第四話 ハロウィンと人魚と画家
目の前には仮装をした大の大人がずらり。狼男の姿に扮した男性がシャンパンを傾け、ゾンビに仮装した婦人がブッフェの肉を口に運ぶ。忙しなく働くのは血の気をなくしたつぎはぎメイクをした執事服のスタッフだ。
「おれ絶対場違いだって……」
広間の隅で、エジェオが取ってきた食事とジンジャーエールをちょびちょびと口にしながら、誰に訴えることもできない指針のない言葉が浅葱の口から洩れていた。
現在浅葱がいるのは豪華客船のパーティー会場の大広間。照明の明るさがやや暗く、所々に煌々と光るスタンドライトが設置された部屋では、今回のパーティーの正装であり参加条件である仮装をした招待客が思い思いに過ごしている。浅葱もエジェオも勿論のこと仮装しており、浅葱は控えめなメイクにチェックの裏地を使った白いジャケットの燕尾服の型を元にしたピエロの仮装、エジェオはそのまま黒を基調としたマントとタキシードの吸血鬼の仮装をしている。
もともと招待状はエジェオに届いており、浅葱はエジェオに引っ張られる形で連れてこられた。浅葱としては留守番でも全然かまわなかったのだが、エジェオから顔見知りでも名刺交換だけでも繋がりを持っておく方がいいと言われ渋々参加することになったのだ。招待主からは友人家族を連れてきてもいいと招待状に記載があった。そこまではいいが、今回のパーティーのテーマはハロウィン。仮装が正装として指定されていたことの方に浅葱は気後れしていた。ただでさえ、最近までは引き籠っていたというのに、パーティーで、仮装。あと一個来たら気持ちはスリーアウト、ゲームセットである。そんな浅葱を分かっていてか衣装もメイクも全部エジェオが用意した。彼は浅葱のためなら本当に何でもやるので、浅葱はエジェオと繋がりを持った時点ですでに逃げ道は塞がれているも同然だった。
パーティーまであと二日というところで、エジェオは浅葱に唐突に告げた。
「もしかしたら、その場で仕事を頼まれるかもしれないから画材は持って行ってくれ」
どういうこと? と浅葱の頭にはてなマークが浮かぶ。理由を聞いても「念のためだ」としか教えてもらえず、訳も分からず当日は色鉛筆、透明水彩、不透明水彩、アクリル絵の具、木炭、パレット、筆を数本、スケッチブックを持って行った。
パーティーは二泊三日の豪華客船での宿泊のうちの二日目に開催される。一日目の夕方に客船に搭乗し、二日目の夕方までゆっくり過ごす。浅葱とエジェオは別々の部屋に案内された。どうやら招待主はエジェオが吸血鬼であることを知っているらしく、エジェオは特別ルームが用意されているらしかった。浅葱は一般客向けの部屋に案内され、一通りのサービスの説明を聞いた後荷物をベッド脇に置いて、ベッドに大の字に倒れた。
宿泊以外に仕事道具持ってきているから荷物は他の招待客よりも多いし、何より見かけた他の客は浅葱のような庶民とは違う煌びやかな雰囲気の人が殆どだった。明らかに質の違う服だったり、私服じゃなくスーツだったり、ドレスだったり。
貫禄のありそうな顔つきの人がこちらを見てなんだか小馬鹿にしたような表情をしていたのは気のせいだろうか。枕に顔を埋めて深い深い溜息を吐く。
エジェオがどういう仕事をしているだとか、どんな繋がりを持っているかとか、浅葱は知らない。知りたいという意欲がなかったし、余裕もなかったからだ。しかし、今となって彼らのような富裕層の人間が参加するパーティーに招待されるということを見せられるとかなりの有名人なのだろうかと思う。まともな収入のない自分を囲えるほどの財力があるのだから富裕層では間違いないのだが。
そうしてルームサービスで食事は部屋に持ってきてもらい、殆ど部屋から出ずに過ごし二日目の夕方。浅葱はエジェオの部屋に向かい、衣装を身に着け化粧をしてもらう。そして会場の広間に赴いたのだが、最初こそ一緒にいて挙動不審に緊張する浅葱に料理を取って持ってきたエジェオだったが、知り合いらしき男性に声をかけられ、そのまま浅葱と離れた。そのまま行き場のない浅葱は広間の隅っこに行くことになる。
浅葱の心は落ち着かない。人が多いところは視線が気になって余計なことを考えてしまう。引き籠っているときは多少落ち着いていたが、浅葱は少し前までは人前に出ると幻聴が聞こえていた。幻聴に交じって自分が自分を責める声も聞こえていた。
なにあのひと、にあわないかっこ。
しらけたかおして、きもちわるい。
このばに、にあわない。
ふつりあい。
かえればいいのに。
浅葱の背筋に寒気がする。食事の味も分からない。目の前が翳んできた。
「素敵な仮装ですね。ピエロですか?」
不意に落ち着いた男性の声が聞こえて俯きがちだった顔を上げた。
目の前にいたのは茶髪の髪の左側だけを後ろに撫でつけた、三十代くらいのサングラスをかけた長身の男性だった。顔の真ん中を横一線につぎはぎメイクを施している。
「え、と」
「俯いておられましたが、体調がすぐれませんか? 医務室にご案内しましょうか」
「い、いや、大丈夫です。ちょっとこういう場になれなくて」
近くのテーブルにプレートとグラスを置いて「ご心配おかけして申し訳ありません」と頭を下げた。男性はにこやかに明るい声で浅葱に返す。
「いえいえ。エジェオ様に誘われてきてくださったのでしょう。ご無理を強いて申し訳ありません」
「エジェオの、お知合いですか」
「私から言うのはおこがましいのですか、一応友人であります」
エジェオの友人、初めて見た。意外と普通の人なんだと内心で驚く浅葱。それを知ってか知らずか、男性は浅葱にとある提案する。
「よければ、ここから離れて静かな場所でお話しませんか。貴方のことを聞きたいのです」
男性の提案に乗ってパーティー会場から離れ二人は最上階のオープンデッキに出て来た。海上を進む船の潮風は磯の匂いと涼やかな風で、室内とは一転して浅葱にとっては心地よい空気だった。まだ残暑が残る十月の終わり、この海の上だけはすでに秋の温度だった。
「申し遅れました。私は瑠東汐と申します」
ご丁寧に懐から名刺ケースを取り出し、浅葱に両手を添えて名刺を差し出した。浅葱も慌てて自分の名刺ケースから名刺を取り出す。
「月見里浅葱です」
「月見里様ですね。エジェオ様からお話は聞いております」
自分のことについてなんて、いったい何を話してるんだとエジェオに不信感を抱きながらも「はぁ」と気の抜けた声が出る。
ちゃんと瑠東の名刺を見ると「株式会社レームマード旅行」の名前と代表取締役という文字が目に入った。浅葱にもその会社名は覚えがあった。たびたびネットで見かける旅行会社であり、エジェオに届いた招待状の主催の会社である。
「……あの瑠東さん」
「はい」
「パーティー抜け出しちゃっていいんですか?」
真っ先に口から出た言葉と本心からの疑問だった。
瑠東は浅葱に気を遣わせない人の良い笑みを浮かべて、
「司会進行のスタッフに任せています。それに、月見里様を見かけたら会場から抜けることも周知しておりますので」
「そうですか……。あの、その月見里様って、様ってつけるのは。ちょっと気が引けるというか」
「それでしたら、月見里さん、でもよろしいですか?」
「お願いします」
「では、月見里さん」こほん、と咳払いをして瑠東は話す。
「今回、私は貴方に依頼があってパーティーにお呼びしました。とある絵を描いていただきたいのです」
「もしかしてエジェオが画材を持ってこいって言ったのは、瑠東さんからの依頼があったからですか」
「その通りです。正式にご依頼させていただきたかったのですが、内容が内容なためエジェオ様の許可を得て、エジェオ様を通してお越しいただきました」
「そのご依頼内容とは?」
瑠東は真っ直ぐ浅葱を見る。そのサングラス越しの芯の強い瞳に浅葱は気圧されそうになる。半歩だけ、後ずさった。
「人魚を、描いていただきたいのです」
「こちらです」オープンデッキと同じ階層のとある部屋。瑠東用の寝室というわけでもなく、依頼のモデルを置くためだけの部屋だという。瑠東がドアを開いた先にあったのは、薄暗い部屋。その中心に浅葱の身長の二倍以上はある金魚鉢のようなガラスの丸い水槽が置いてあった。中には水が入れられており水草もある。ただ、一際目を引くのは水槽に中にある、上半身は人間の骨、下半身は上半身の規格と同じ大きさの腰から魚の尾びれにかけて伸びる骨だった。瑠東の言葉を思い出し、瞬時に理解する。
これは、人魚の骨だ。
人魚の骨という点でも驚きなのだが、浅葱が驚いていたのはそれだけではない。大きいのだ。二メートルは軽く超すであろう全長の人魚の骨格。泳ぐようにうねる下半身は、生きているころを想起させる。
言葉もなく、ただただ見上げる浅葱の隣に瑠東は並び、事情を語った。
「曾祖父が縁があって手に入れた人魚の骨格標本です。それを代々受け継いで、今私の手元のあります。この部屋も一部の関係者以外立ち入ることは許されておりません。月見里さんには、この人魚の標本を見て生前の人魚の絵を描いてほしいのです」
「生前の? だいぶおれの主観になる絵になりそうですけど」
「構いません。幻想画を得意としている貴方に任せたいのです」
「そういうことなら、まあ」何かを隠している雰囲気を感じ取りながらも浅葱は了承する。
浅葱の描いてきた幻想画はほぼすべてが浅葱の空想だ。依頼で細かな内容を指定され、そのモチーフを描くことはあっても、大体は相手の希望や想定通りのものになる。しかし今回は、「生前の人魚の絵」と「浅葱のセンス」を要求されている。生前の人魚という最善の答えが分からない課題だ。
「ひとまず、画材を持ってきてもいいですか。そのあと簡単な質問をさせてください。あ、あとエジェオを呼びたいです」
「分かりました。こちらの部屋へは私が一緒ではないと入れませんのでエジェオ様と合流しますので、先ほどのロッジで待ち合わせしましょう」
画材を取りに自分の泊まる部屋に戻り、ついでに仮装の衣装から汚れてもいい私服に着替える。画材道具と一緒に作業用のエプロンも腕にかけて、ロッジへと向かった。
ロッジにはすでに瑠東とエジェオが待っており、浅葱を手を上げて迎えた。
「移動しながらいくつか質問を言いですか」
水槽の部屋に向かう中で浅葱は訊ねた。「ええ、構いません」と瑠東は快く受け入れる。
「なぜ生きている姿が見たいのでしょうか」
「曾祖父が縁があって、と先ほどはお伝えしましたが、聞く話によると曾祖父の愛した人があの骨格標本らしく。月見里さんから見た姿を見てみたい、という興味からですね」
「おれが描くからと言って、正しい生前の姿とは限りませんよ?」
「いいのですよ。それでも見たいのです」
「それと、出来上がった絵はどうするんですか」
「完成品を見てから判断させてください。依頼料はお支払いします」
そうしてそのまま、再度水槽の部屋に足を踏み入れる。初めて見たであろうエジェオは、あまり表情を崩さずそれでも小さく「おお」と声を漏らして、人魚の骨格標本を眺めた。水槽の前に立った浅葱は後ろに控える瑠東を振り返り「あとひとつ、聞きたいことが」と投げかけた。
「絵を描いたあと、この骨格標本はどうするんですか」
「いつでも海を眺められるこの場所に今まで通り安置します。曾祖父から私たちへ受け継ぐ際に、海の見える場所に飾る様に遺言が残されてますから」
「……なるほど」
浅葱はそれ以上質問することはなかった。代わりに瑠東へ部屋の灯りを明るくすること、エジェオと二人でこの部屋で作業させほしいことを伝えた。瑠東は了承し、必要になるキャンバスやイーゼルなどの画材や道具は奥に置いてあることを告げて出て行った。
「さて、と。エジェオ、きみにはどう見える?」
「綺麗な人魚だったんだなと。見るか?」
エジェオは浅葱に頭を軽くぶつける。浅葱の視界に一瞬星が爆ぜて散らばり、目の前の人魚の姿を塗り替えた。
水槽にはない波の揺らぎに光の筋が入った水中、その中に泳ぐのは毛先へと金から赤へグラデ―ジョンで染め上げた長い髪、金と赤の瞳、豊満な女性の肉体、腰から下が光に煌めく翠の鱗に包まれた魚の下半身の、見事なまでに完成された美しい人魚がいた。
「これは、あの人魚の骨格標本の記憶なんだよね? それにしてはしっかりこっちを見て、認識してるように見えるんだけど」
「これは彼女の記憶を映しているに過ぎない。私の目を通して具現化しているだけだ。命はないし、あの人魚が私たちを見ているように見えても、向こうにはこちらを記憶するキャパシティなどはない」
浅葱はじっと人魚の瞳を見つめる。宝石のように光を透かす目は、何故だか吸い込まれてしまいそうな印象を持つ。光は瞳の中で乱反射するように星のような光が輝いていた。
イーゼルとキャンパスを奥から引っ張り出し、人魚の正面に設置する。ひとまず下描きとして木炭で描いていく。描きながらずっと疑問に思うのは瑠東の言葉。
『曾祖父の愛した人があの骨格標本らしく。』
「曾祖父がこの骨格標本を愛していたっていうのは、エジェオはどう思う? 骨格標本になる前と後だとだいぶ意味が違ってくると思うんだよね」
「そうだな。可能性としては後の方が高い。たまにいるんだ、骨になった人外に生前の姿を見てしまう人が」
エジェオはどこから持ってきたのか椅子を浅葱の隣に置いて、腰を下ろし話す。
「夢だったり、幻視だったりな。そういう時は大体その人間は正気じゃない」
「瑠東さんも正気じゃなかったりするのかな」
「いや、あれは大丈夫だろう。第一、該当するならそもそも浅葱に頼まないだろう?」
それもそうだ、と納得はするが瑠東が隠すような話し方をしたことにはまだ納得いっていない。
「そういえば浅葱。海の石は持ってきてるか」
「屋敷に置いてきたと思うけど、多分ついてきてるでしょ」
画材鞄の内ポケットを探る。案の定、石は浅葱についてきていた。
エジェオは浅葱から受け取ると、石を覗きこみ石越しに人魚を見た。その顔が微かな驚きに染まる。浅葱は、黙って石の中を見続けるエジェオの名前を呼ぶ。呼ばれた吸血鬼は石から目を放し、そのまま浅葱に石を手渡した。
「見てみるといい、きっと今の浅葱が必要としているもののヒントが得られる」
受け取った石をエジェオの真似をして覗き込む。中央に行くにつれて紺碧に染まる石は、下ではなく横の海中を映していた。透き通るターコイズの手前から金と赤の髪の人魚が飛び出すように泳いでいく。そして振り返り、覗き込んでいる浅葱へ微笑みかけた。微笑みかけられる理由が分からず、ただそれを見ているとまたも手前から泳ぎ出る姿が現れる。それは白いシャツに短パンを履いた青年だった。海の色で若干水色がかっているが、茶髪の髪色に日に焼けた肌の、魚の尾がない人間だった。二人は合流し、先へと泳いでいく。石から見える視点も二人を追っていく。青年は息継ぎしながら人魚と共に泳いでいき、次第に二人の周りには色とりどりの魚やイルカやマンタなどの生き物が寄り添い泳ぎ、鮮やかな景色になる。
石から顔を外し、もう一度裸眼でガラス越しの人魚を見た。
「エジェオにも青年と泳ぐ人魚が見えた?」
「ああ。それが汐の話す曾祖父かは分からないが、人魚にとっても愛する人間はいたことは確かだな。稀なことではあるが」
「稀なんだ」
「昔から伝承であるだろう、人魚の肉を食えば不老不死になれる話が。大昔は人間に友好的な人魚もいたが、そういう迷信が広まって食いあさられたせいでそういう人魚は人前に出なくなったんだ。彼の曾祖父の時代もだいぶ昔にはなるが、それでも人魚が人前に出なくなってからずいぶん経ったころだ。人と人魚が一緒なのが珍しいのはそういうこと。さらに言うなら、骨格標本を手に入れた後に入れ込んだ可能性が高いというのも、そういう理由だ」
エジェオの言葉に耳を傾けながら描き出した下描きを眺める。何かを訴えかけるような、ガラス越しにこちらを見る人魚を想定して描いていた。しかし、あの笑顔。おそらく一緒に泳いでいた青年に向けられた春の日差しのような温かい笑顔が今は脳裏にずっと残っている。
浅葱はねり消しで表情のアタリやポーズを消して修正する。躍動感のある鰭の靡きや、あの柔和な笑顔を描き出し納得するまで修正した。少しして、やっとまとまった下描きを距離を取って確認し、本格的に描いていく。今回はアクリル絵の具を使う。
そうだ、筆洗い用の水、と部屋を見渡し特に水場がないことを確認すると廊下の瑠東に声をかける。幸いにも瑠東は廊下で待っておりすぐに対応してもらえた。
ただ黙々と人魚を描く。長く艶やかなグラデーションの髪、透き通る金と赤の瞳、白魚の肌、翠の尾びれ。一つ一つが現実離れした存在であり、すべてを合わせて美として完成する。幻想画の魅力でもある、現実にはない美しさが浅葱の腕で発揮される。描く身としても楽しい時間だった。
繰り返し色を乗せ、完成が見えて来たとき。浅葱はいまだよくわかっていない、瑠東の曾祖父が人魚の骨格標本を手にした理由について考えていた。
あの青年が瑠東の曾祖父ならば何を理由と手段で愛する人魚を骨格標本を手に入れたのだろう。恋の執着が骨にしたのだろうか。はたまた、どこかの富豪が人魚を骨にしてありとあらゆる手段を取って手に入れたのか。それによってはこの人魚に対する目が変わっていく。この人魚は浅葱の向ける目など知る由もないし、これから先も知りようがないが。
無意識に溜息を吐く。それを隣のエジェオは見逃さなかった。
「ため息ついてどうした? さすがに疲れたか」
「いや……気にしすぎて気疲れした、かな」
「汐のことか?」
「まあそんなとこ。そろそろ終わるよ」
白い絵の具で光を指し入れ、今度は意識的に息を吐いた。スマートフォンを出し、時間を確認すると最後に確認した時間が十九時すぎだったのに対して今はもう日付を超えていた。疲れて集中力も切れて余計なことを考えるわけだ。
廊下に出て瑠東に声をかけようと思ったが、時間が時間なせいか瑠東の姿はなかった。代わりに白髪交じりの頭髪の五十代ほどの客船男性スタッフが立っており、部屋から出て来た浅葱に近寄ってきた。
「月見里様でございますね。取締役のご依頼は終わられたのでしょうか」
「はい。さすがに瑠東さんは休まれましたかね」
「お部屋に戻られましたが、月見里様がご依頼を終えられたらお呼びするように言われております。少々お待ちください」
そう言うと、スタッフは壁にある内線でどこかに連絡をかけた。しばらくして、仮装の衣装から着替えたシャツにジャケットに焦げ茶のズボン姿の瑠東がやってきた。相変わらずサングラスは付けたままだ。
「お待たせしました、月見里さん。製作お疲れさまでした」
「こちらこそお時間取ってしまって申し訳ありません。夜遅くなのにわざわざ来ていただいて」
「私がすぐに見たかったので構いません。中に入っても?」
浅葱がドアを開けて瑠東を中へ促す。室内に入った瑠東は、水槽の前に置いてあるイーゼルのキャンバスの前にゆっくりとした足取りで近づいた。
「……これは……」
瑠東はサングラスを外し、絵をまじまじと見る。横からその姿を黙って見る浅葱。
絵は水中にいる人魚がこちらに微笑みかけているものだ。青い空間の中に大きく人魚の姿を描き、呼吸しているように、動きがある様に泡を立ち昇らせている。髪、瞳、鱗、尾びれ、泡。そのどれもが光を反射し、透かし、美しさを極めるかのように色を乗せた。
じっくり見終えた瑠東はサングラスをジャケットの胸ポケットに差し込み、浅葱に向き直った。
「ありがとうございます、月見里さん。私が見たかった姿だ」
「この人魚の絵が?」
不思議に思う浅葱だったが、瑠東の目を見て気付く。
人魚と同じ金と赤の瞳だった。
瑠東はおもむろに自身の茶髪を引っ張るとずるりと髪が外れた。その下には切りそろえられた毛先が赤い、金髪の髪があった。綺麗な髪は照明でキラキラと輝く。
「エジェオ様と月見里さんなら証明できるんじゃないかと思ったんです。私がこの人魚の血を引いていることを」
「それは、何故?」
にっこりと笑って瑠東は言う。
「私もエジェオ様が吸血鬼ではあることは知っています。その目が特別なことも。私からこの人魚の骨格標本を見せれば済む話でもありましたが、目に見えて残るものが欲しくて。それに何も知らない月見里さんが描いて下されれば、それは信用に値する証明だと思いまして」
「……エジェオ、瑠東さんが人魚の血を引く人だって知ってた?」
「話には聞いていたが、特徴がこうも同じだとは知らなかった」
「なーるほど」
はっきりと明言されていないが、血の繋がりがあるということはつまりはあの青年は瑠東の曾祖父だったのだろう。それが分かっただけでも胸のつっかえは解消された。
浅葱の視界が一瞬だけ真っ暗になった。
次に気付いた時には客船の自分の部屋のベッドの上だった。
外は明るい。泥のように思い体を起き上がらせ首を回し、肩を回し、背伸びをする。いまいち回り切れない頭でゆっくりと今いる現状を思い出す。しかし、どうにも瑠東に絵を見せた後からの記憶がない。彼が人魚の血を継いでいるという話を聞いたのは覚えているのだが。
「おきたか、あさぎ」
幼く高い声が聞こえ、枕もとを振り返る。そこにはコロンとしたフォルムのエジェオの子蝙蝠子機が寝っ転がっていた。
「おはよう、エジェオ」
「おはよう。でんちがきれたように、たおれてねたからびっくりしたぞ」
「倒れたのか、おれ」とどうして記憶がないのかとりあえず把握する。子機は大きく欠伸をして、見上げる様に顔を上げた。
「いたいところはないか? ぐあいは?」
「まだ体が重たいけど、まぁ大丈夫。え、あ、そうだ。もう帰る時間なんじゃないの」
「うしおのこういで、わたしたちはひがくれてからでいいそうだ。あさぎのこんかいのいらいのほうしゅうは、わたしがあずかっているから、そこもあんしんしてくれていい」
エジェオの言葉を聞き、急ぎ帰り支度をしなくてもいいことに安堵した。とにかくちゃんと目を覚まさなければと浅葱は動き出す。顔を洗う際に洗面所の鏡を見ると、昨日はまだ落としてなかったはずのピエロの化粧が綺麗に落ちていた。ベッドで寝ている際にこんな跡形もなく消えるわけもないので、エジェオか瑠東の手配したスタッフがやってくれたのだろう。知らない人にやられるよりはエジェオにやってもらった方がいいが。
身支度をすべて終わらせたときには頭はだいぶすっきりしており、スマートフォンで時刻を確認した。今は朝の十時四十分を目前としている。
「みんな帰ってる頃だし、さすがにルームサービスとかは無理だろうな……」
「ないせんでれんらくしてくれればよういさせると、うしおはいっていた」
「至れり尽くせりぃ」
内線でスタッフに連絡するとすぐさま温かい食事が持ってこられた。パンケーキにベーコンとレタスと目玉焼き、小さいサラダ、コーンポタージュの朝食セットだ。時間的にはブランチになるだろうか。
添えられたケチャップでパンケーキの目玉焼きに味付けをして、さっそくいただく。目玉焼きは半熟で、とろとろの黄身とケチャップ、パンケーキのしょっぱさと甘さとまったりとした味が舌を満たしていく。口直しに新鮮な生野菜のサラダを食べ、コーンポタージュも口にする。温かくコーンの甘みが柔らかく広がる風味に飲み込んだ後もお腹が温かくなっていく。
早めのお昼御飯を終え、帰るまでにもう少しゆっくりしようかと考えていたタイミングで、ドアがノックされ来訪者を知らせる。食器を取りに来たスタッフだろうか。浅葱は特に気にせず迎え出る。
「おはようございます、月見里さん」
部屋にやってきたのは、茶色のウィッグとサングラス、スーツ姿の瑠東だった。
「おはようございます。どうなさったんですか」
「月見里さんがお目覚めになられたと聞いたので、体調などはいかがか顔を見に」
口角は上がっているが、眉が下がり気味なところを見ると客人相手ではあるがちゃんと心配してくれていたのだろう。
「体調は、大丈夫です。お昼を食べたから、今は少し眠たいけど」
「そうでしたか。寝られますか?」
「いや、やることがないから眠くなってるだけで、暇つぶしになるものがあればそれをやりたいなとは思ってます」
普段の出不精寄りな生活習慣を垣間見せてしまったことに、言い訳がましく動く口実を付け加える。かといって宿泊客二人のために、豪華客船の娯楽施設を開けてくれるとは思えない。暇つぶしになるものと言ったらスケッチブックに落書きをする程度だ。
「もしよろしければ」瑠東が浅葱の言葉を受けて提案する。
「私の部屋に来ませんか。まだ少し月見里さんとお話したかったのです」
豪華客船内の瑠東の部屋は水槽と隣り合った、三部屋ぶち抜きの広いリビング、カウンターキッチン、隣室に寝室のある白と寒色を基調とした高級スイートルームだった。クッションやカーテンはハワイアンな海の青と葉の緑の模様を使ったものを使用しており、メリハリをつける様にテーブルやキッチンは黒に染められていた。流れているBGMは波の音だ。
浅葱と、子機として彼の頭にしがみ付いて一緒に来たエジェオは部屋の広さや清潔さ、そして彼が海に焦がれているという印象を第一に感じた。
「オフィスはあるんですけど、寝泊まりはこの船でしておりまして。好きなものを集めたらなんだかハワイアンな部屋になっていました」
恥ずかしそうに笑って告げる瑠東。天井から床までの一部の壁をガラス張りにした場所から海が一望できる。その海の見えるソファに瑠東は浅葱を座らせた。瑠東は冷蔵庫から炭酸水と柑橘のジャムを取り出し、それらをグラスに混ぜ合わせたスカッシュをソファの前のローテーブルに二人分置いた。
「ゆうこうのマーマレードで作ったスカッシュです。さっぱりして美味しいですよ」
「ゆうこうって、長崎の」
「ご存じでしたか」
意外そうな表情で驚く彼に浅葱は笑みを浮かべ「故郷なんです」と返した。
瑠東がスカッシュを一口飲むのを見て浅葱もいただく。炭酸水に交じって優しい甘さのマーマレードが喉を潤していく。マーマレードというが、オレンジのものとは違い苦みがなく、純粋な果物の甘みが浅葱に残っていた疲れや緊張をほぐしていった。
「ところで、エジェオはともかくどうしておれに依頼したんです? エジェオと一緒に暮らしていたのは、おれより前にもいたはずですが」
「エジェオ様から一緒に暮らしていった画家様の中でも唯一月見里さんの話だけが上がっていたのです。素晴らしい絵画を描く方だと。エジェオ様が実際に絵を見られた際に、空気、風、匂い、温度。すべてを感じられると言っておられました」
「エジェオ、人に言うほどだったのか、それ。おれとしてはまだ全然理想通りに描けてはいないんですけどね」
浅葱は本心からの言葉だったが、瑠東はそれを穏やかに受け止めた。
「それでも描き続けているのでしょう? ストイックですね。色々とおつらい状況ながらも描くことを辞めずにいて、去年から今年になって外向的になったとお聞きして。頼むならこの型がいい、そして今しかないと思いエジェオ様を通してお願いいたしました」
「ああ、えっと、そうですね。本当、ちゃんと人と交流するようになったのはこの一年くらいです。あまり人の多いところは得意ではないんですけど」
「それでは、今回のパーティーはおつらかったでしょう。申し訳ありません。私としては、こうやって月見里さんとお知り合いになれたことが嬉しいですよ」
真っ直ぐ向けられる好意的な感情に思わず浅葱は目を逸らす。話題を変えるために、浅葱はエジェオに話しかけた。
「そういえば人魚も人外だけど、人魚の血を引く瑠東さんも何か変わった体質だったりするんですか。エジェオ知ってる?」
「ふろうのそんざいってところだな。わたしもうしおいがいに、にんぎょとこうはいしたにんげんのしそんはしらないが、げんにうしおがそうだ」
「……瑠東さん、おいくつですか」
おそるおそると訊ねる浅葱へ、瑠東は快く答える。
「これでも六十八ですよ」
「ろっくじゅうはちぃ……?」
浅葱もまさかの年齢だった。昨晩サングラスを外した瑠東の顔はどう見ても三十代前半くらいだった。六十代後半の頭髪でもないし、皺のない顔だった。
信じられないが、しかしよくよく考えれば不老くらいは人外の血を引いてもまだ序の口だろう。龍神や天使に比べればまだ人間である。
その後は浅葱の故郷の話や、瑠東が長崎へ行った時の話、瑠東とエジェオの昔話などをして時間をつぶした。話している途中で瑠東のスマートフォンに着信が入り、彼が仕事に戻るのを皮切りにお茶会は閉幕した。
部屋に戻る中で、ふとポケットを触ると固い感触があった。取り出すと海の石が当たり前のようについてきていた。
「なんで、今回石を覗いたら人魚の記憶が見えたんだろうな」
「たぶん、にんぎょのきおくじゃない。にんぎょがうみですごしていたじかんを、うみのきおくがわたしたちにみせたんだろう」
「ふーん」
廊下の照明にかざして浅葱は石を見る。石はもとの海の底を映す石となっていた。
人魚の記憶を見せたことにより、浅葱は何となく石は瑠東の元に移るのだと思っていた。石を必要とするものは、自身を人魚の血を継ぐ子として証明したがっていた瑠東であろうと。そして一番海に近く関係のある存在が瑠東であると思っていたのだ。しかし、石はそうでなかったらしい。
「謎だなぁ、おまえ」
そう呟いてポケットに戻した。まだまだ長い付き合いになるらしい。
「あさぎ、かえったらたのみたいことがあるんだが」
「今じゃ駄目なの?」
「ちゃんとせいしきにいらいしたいんだ。ぱとろんではなく、いらいしゃのひとりとして」
「よくわからんが、わかった。それじゃあしばらく待つよ」
頭の上の子機を指先で撫で、浅葱は部屋へと戻った。




