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第二話 カフェと天使と画家

 月見里(やまなし)浅葱(あさぎ)はコーヒーを好む。

 絵を描いているときも、本を読むときも、一息ついて休憩するときも常に砂糖なしのカフェオレを飲む。もともとは甘党だったため砂糖も入れていたのだが、糖尿病予備軍と診断されてからはささやかな抵抗として砂糖抜きで作るようになった。家にいる時は自分で作るが、制作に行き詰まったりストレスが溜まると日課の散歩をいつものルートから外れてカフェに入ったりする。体を壊さないためにおこなっている散歩も、新しいカフェができてないか、前に行ったカフェに新メニューが出てないか確認するのが癖だ。


 三月下旬。町中の木々が淡い緑に萌え、公園や並木道では桜が開花している。昼間の暖かな空気の中、浅葱は電車に乗ってお客様の元へ向かっていた。

 昨年の終わりに浜辺に通ったことで、遠出するハードルが低くなった浅葱はあの浜辺近くのお店も月一で見に行くようになった。同時に、燃え尽き症候群なのか、あの白龍の絵を描いた後何も絵の制作に手が付かなくなり気分転換のため近場から少し遠い五駅先のこの町を散策するようになったのだ。

 この町で見つけた海を見渡せる海岸沿いのカフェに二度ほど立ち寄ったのだが、そこの店主の男性と店員の女性が気のいい夫婦でよく浅葱に話しかけていた。その話の流れで浅葱が画家であること、現在スランプであることを話すと「依頼料は出すから、スランプの克服がてらにこの店に関する絵を描いて置かせてくれないか」と頼まれたのだ。浅葱はスランプの状態で人様に渡すほどの絵は描けないし、それでお金をもらうわけにはと渋ったが夫婦の懇願に最終的には折れた。絵の大きさにもよるが製作期間は二週間以上はかかると伝えると、それでもいいと二人は了承の返事をした。

 そして今日、浅葱は色鉛筆とデッサン用の鉛筆、スケッチブックを画材鞄に入れてカフェ「フェリチタ」に足を向かわせている。

「こんにちは」開店したばかりの時間に浅葱はお邪魔する。出迎えてくれたのは薄茶色の長い髪をポニーテールにした女性、夫婦の奥さんだ。


「こんにちは、月見里さん。お疲れじゃないですか? コーヒー飲んでいかれませんか」

「ありがとうございます。依頼料から引いていてください」

「そんなそんな、いいですよ。こちらからお願いしているのでご馳走させてください。何にされますか」

「そうですね。じゃあカフェモカで」


 奥さんはカウンターに振り返り「マスター、カフェモカお願い」と声をかける。カウンターキッチンでは、焦げ茶の髪をオールバックにして高く短く結っているガタイの良い男性が「はいよ」と低い声でにこやかに返答した。

 浅葱はテラス席を選び、注文のカフェモカを待つ。カフェのテラス席からは、白龍を見た浜辺より広く海を見渡せ、遠くに点々としている小さな島々が薄ぼんやりながらもよく見え、船なども観測できた。

パラソルの下の席からその光景を眺め、ここからの眺めを描こうか、外から見たこのカフェの絵を描こうか悩む浅葱。スランプなのだから数を描くのはいいのだろうし、まずはラフを描いてみるかと緩く考えていると、バサバサッと背後から羽音が聞こえた。鳩か? 彼は振り返る。

 高く高く上がった太陽を背負って、白く眩しい翼が広げられゆっくりと閉じていく。ブロンドの長い髪をふわりと風を含ませ広げ、頭頂部には煌々と光る輪っかが少女の正体を現していた。

彼女を認識して浅葱が真っ先に思ったのは、神様がいるならそういうこともあるよな、という自己解決だった。

 何やら納得顔で自分の方を見る浅葱に翼の生えた少女は、屋根に腰掛けながら浅葱に問いかけた。


「アタシが見えてるの? 人間のオニーサン」

「ばっちり見えてるねぇ。どこから来たの、っていうのは野暮かな」

「野暮よ、野暮。アタシたちは空高くにある天界から来るのよ」

「そっかぁ、天界ときたかぁ」

「月見里さん、どうしたんですか?」


 十二月の龍との邂逅から、また人知の外側の存在とワードが出たもんだととりあえず飲み込む浅葱に、カフェモカを持ってきた店長の奥さんが声をかけた。

「何かいるの?」と浅葱の視線の先を追って屋根を見ると、「ああ!」と楽しそうに声を上げた。


「白い鳩ね、ここにお店ができてからいつも来てるんです。可愛いですよね」

「鳩?」


 浅葱は奥さんから視線を少女に向ける。少女は楽しそうにニコニコ笑うだけだ。今日までの中で二回ほどこのカフェに来店したが、基本室内だったせいか白い鳩なんて浅葱は見かけたことはない。常に屋根の上に居たのであればなおさら見かける機会などなかっただろう。


「カフェモカ、この席に置いておきますね」


 奥さんはカフェモカの入ったマグカップをテーブルに置いて店内へと戻っていった。

「鳩なの?」と浅葱。少女は屋根から飛び降りてテラスの席のない場所に降り立った。そしてカフェモカの置かれた同じテーブルの向かいの席に座り「オニーサンも座って」と浅葱に着席を促した。浅葱は大人しく席に着く。


「アタシたちは、見えない人には鳩に見えてるのよ。白い鳩」


 両手で頬杖をつき、ニコニコ笑う少女に浅葱は問う。


「一応確認なんだけど、きみは天使ってことでいいの、かな?」

「そうね。御使いとかも言われるけど、人間に通りがいいのは天使だわ」


 真っ白いワンピースに素足、金色の瞳に整った顔立ち。人間離れした容姿に彼女の言う言葉に説得力が出る。


「ところで、それってなぁに?」


 天使はマグカップのカフェモカを指す。クリームにかけられたチョコソースが熱で溶けてとろりとした見た目と、コーヒー、ミルク、チョコレートの香りが鼻孔をくすぐる。


「初めて見る?」

「ううん。ここにくる人間がそれと似たようなものを飲んでるのを見たことあるけど、詳しくは知らないの」

「飲んでみる?」

「いいの?」


 浅葱は天使の前にマグカップを移動させる。天使はマグカップを両手で持ち、カップ伝いで感じる熱さに恐る恐ると口を近づけ飲んだ。飲んで、ミルクが混ざっていてもまだ苦いエスプレッソコーヒーを飲んだらしく、苦い! と言いたげなしかめっ面をした。


「人間ってこんな苦いもの飲むの?」

「マドラーで上のクリームとチョコソース混ぜながら飲んでみたら、多少マシになるよ」

「ほんとう?」


「まどらーってどれ?」と訊ねる天使に、浅葱はテーブルに備え付けてる木のマドラーを手渡した。クリームとエスプレッソコーヒーをよく混ぜて、天使はもう一度チャレンジする。すると今度は表情を驚きに変え浅葱を見た。


「飲みやすくなったわ。おいしい」

「それはよかった」


 注文した浅葱に遠慮することなく、どんどん飲んでいく天使を止めることなく観察するように眺める浅葱。髪と同じ金の睫毛、眉毛が感情に寄ってぴょこぴょこ動く。色白の肌や指先がコーヒーの熱を持って赤くなる。季節は少しずれてくるが、浅葱には梅の花の色身を感じた。鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出してその様子をスケッチする。天使はそれに気が付いた様子だったが気にしなかった。

 マグカップを空にしてから、天使は浅葱に訊ねる。


「オニーサン、絵を描く人? 画家?」

「そうだよ。ここのカフェの店長さんとその奥さんに頼まれて絵を描きに来たんだ」

「ふーん、だからアタシを描いてるの?」

「そういうこと」


 そういって浅葱は描き終わったスケッチブックを天使に見せた。描かれた自分を見て彼女は不満そうに頬を膨らます。


「顔の半分がこれで隠れちゃってる」


 天使はマグカップを指さし口を尖らせた。浅葱は笑って「飲んでるところ描いたからねぇ」と揶揄う様に返す。浅葱の言い分に不満に思うところは有れど、それ以上文句は言わない天使は顔を店内に移した。浅葱も天使の視線を追ってそちらを向く。

 店内では少しずつ増え始めて客に奥さんも店長も忙しなく働いている。中で流れている音楽や人の声は聞こえないが、賑やかなのは外にいる浅葱には感じられていた。

 浅葱は天使に顔を戻す。天使の表情はどこか遠くを見るような、無表情に近い顔をしている。


「何か気になることがある?」

「……ちょっとね」


 話す気がない返し方に浅葱は追及しなかった。追及はしないが勝手に理由を考える。

 店の中が気になるのか、店に来る人が気になるのか、夫婦が気になるのか。そもそも奥さん曰く、ここにカフェができたときから来ているらしいから土地が理由か、夫婦が理由かなのだろう。土地が理由であればこの場所に来る人間が気になるのは、人間の身からしてまあそういうこともあるだろうと浅葱は思う。では夫婦が理由だった場合はどうだろうか。彼らが敬虔なクリスチャンなら天使が来るのも納得だ。そしてクリスチャンであることを浅葱が知らなくても仕方ない。

 考えて浅葱はふと思う。クリスチャンなら白い鳩が毎日自分の店に来ることに何か理由や意味を見出すのではなかろうかと。浅葱は聖書にそんなに詳しくないが、確か鳩が出てくる話が合ったはずだ。それをただ可愛いで済ませるか。では、やはり土地が理由でこの場所に来る人を眺めているのか。


「オニーサン」


 天使が浅葱を呼ぶ。顔は変わらず店内を見ている天使は先ほどの子どもらしい声とは違って、大人びた落ち着いた声色で言った。


「どうして、アタシたちは話したい人と話せないのかしらね」


 どこか悲しそうな言葉に浅葱は何も言えなかった。



 屋敷に帰ってから浅葱は悶々と考えていた。あの時言われた「話したい人と話せない」は暗に自分と話したくないということだったんだろうか、と。それでも今日の晩御飯である春キャベツのステーキは口に運んでいく。八分の一に切られ蒸し焼きにされた柔らかい春キャベツは甘みがあり、ソースであるバター醤油のまったりした味によく合う。お米も進むし、満足な逸品である。しかしどこか思うところがあるような表情を浮かべる浅葱に、向かいに座って食べるエジェオが声をかける。


「浅葱、味が合わなかったか」

「あ、いや、美味しい。すごく美味しいんだけど、今日会った子に言われたことが気になってしまってて。ごめん、ご飯に文句は何もないよ」


 笑って訂正する浅葱に、エジェオは心配そうに顔を顰める。


「子ってことは子どもか? 何を言われた?」

「『どうして、アタシたちは話したい人と話せないのかしらね』って。少し話しただけの子だったけど、おれとは話したくなかったみたいだなぁって思って。ちょっと昔思い出した」

「……後で腕を見てもいいか?」


 エジェオの言葉に一瞬ぴんと来なかった浅葱だが、すぐに自分の自傷癖を思い出し心配はないと伝えたくて首を横に振った。


「大丈夫、大丈夫! もう今は腕を切ったり殴ったりしてないから!」

「でも鋏は持ち歩いてるんだろう」

「あー……それは、まぁ……いや、でも、持ち歩いてるって言うか、別に手に持って歩いてるわけじゃないし……鞄には入れてるけど……」


 視線を泳がして否定しない。浅葱自身、こういう時は嘘を吐けばいいと分かっているがエジェオを相手に嘘を吐きたくない本心が勝ってしまう。

 溜息を吐きエジェオは浅葱に向き直る。


「君が鋏を持ち歩くことは何も言わない。それがあるからこそ心に余裕があるのだし、君が他人を傷つけるような人間じゃないことも分かっている。何か思うところがあるのなら私や心療内科の先生、カウンセラーに言ってくれて構わないから」

「うん、ありがとう。でも本当、なんであんなこと言ったんだろうなぁって純粋に疑問だっただけだからさ。大丈夫」


 浅葱への心配はそうやって締めくくられ、その後は届いた郵便物やエジェオから借りた小説の感想になどについて話した。

 食事後の洗い物や入浴を済ませ、自室で今日スケッチブックに描いた絵を見直す。テラス席から見た海を描いたり、テラス席から覗いたカフェの中を描いたり。いくつかスケッチしていたが、手は自然とはじめの天使の絵に戻った。物珍しそうに飲み始め、美味しそうに味わっていたあの顔。絵は半分近くマグカップで顔が隠れているが、浅葱には記憶の補正であの嬉しそうな表情が見えていた。

 浅葱としては、神様や天使を見て類い稀な経験をしたと気持ちは高揚するが、頭の片隅には彼らが人間に対して無情であるという認識が残っている。彼らは人間が勝手に尊がっているだけであり、何もしないのだと。

 それでも浅葱があの天使に子供に接するように接したのは、彼女が浅葱の認識の中では珍しく人間の作ったものに興味を持ち、人間に関心を持つような発言をしたからだ。


「……気になるなぁ」


 とは呟くものの、子どもの頃のように配慮しない発言や行動は浅葱はしないようにしている。それはさんざん周りの大人に言われて矯正された自制心から来ていた。相手が自分の発言で距離を取ったり、自分が気付かないうちに嫌われたりするのは、浅葱にとってはトラウマだった。

 まあ、天使にあの発言の真意を訊ねるのは構わないだろうと思い直す。自分にあんな風に言ってきたのだ。浅葱にも聞く権利はある。



 一週間後の三月末日。浅葱はカフェ「フェリチタ」に、依頼されて二度目の来店をしていた。一週間の真っただ中ということもあり、前回に比べて人の流れは穏やかそうだった。今回は店長が作業しているところを描かせてほしいとお願いし、カウンターの端の席に座る。

 ピークが過ぎて、落ち着いたころに奥さんが飲み終わっている浅葱のカップを見て「同じもの飲まれますか?」と訊ねて来た。浅葱は「お願いします」と注文をしてから、ふと奥さんの顔色が気にかかった。


「奥さん、何かありましたか?」

「え?」

「疲れてるというか、しんどそうだなと」

「うそ、そんな風に見えます?」


 奥さんは慌てて自分の顔に手を当てた。


「顔色もそうだし、表情も何となく暗いかなぁと思う感じです。仕事でお疲れでしょうし、無理はしないでください」


 浅葱がそう言うと奥さんは表情を曇らせたが気を取り直して「ご心配おかけします」と微笑んだ。店長に浅葱のカフェモカを頼むと、奥さんは新しく来店してきた客を出迎えに入口へと向かった。

 浅葱は数分待って、出来上がったカフェモカを店長から直接受け取る際に訊ねる。


「奥さん、何かあったんですか」


 店長は奥さんの様子を見て苦笑いをしながら浅葱に伝える。


「まあ、ちょっと。月見里さんがお気になされることのほどではないですよ。ありがとうございます」

「そうですか」


 浅葱は深くを聞かないように頷き、自分も奥さんを見た。他の客の前では明るく振舞っているが、ふとした瞬間にその「ちょっとの出来事」での気持ちがぶり返すのだろう。店長が気にかけているように、浅葱もそれ以上は奥さんの不調に触れなかった。

 気を取り直してカウンター越しに働く店長を描く。外のテラス席と違い、店の中の話声やコーヒーの匂い、食器の音、店内に流れるジャズで自然とスケッチする手も確固としたメロディのない音楽にリズムが乗る。そもそも浅葱としてはほかの画家もそうであるように、顔や体に特徴のある人物を描くことが得意なためかガタイの良い体や彫りの深い顔つきが個性的な店長を描くのは楽しかった。

一通り描き終え、息を吐き冷めてしまったカフェモカを口に運ぶ。一口飲んで、カフェモカの冷たさからなのか背筋がぞくりと寒気を感じた。気になって周囲を見渡すが特に浅葱を見ている他の客は見当たらない。


「どうしました?」


 浅葱の挙動を不思議に思った店長が声をかける。


「いや、なんでも——」


 振り返る中で視界の端にちらりと写ったもの。それはテラス席の柵の上、白いワンピースと色白の肌の足が座っているのが浅葱に見えた。


「ちょっとすみません。テラス席に行ってもいいですか」

「構いませんよ」

「あとカフェモカ、もう一杯テラス席に持ってきてください」


 浅葱の注文に店長は首を傾げながらも「かしこまりました」と注文を受けた。

 テラス席に出る。柵に腰掛けた天使が浅葱に気付き、軽い調子で手を振る。


「こんにちは、オニーサン」

「こんにちは。そこに座るの、怖くない?」


 浅葱の疑問に天使はきょとんとした顔をして「ふふふ」と笑った。


「アタシたち飛べるのよ? これくらいの高さから踏み外しても滑り落ちても問題ないわ」


 天使は柵から飛び降りて、浅葱の前に歩み寄る。何かを言いかけたタイミングでテラス席へのドアが開き、奥さんがカフェモカを持ってやってきた。


「月見里さん、カフェモカです。お客様の流れも落ち着いてきたので大丈夫ですけど、突然こちらに来られてどうしたんですか?」

「いやあ、この間の白い鳩さんがいたのが気になって」


 そう受け答えながら奥さんからカフェモカの入ったマグカップを受け取る。奥さんは視線を浅葱の足元に向けて、恐らく彼女の目から見える鳩の姿の天使を見ながら言った。


「この子、お店ができてから来てるって言ったじゃないですか。白い鳩は幸運をもたらす象徴って聞いたことがあるから、なんだかお店もうまくいくんじゃないかなって思ってたんです。そしたらお客さまにも恵まれて、いい方向に経営もうまくいって。なんとなく、我が子みたいに思ってたんです。でも、本当の我が子はなかなか恵まれなくって……」

「もしかして、暗い顔している理由はそれですか」


 浅葱の指摘に奥さんは苦笑いを浮かべる。


「不妊治療、してるんです。でも結果は……。マスターに気を遣わせちゃうし、今も十分幸せだし、そろそろ潮時かなって思ってるんです」


 悲しそうに告げる言葉に浅葱は何も言えない。男であり、恋人もいない浅葱には何が適当な言葉なのか分からなかった。子を望み、子を身ごもり、子を産む責任とそれを一番近くで体験する本人にしか分からない幸せを、その幸せを諦める気持ちを、浅葱には嘘でも分かるとは言えない。それは、心の奥底で押さえつけていた本音として。結婚や恋愛や、子を作ることを良いものと思えない、浅葱の醜さから反発して生まれた、奥さんへの気遣いであった。

 くい、と服を引っ張られそちらを見る。

 天使が悲しそうな顔で奥さんを見ていた。


「すみません、こんなこと話しちゃって。ゆっくりしていってください」


 奥さんは頭を下げて店内に戻る。浅葱は天使に席に座ることを促し、自分も天使の向かいに座った。天使に注文したカフェモカを差し出す。


「飲んでいいよ。君のために注文しといた」

「いいの? ありがとう」


 席備え付けのマドラーを手に取ってクリームとコーヒー、ミルクを混ぜる。その間にも天使の表情は浮かない。


「ここの夫婦と、何か関係が合ったりする?」

「……天使って、別に神様の遣いだけじゃないのよ?」


 混ざったカフェモカを見つめながら天使は言った。


「天使って、ある程度天使として働いたら人生経験をするの。天使としての経験と、人間としての経験を繰り返して、天使としての格を上げるの。……本当はね、私ここに降りてくるはずだったのよ。だけど、タイミングが合わなくて。今は次の降りる機会を待ってるところ。それまでは、ここにいてちょっとでも力になれたらって」

「それ、天使としてはいいの?」

「お母さんとお父さんになるはずだった二人だから、いいのよ。優しい人間だから」


 カフェモカに口をつけ、彼女は小さく「おいしい」と呟いて微笑んだ。

 少し考え、浅葱は店内に置きっぱなしにしていた画材を取りに戻り、テラス席の天使の待つテーブルに再度腰を下ろした。


「天使ちゃん、また君の絵を描いてもいい?」

「いいけど、またこれで顔隠れるのはいやよ?」

「わかってる」


 スケッチブックに鉛筆を走らせる。天使とスケッチブックを視線を交互に移しながら細かく観察する。気がまぎれる様に浅葱は話題を振った。


「ちなみに天使って男の子とかもいる?」

「いるわ。でもみーんな同じだよ。キラキラした髪に金の目をしてる」

「みんな整ってる顔立ち?」

「どうだろう、あんまり自分の顔に関心がないから分からないわ。アタシの顔って整ってるの?」


 両手で頬杖ついて天使は浅葱の顔を覗き込む。一度目を合わせたうえでスケッチブックに視線を戻して浅葱は返す。


「整ってると思うよ。少なくとも人間じゃないなぁと思うくらいには」

「それ褒めてるのかしら?」

「褒めてる褒めてる」


「もう」呆れたように呟く彼女に浅葱はこっそり顔を見る。少女は思ったよりも不機嫌そうにはしておらず、むしろどこか楽しそうに小さく「ふふふ」と笑っていた。



 カフェの夫婦にしばらくは屋敷で製作するから来れなくなることを伝え、屋敷に帰った。エジェオが起きるまで時間はしばらくある。カフェで描いた天使の絵は色鉛筆で描き上げたが、天使を前にして「これは水彩絵の具で描いた方がいいかもしれない」と判断し、描き直すために持ち帰った。あの透き通った綺麗な肌や透明度のある瞳は色鉛筆でもいいが水彩絵の具が映えるだろう。

 エプロンに着替えスケッチブックの絵と自分の中の天使の顔を照らし合わせ、水彩用紙に色鉛筆を滑らせていく。天使から聞いた話を脳内で繰り返す。

 つまりは、あの天使が本来カフェの夫婦の子になるはずだったのだろう。それが、奥さんの受胎のタイミングと合わないために、天使から赤子になれなかったと。ではあの夫婦が妊娠を諦めたらどうなるのか。行き場をなくして天使としてあり続けるのか、それとも別の夫婦の元に行くのか。

 浅葱は考える。もし今浅葱が描いている絵が完成しても、あの天使がどうなるのか聞いてからカフェの夫婦に渡す方がいいのかもしれない。


「子ども、ね」


 浅葱がずっと考えないようにしていたことがとうとう頭に浮かんで口をつく。

 大前提として、浅葱には人間への恋愛感情や些細な好意的な感情は受動的なものであっても、能動的なものであっても嫌悪している。理由としては、小学生から始まる学生時代の失恋や、強い執着や、性的暴行の未遂事件、精神を病んでしまったころに頼りにしていた人物の入籍の話などから来た、後悔、自分勝手に裏切られたと思った感情、厚意を向けられた結果の出来事がトラウマと化し浅葱の脳に刻み込まれているからだ。それゆえか、性行為や行為に及んで生まれた結果生まれる子どもを、当人たちには悪いがよい感情で見ることを苦手としていた。

 ポケットに入れておいたケース付きの鋏に触れる。それだけで波立ちになる心の海が凪いでいく。

 とはいえだ。依頼されたことはやり遂げるのがプロの仕事人であり、少なくとも浅葱にとってはあの夫婦は自分に良くしてくれた相手だ。手を抜いたり、ほっぽったりはできない。


「やれるところまでは、やらないと」


 色鉛筆で線画はできた。深呼吸をして、目を閉じる。

 天使のあの表情、話す声、仕草。

 伝えないのは、あまりにも悲しい。



「こんにちは、お久しぶりです」

「こんにちは、月見里さん。二週間ぶりかしら、お元気でした?」


 作品が完成したことを連絡し、またカフェ「フェリチタ」に来店した浅葱。出迎えてくれたのはいつもと変わらず店員の奥さんだった。

事前に「先に絵を見せたい人がいる」と伝え、完成品を持ってきた浅葱は、電話の時に「その人とはフェリチタで待ち合わせしているから、テラス席を空けてほしい」とお願いしていた。

 カフェは開店したばかりで、人はほとんどいない。店長や奥さんに挨拶をして、真っ直ぐテラス席に進んでいく。テラス席は建物の影と日向の部分が半々になっており、席は建物の影に隠れていた。ぐるりと辺りを見渡して、屋根の上に座っている天使の少女を見つけた。


「やあ、こんにちは」

「あら、この間ぶりね。もう来ないかと思っちゃったわ」

「ちゃんと仕上げるために時間を貰ったんだよ。店長さんたちにも話してね、モデルになってくれた君に一番に見せたかったんだ」


 浅葱は大きな手提げ袋から風呂敷に包まれた額縁を取り出す。きょとんとした顔の天使に「これがおれが見ていた君の顔だよ」と風呂敷を開き天使に絵を向き合わせる。

 そこに描かれていたのは、目を三日月に細め可愛らしく笑う、翼があり光輪を輝かせた天使であり無垢な少女の姿だった。


「……これが、アタシ?」


 天使は浅葱の手から額縁に入った絵を取り、間近でよく自分の姿を眺めた。しばらく何も言わずに眺める天使に内心、気に入られなかったかもしれないと不安になった浅葱だったが、顔を上げた少女の顔でそれは払拭された。

 キラキラと、金色の目がさらに光をまぶして輝き光輪に白いバラの花が咲き乱れる。


「アタシ、アタシ、こんな顔してたの? こんな、こんな……かわいい顔してたの?」


 驚きと、嬉しさと。興奮して頬が赤くなる少女の可憐さに、描いてよかったと心底安心する。


「ちなみにさ、二人が妊娠を諦めたら。君はどうする?」

「……そうね。私の気持ち次第で、別のところに降りるし、ここに留まって小さな守護天使としてやっていけるわ。私は、ふたりが諦めてもここにいる」

「そっか。じゃあ大丈夫だ」


 不思議そうにする天使に笑いかける。天使から絵を受け取り、改めて店内の夫婦の元に戻った。二人はテラスで鳩相手に話しかける浅葱を眺めており、戻ってきた浅葱に「何をしていたんですか?」と訊ねた。浅葱は曖昧に返しつつ、夫婦にも絵を見せた。夫婦は完成した絵を見ると感嘆の声を上げた後浅葱に問いかける。


「すごく綺麗な天使ですけど……お店の外観とかではなく、なぜこの子を?」

「あの白い鳩からインスピレーションを得て、ですかね。それに奥さんにとって大事な存在だから、祝福がありますようにと」


「飾ってもらえますかね」苦笑いを浮かべて確認を取ると奥さんは店長に笑いかけ、店長もそれにこたえる様に彫りを深める様に微笑みを浮かべると二人は浅葱に向き直り「もちろん」と答えてくれた。



 それから、一か月。五月も後半に入り、暑さがにじみ出てきたころ。空は五月晴れが続き、日差しも眩しくなる。浅葱は暑さが苦手なわけではないが、左腕の傷跡たちを隠すために薄い生地の長袖やアームカバーを着ける事情から熱がこもるために常人より体感の温度が上がっているので、五月終わり辺りから外出が減っていく。この日も気温がいつもより低くなければ屋敷の中で読書するつもりだったが、しばらく様子を見てないカフェ「フェリチタ」の二人や天使の彼女のことが気になり、日差し対策をして屋敷を出たのであった。

 到着したカフェは賑わっており、店長はアルパイトを雇い奥さんの手の届かないところを補っていた。テラス席は珍しくガラガラで、ここ最近の暑さからか、外に出たがらない客が多いんだろうなと浅葱は勘ぐった。

 駆け寄ってきた奥さんにテラス席に行くことを伝え、壁に掛けてある浅葱の描いた天使の絵を横目にテラス席のドアを開いた。

 海が近いからか涼しい風が吹いて、熱を持つ体が冷やされる。


「あら、絵描きのオニーサンお久しぶりね」


 少女の声に振り返る。そこにはブロンドの長い髪を靡かせた少女と。

 同じブロンドの髪色をしたそれぞれの髪型の少年少女の翼と光輪を持った天使が肩を並べて屋根に座っていた。


「お、ひさしぶりだね。元気?」

「ええ。他の天使も、見ての通り一緒よ。ねえオニーサン。この子たちの絵も描いてもらえないかしら」

「……突然だねえ」


「ふふふ」少女は楽しそうに笑い、浅葱に問いかける。


「今日はどんなものを飲ませてもらおうかしら?」


 浅葱は観念したように苦笑いで肩を落とし告げた。


「またそれぞれの天使さんと話そうか。みんな、甘いものはお好きかな」

「ええ、とっても!」


 天使たちはテラスに飛び降りて、浅葱の周りをくるくる回る。

 これはしばらく通わないといけないな。心の中でひっそりと楽しさで微笑んだ。


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