからね」
落ち着いた声色で背伸びでも何でもなく、子どもに言い聞かせるように語る天使の少年に、メジロを見ながら浅葱が一言。
「ませてるぅ」
「てんしですから」
天使の少年とはカフェまで一緒に戻り、そこから分かれて浅葱は屋敷への帰路を辿った。帰りの電車の中でずっと構図を考える。
桜が咲いたらそれも見に行こう。ひとまずは梅とメジロの絵を描いてみて、いろいろ構図の案を描き出して。そうしてもありふれたモチーフなためにありきたりになりそうなのが、どうにも気にかかる。そこでぱっ、と浮かんだ言葉がある。
梅花藻。川の中に咲く梅のような花の藻である。
あれはたしか夏に咲くのだったか。それなら夏のモチーフは梅花藻にしよう。では、春のモチーフは桜とメジロにしたい。色合いが綺麗なのもあるが、なによりメジロが春に似合っていると常々思っていた。メジロの生態的に春によく見られるのは当たり前なのだが、あの緑のカラーリングが桜や梅の葉を思わせるのだ。
そうと決まれば後は描き起こすだけだ。
数日後に近所で屋台が出ているお花見会場があったので、昼は一人で写真を撮りに、夜はエジェオを誘って夜桜見物にしけこんだ。エジェオも夜の桜は久方ぶりに見に来たらしく、表情にはあまり出ていなかったが桜の木の下で立ち止まりじっと見蕩れていた。
ある程度歩いたところで、浅葱はエジェオと共に屋台のたこ焼きや串焼き、缶ビールを買ってベンチで晩酌を始めた。夜桜見物に来ている人はカップルが多く、屋台よりも桜を見ているようだ。花より団子とは自分たちのことであると浅葱はこっそり笑っていた。
「夜の桜は灯りに照らされて幻想的だな」
焼き鳥を齧り、酒で飲んだエジェオが言った。今晩は満月の明るい夜なため、街灯がなくても影ができるほどだ。浅葱も頷き、缶ビールで喉を潤す。
「夜桜は久しぶりって聞いたけど、今まで見に来ようと思ってなかったの」
「私のようになれば、季節の巡りも時間の巡りも曖昧になり無関心になっていく。それでも私は物好きで季節の移ろいが好きなんだが、どうにも過ぎた後に気付くことが多くてな。気が付けば地面が桜の花びらの絨毯を敷き、木々は葉桜になっていることばかりだから見に行くことを能動的にしなかった」
「長生きしてると、感覚が鈍っていくんだね」
「人間に比べれば長生きの幅が長いから余計にな。人と密接に、親しい間柄でいるならば一緒に過ごすからあまりそうはならないんだが、如何せんそれも難しい」
エジェオは桜越しの月を見ながら缶ビールを飲む。その視線を追って浅葱も月を見上げ、特に深く考えず訊ねた。
「エジェオは自然が表現する季節が好き?」
「んん」迷う様にエジェオが唸る。首を傾げたがすぐに月を見上げたまま答えた。
「最初の頃は自然が好きだったから、花だったり海だったりが好きだった。今も好きだ。だけど、今はそれらを通して人が何を感じたかを表現する方が興味深いし、好きだな」
「その中で、君の絵が一番気に入っている」とエジェオは浅葱を横目に見て笑った。
その目と浅葱の目が合う。浅葱は照れくさくなり目を逸らす。それに吸血鬼はふふふ、と笑った。
「無理はしなくていいからな、浅葱」
「何に対してだ、それ」
「私の依頼にだ」
ぬるくなったたこ焼きを一個口に放り、飲み込んでからエジェオは言った。
「気楽にやってくれ。私はそれでいい。描きたいように描いてくれれば、私の望み通りだから」
浅葱はその言葉に、プルタブをいじりながら「がんばる」と小さく返事をした。
それから五月に入り気温が上がり、六月に入り梅雨のジメジメした時期に入り、七月の七夕が過ぎた。雨の気配は遠ざかり、蒸し暑さが増していく季節へと突入。この時期になると例年通り浅葱の外出したくない気持ちがムクムクと膨らんでいく。
今まで夏って言ったら何を感じていたか。午前のじわじわ上がっていく外の気温と隔絶された部屋で、ベッドに横になり浅葱は思い返していた。
真っ先に浮かんだのは水の流れ。雨、海、川、プール。次にアスファルトの焼ける匂い。打ち水や雨の蒸発する匂い。そこまで考えて脳裏に水中の映像が浮かんだ。
梅花藻、描くつもりだったんだよなぁ。写真や映像は見たことあるけれど、実物は見たことがない。
スマートフォンを手に取り、近場で梅花藻を見れる場所がないか調べてみる。近場でも電車で二時間、バスで十分、そこから徒歩十分にあると表示された。今の時刻は午前十一時前。ここから二時間二十分。駅まで三十分と考えて約三時間。往復でだいたい六時間。
「長いな……」
思わず気後れの言葉が出てくる。しかし今動かず、明日に持ち越したとして見に行くか? と自分に問えばおそらくまた翌日に持ち越して、なんてしてしまうのが明白だった。
スマートフォンに財布、シャーペン、消しゴム、小さいスケッチブック、ハンカチ、それに海の石。それらをリュックに詰めて、自分は膝丈のズボンにTシャツ、迷彩柄のブーニーハット、サマーカーディガンを羽織って左腕の傷を隠しつつ外へ出た。
外はうだる暑さだった。屋敷は森の近くにあるために湿気が鬱陶しいが日差しは木々に遮られ多少はまし、なのだが。森から離れればそこからは日差しから守ってくれるものはいない。帽子があるだけまだいい方だろう。屋敷から出てしばらく歩き駅に着くと、併設しているコンビニが目に入った。そういえば夏場外に出る時は日焼け止めを塗りなさいとエジェオから再三言われていたことを思い出し、そしてそれを今思い出したということは今現在塗っていない事実を証明させてしまった。
塗らなくても帽子をかぶっているしバレない、いやしかし帽子をかぶっていても焼けるものは焼ける……。
浅葱はコンビニの前で十秒ほどうろついて、結局は日焼け止めを購入した。
電車を待つ中で日焼け止めを塗り、やってきた電車に乗り込む。平日の真昼間にこの地域から遠出する者は少なく、車内はガラガラだった。県境まで行くのは外出をし始めてからは初めてのこと。電車で行ける距離だというのに何故他県に足を踏み入れるとなるとこんなにドキドキするのだろう。
コンビニで一緒に買ったお昼御飯のサンドイッチやお茶を食べ終え、腹八分目の具合でぼんやり窓の外を見る。浅葱の住んでいる地域自体がそんなに都会というわけではない。移り変わる景色は大きく変わり映えのある景色というわけでもなかった。そもそも向かう場所は自然豊かな場所なのだ。都会の水で梅花藻が生きれるわけじゃない。
うつらうつらし始めたところで目的の駅に到着する。駅に降り立ち、地図を確認しながら行先へのバスが出るバス停を探す。幸いバス停はすぐに見つかり、時刻表を確認。次に来る目的地へのバスは五分後だ。
バスに乗り込む。同じ方向に向かう客は思ったよりも多く、進んでいくにつれ少しずつ増えていった。
目的地の梅花藻の自生している川の最寄りの停留所に着くと、乗っていた乗客はほどんとが降りて行った。浅葱も一緒に降りていく。もう一度地図を確認すると降りて行った乗客の何名かが梅花藻の川の方向へ歩いていっていた。それに続いて浅葱も向かう。
少し歩いて川に当たり、十分ちょっと川に沿って歩いていくと川の中に白い斑点が見えてくる。一段下に降りられる階段を見つけたので降りてみるともの群生地、梅花藻の茂っている場所が川の中に点々とあった。
梅花藻は水の中にある印象というか、動画では水中にあるものしか見たことなかったけれど花は水面に出ていることもあるのか、などと実物を見ての発見に胸躍らせる。辺りを見渡し、立ち入り禁止などの注意看板がないことを確認してできる限り近くに寄ってスマートフォンで写真を撮る。
水が綺麗な場所でしか生息しない梅花藻がいるだけあって水が透き通っている。すこしだけ手を水につける。ひんやりとした心地いい水温だ。湧き水から流れているとネットの公式ホームページには書いてあったが、飲むのはさすがに怖い。
山から下っていく川を写真に残し、幾分か涼しい風の吹く自然一杯のこの場所で肺一杯に空気を吸い込む。
夏の日差しに焼かれる土の匂い、草から蒸発する水の匂い、川のせせらぎ、かすかに聞こえる人の声。屋敷の中では感じられない、夏の空気。
「うん、いいな。ここ」
ポケットにスマートフォンをポケットに戻そうとすると、先ほどまではなかった中身が増えていた。取り出すとリュックに入れていた海の石がそこにあった。
「別におまえが出てくる理由もないだろ? どうした?」
問いかけても石は答えない。不思議に思い、その場にしゃがみ込み川を石越しに覗き込んで見てみた。
見えた景色は、川の中だ。透き通った水の中、水面に出ていない梅花藻がゆらゆら流れに揺られていた。時折小魚やヤゴがそばを通り過ぎていく。
顔を上げて浅葱はただ一言「海だけじゃないんだね、おまえは」と呟いた。
帰りの電車の中で思うままに肖像画のラフを描く。水中の中でエジェオが梅花藻を眺める構図、水面を水底から見上げるエジェオ、梅花藻の側からの視点でエジェオを見上げる構図など色々描き出した。その中でも一番気に入ったのは梅花藻に寄り添うエジェオの構図だった。水面の光の中で穏やかに眠るエジェオが、浅葱が今一番描きたいと思う絵だった。ラフを考えるのに頭を使ったせいか、すこしだけ頭がふらふらした。車窓から空を見る。まだまだ日は高い。夕暮れはまだ遠そうだ。
一年かけて一通りの季節は描いた。
イチョウの絨毯に寝そべりながら金木犀を眺めるエジェオの絵。
雪降る窓の外から、暖炉の光だけの部屋で読書をするエジェオの絵。
桜を見上げるエジェオの視線の先にいる桜とメジロの絵。
水中の梅花藻に寄り添って、水面の光に照らされ穏やかに眠るエジェオの絵。
そのどれもが自信作だった。どれも見劣りしない出来だった。
でも何か足りない気がしている。不足しているのではなく、浅葱に物足りないという気持ちがあるのだ。横一列に絵を並べ、考える。
「……よし」
思い出して自室と隣接している作業部屋に向かう。ここにはエジェオが用意した設備の他に、エジェオが用意した各種それぞれのキャンバスがある。そのなかで浅葱は横長のキャンバスを手に取る。
今回の依頼の集大成はこれに決めた、と意志を固めて。
「エジェオ、完成品が出来上がったから見てもらっていい? それで納得いかなければ書き直す」
クリスマスイブの日、いつも以上に豪華な夕食の後に浅葱はエジェオを自室に呼んだ。作業部屋から引っ張り出したイーゼル四脚を部屋に並べ、そこに一枚ずつ季節順に絵を置いている。
完成品に自信はあるがそれはあくまで浅葱自身の話であり、その完成品に納得いくか満足いくかは最終的に依頼人に委ねられる。
浅葱の部屋の前までエジェオと共に行き、部屋の前で小さく深呼吸をする。
「どうぞ」
ゆっくりとドアを開けた。
浅葱に促されたエジェオはそっと部屋に踏み入る。彼が小さく吐息ともつかない声を漏らしてじっとそれぞれの絵の前に立ち鑑賞するのを浅葱は後ろで黙って見ていた。
じっくり、たっぷりと時間をかけて見終えたエジェオは浅葱に振り返り真面目な顔を向けた。
「ありがとう、浅葱。満足いく出来だ」
それにしては表情が怖いのは浅葱の気のせいだろうか。
「が、納得はいってない。これは絵にしたくて描いたものだな?」
やっぱり納得はされていなかった。そしてエジェオの指摘は浅葱も薄々感じていた違和感だった。
こうした方が映えた絵になる、こういう絵が描きたい。それは浅葱が考えて描いたものだ。エジェオに満足してもらうための、いい格好を見せたいがための絵だ。
エジェオはそれを見抜いている。
「私は君が感じたものの中に私を入れてほしいと依頼したわけで、私と季節をモチーフに描いてほしいと言ったわけじゃない」
エジェオの瞳から失望の念が伝わる。正直居たたまれない。
だが、浅葱はまだ諦めていなかった。
「……依頼主への絵はこれだけど、エジェオに見てほしい絵がある。いいかな」
「見せてもらおうか」
浅葱は隣の作業部屋から横長のキャンバスを持ってきた。手前の冬の肖像画を外して代わりにイーゼルに飾る。
それは地続きの季節の移り変わりに寄り添う吸血鬼のシルエットだった。
葉桜の並木道と桜の散った絨毯の上を歩くエジェオ。
入道雲の夕暮れを電柱の影越しに見上げるエジェオ。
赤茶色の葉が舞う中で枯れ葉を踏むエジェオ。
明るい家の中で浅葱と思わしきシルエットと温かい食事を囲むエジェオ。
写実的な描写は少なく、人やモノと思敷き絵は輪郭を塗りつぶして描いてる部分しかほぼない。細かな背景とシルエットだけの絵だ。浅葱がそういった絵が得意だったわけじゃない。小さい絵もそんなに得意ではない。しかし、自分のこの一年を通して感じたものはこれだという直感に従った。正解かどうかは分からなかった。でも一番エジェオの希望に近いと思っている。
エジェオが正面で絵を見る。その表情はどこかにこやかで穏やかなものだった。
エジェオは顔を浅葱に向けて緩やかな笑顔を浮かべた。
「希望通りだ。難題を吹っ掛けてすまなかった」
依頼完了の言葉を聞き、浅葱は大きく息を吐きながらベッドにへたり込む。
「……はぁ~……ここ数年で一番緊張した」
「そんなにか? この五年での仲だからもう少し気楽な受け取り方をしていると思ったが」
「依頼主の反応見て『こうじゃない』って言われた時が一番肝が冷えるよ。エジェオは一番世話になってるから失望されたくないしね」
「まあ、失望しかけたがそれで二度と筆を取らない君じゃないだろう」
「じゃなくても、数か月キャンバスに向き合えないはあり得かけたよ」
「それはすまない。でも、本当に希望通りだ」
そう言ってエジェオはまた最後の一枚に目をやる。浅葱はベッドに寄りかかりながらも訊ねた。
「他の絵はどうする。希望通りじゃないなら最後の一枚だけ渡すけど」
「すべて貰おう。依頼の基本料金にプラスして一枚一枚改めて支払おう」
「太っ腹ぁ」
「それと、提案なんだが」
エジェオに渡すため絵をイーゼルから外し作業部屋に戻そうとしていると、区切られたと思った会話にエジェオが続きを付け足した。
「浅葱、人外を専門とする画家として依頼を受けないか」
「……は、え?」
浅葱の動きがフリーズする。吸血鬼はあえて気にせず話を続けた。
「去年から何かと人じゃないものと関わる機会が増えてるだろう。見えてなかったものが見えたりな。十中八九、私と一緒に暮らし始めてアンテナの受信するものが変わってきたからだ。あとは私がパトロンをしているからということで、腕を聞きつけたりもあるだろう。私と一緒に暮らしている時点で、人じゃないものに理解を示していると判断されて」
「ああ、まあ、幻想画も描いてるから人じゃない存在に抵抗はないけども」
「意外と自分を描いてほしいと思うものは多い。絵を描かれるものは神格化されたものが多いから自分なんかと思って逃げてるものが殆どだ。対価は、私を通して換金するか」
あくまでも提案として進めていくエジェオにとりあえず思ったことを口にする。
「その人外たちを相手にするって、商売は上手くいく……?」
「幻想画に現実味が増すから技術は上がると思うぞ。人間社会に紛れ込んでいる人外もいるから、そこから繋がりを作れるはずだ」
「なる、ほどなぁ」
浅葱は呆気に取られていた。
実際、浅葱にとっては人ではないものと出会いは驚きではあるが楽しく実りのある出会いであった。でもそれはあくまで彼らが人の姿に近しい者たちであったからだ。人外専門の絵を描く画家というのも個性があるし楽しそうだが、人の姿をしていないものを相手にした時、自分はちゃんと応えられるのか。
「やってみる価値はあると思う」
エジェオは微笑んで言う。
「その間にも私は君の生活を支える。君の近くで君の活動を見れるのなら何でも協力するさ」
「……エジェオは、いったいおれをどうしたいんだ?」
「どうしたい、か」
吸血鬼の視線が浅葱から逸れて、改めて真っ直ぐ浅葱を見た。
「私にできることで君の強みを押し出し、君が望む場所に立つための支えをし、君の側で君の、浅葱の活躍を見たい。それだけだ」
何がそこまでエジェオを魅了しているのだろうかと思う。自分の絵がそんなにも魅力あるものに見えているのだろうか。思って、そうだと良いなと笑ってしまった。
「やるだけやってみよう。また頼ることになる。よろしくお願いします」
自身のパトロンに向かって右手を差し出す。エジェオも手を伸ばし、浅葱の手を握った。
「こちらこそ。君の活躍を楽しみにしているよ」




