第一話 海と龍と画家
プロローグ 夜と来訪者と画家
月見里浅葱は意識が朦朧としていた。
すべてが嫌になって、溜め込んだ安定剤、睡眠剤、そして水で割ったウイスキーを一気に飲み干したからである。眠気と、アルコールが回ってふわふわする頭と、重たい体を上半身だけアトリエの椅子に預け、床に座り込んでいた。
これで何度目のオーバードーズだっけ。五回目だか六回目だかだったかな。
今度こそ。
倒れこんだ浅葱の目の前には未完成の絵がイーゼルに立てかけてある。何を描けばいいのか分からなくなり、ただ色を乗せて曖昧になったパレットのようなキャンバス。昔はあんなに描きたいものがあって、ほんの二、三年前は精神状態が酷くとも浮かぶものさえあればなんだって描いた。今では、何も手に着かない。
そういえば今日は食事をとったっけ、と今日一日を思い返すがもうその意識すら微かですらない。
窓からの風が心地いい。残暑が厳しい秋ではあるが、夜になれば随分と気温は下がる。それからなる空気の動きは浅葱の体の輪郭をいやというほど感じさせる。
(……まど?)
はて、窓は開けていただろうか。いやまあでも。涼しいからいいか。
いいのか?
「堕落……ではないな、憔悴しきっているじゃないか」
聞き覚えのない声が浅葱の遠くなる意識の中で響いた。
意識が明確になり、視界を覆う闇が無くなったとき。浅葱は見たことのない天井が視界に入ってきて一瞬動けなかった。自宅の天上は白に丸い照明だったのだが、目の前の天上は濃いクリーム色に吊り下げ照明だった。
ゆっくりと周りを確認する。一般的なアパートの無地の壁ではなく、うっすらと花や葉の模様が描かれている内装に凝った部屋だ。明らかに自分がもともと住んでいた部屋じゃない。洋風のタンスやサイドテーブル、そこに置かれる花の形の間接照明。
まったく記憶がない。いやオーバードーズをした記憶はある。しかしこんな部屋に連れてこられた記憶がない。
逃げなければ、とは思わなかった。混乱はしているがただぼんやりと、どうせ死のうとしていたしなぁ、と考えひとまずは今の時間を確認する。
傍に置いてあったデジタル時計には、オーバードーズをして一日たっている日付と夜七時の時刻を指していた。
コンコン、とノック音が部屋に響いた。「起きているか」と低い声が扉越しに聞こえたが、知らない声なので何と返すべきか浅葱には分からなかった。そのまま「入るぞ」と扉が開かれる。
銀色の長髪を一つにまとめ、赤い瞳の切れ長な目。やや彫りがあるところが老け顔気味に見えるがシャンとした姿勢や見て分かる肌艶に三十代後半か四十代前半ほどの男性に見えた。
「ああ、起きてたか。おはよう」
「おはよう、ございます……」
挨拶を返すがまず目の前の人物が誰なのかという疑問が浮かぶ。
顔に出ていたのか、そもそも浅葱が起きたら自分の話をしようと思っていたのか、銀髪の男性は小さな配膳車を部屋に引き込みながら入ってきて、乗っていた食事を配膳しながら話した。
「私は不二エジェオという。君をここに連れて来た張本人だ」
「……拉致監禁的な?」
「監禁までとは思ってない。ただ君に絵の依頼をしたい。けれど、今の君の体調や精神面の不調が不安だから、ここで生活面の面倒を見させてほしい」
「……はあ……?」
浅葱の頭にはてなマークが乱立する。
絵を依頼したいは分かる。生活の面倒を見たいは何故なんだ。自分とこの男性は初対面のはずだし、面倒を見られる義理はない。
だが、疑問は浮かんでも正直浅葱は正常な判断ができないのが現状だった。
「本当におれの面倒見てもらえるんですか」
「ああ。パトロン、後援者になろう。一昨日の夜に見た君の状態とあの部屋の惨状を無視はできないからな。私の依頼に万全の状態でやってもらいたい」
「つまりは依頼を完遂するまでは面倒を見てもらえると」
「その後も君が望むなら援助をしよう」
そう言ってエジェオは立ち位置をずらした。
「とりあえず、目が覚めたなら食事にしよう。お腹が減っているだろう?」
エジェオの背後で用意された食事を改めて見る。香ばしいコンソメの匂いのもとは野菜とソーセージたっぷりのポトフと瑞々しい野菜のサラダ。飲み物のピッチャーにはレモンと氷が入った水が用意されていた。
それは十二月の、あと三日で大晦日という日に目撃した。
とある理由で海を見たいと思い立ち、コートに手袋にマフラーにニット帽にと十分な防寒をして五つ先の駅に画家は降り立った。冬の浜辺に人はおらず、海風が体を冷やしていく。着いて早々来たことを後悔していた画家は自身のパトロンであり、日々の生活の面倒を見てくれている家主の吸血鬼に言われた「行ってもいいが、寒いからな? 多分後悔するぞ?」という忠告を素直に聞いておけばと自身の意固地さを憎んだ。しかし、まあ冬の海ってなかなか来ないしいい経験になったんじゃないかな? というマイペースなポジティブさで呑気に前述のネガティブを払拭していた。
すぐに帰るのもなんだか惜しい気もして身を縮こませながら浜辺を歩く。
不意に一陣の風が海から吹きすさんだ。マフラーに顔の半分を埋め、海上の方を見る。灰色の雲の空から一条の光が差し込み、海面の一点がキラキラと光を反射した。その光景を見止めた瞬間、ドッと鈍い音があたりに響く。同時に、海から太く、白く、煌めく体の龍が光差す雲の隙間へと昇って行く。
それは十秒余りのことだった。画家は目をむき呆気に取られていた。
波立つ海はすぐに穏やかな冷たい灰色の海に戻り風も止んだが、画家の静かな心の高揚感はしばらく治まらない。どれくらい治まらなかったかといえば、家に帰って無心にスケッチブックに描き止め、日が暮れてから起きて来た家主に繰り返し同じことを話すくらいには興奮していた。
これは画家、月見里浅葱が家主不二エジェオ以外で初めて見る人外との年収めと年初めの一幕である。
「で、で、本当にすごかったんだよ。水墨画とかで見る龍の雰囲気なんだけど、やっぱり実物はリアルで迫力があるっていうか。ただただ驚いて見送っただけになっちゃった。どうしよう、まだドキドキしてるよ」
エジェオが起きて浅葱は一緒に晩御飯のぶりの照り焼き等を作り食卓を囲む。ずっと同じ話を続ける興奮気味の浅葱にエジェオは呆れ顔だ。
「龍、龍ねぇ……浅葱は霊感とかあったか?」
「特にはない、と思う。幽霊とか見たことないから」
食事の上で平然とした顔で龍の話題を終わらせない浅葱に、エジェオは訊ねる。バトンを受けて今度は浅葱が問う。
「吸血鬼って龍というか、ドラゴンに何か関わりあったりする?」
「地球上にドラゴンがいると思うか? 古くは古代ギリシア時代に吸血鬼の伝承は残っていたって聞いているが、私の周りにドラゴンを見た祖先や血縁者、友人はいない」
「おれからすれば、創作の中でしか聞かない吸血鬼が目の前に存在してる時点で、吸血鬼もドラゴンも似たようなものだよ」
「ドラゴンは完全に幻想種。人の創造の中の産物だ」
そう言ってエジェオは垂れる銀色の前髪を耳にかけ、ぶりを一口食べてお米も口に含む。浅葱も喋ることで進んでなかった食事の手を進める。醤油の甘いたれがぶりによく滲みてご飯が進む。一緒に焼いていた長ネギも甘みがあって単体だけでも十分に美味しい。
美味しさについ顔が綻ぶ浅葱はこちらに視線を向けていたエジェオと目が合う。ふ、とエジェオは笑い、「美味しいか?」と聞く。浅葱は深く頷き「最高」と称賛した。
「でもドラゴンは幻想種でいないのに、日本には龍神がいるって不思議なもんだねえ」
「ドラゴンは架空の生き物であって神様ではないからな。神様なら、いるだろう」
吸血鬼のその発言に、浅葱は目を丸くする。
「エジェオは神様信じるんだ」
「信じる信じない以前に、まあ、なんだ。確かにいるからな」
なんとも煮え切らない言い方と表情に浅葱としては追求したい気持ちがあったが、濁したということは今は言えないのだろうと素直に思い、目の前の食事に改めて向き合った。
翌日。一日経ったくらいでは上がることのない気温の(むしろ寒さに磨きがかかっている)外に変わらずコートに手袋、マフラー、ニット帽を身に着けて浅葱は龍を見た海に向かった。今度はスケッチブックと幾本かの鉛筆とねり消しを黒の画材鞄に入れて。
駅に降り立って十分ほど歩いた先が例の浜辺だ。相変わらず人はおらず、流れ着いた流木やその破片が波に押されて浜辺に固まっているだけだった。
龍を目撃したのはこの辺だったかと遠くに見える島の影や浜辺に降りられる石階段を目印に歩く。今日も灰色の雲はどんよりとしており、気温からして雪が降りそうな空模様だ。しかし昨日に比べて風はそんなに吹いておらず、キンと張りつめた寒さではあるものの留まるのは苦でない状況であった。
龍を見たときも太陽の光なんて差さないと思った曇り空だったが、思えば風があったから雲が動かされ隙間ができたのかと眺めながら浅葱は気付いた。
適当に石階段に腰を下ろし、スケッチブックを開く。浅葱が画家を目指し始めてからずっと続けて来た風景画の鉛筆スケッチはこれでもう二十冊目になる。持ってきたスケッチブックも風景画だけではないスケッチがあるが、半分は描いている。真新しいページを捲って持ってきた中で一番薄い芯の鉛筆を手に取る。三分割法を用いるのが基本の基本ではあるが、浅葱は気の向くままに書きたいので基本などは無視して描き進めた。
灰色の空と海、遠くにある島の輪郭。シンプルな風景画は長年の慣れによってすぐに出来上がった。持ち上げて眺める。自分の見ている光景と描かれている絵が違うと違和感を持つ。白と黒と灰色の絵には、本来の光景と比べ足りない色は確かにあるだろう。それではなく、もっと大きな。そう思って脳裏に過るのは昨日の龍。
たった十秒余り、しかし記憶に残るには十分な時間。
浅葱はすぐに置いた鉛筆を取って描き加える。空に昇っていく白龍の姿を描く。水しぶきを立て、空に向かう勢いに靡く髭、たてがみ、尾っぽ。海水に浸かり艶やかに光る鱗。
不思議と浅葱の筆が乗る。すいすいと迷いなく進む。次第に苦しくなって、最後に龍の目を描きこんだら鉛筆を走らせる手が止まり、酸素が一気に浅葱の肺に入ってきた。どうやら息を止めて描き進めていたらしい。出来上がった絵を見てさっきよりも確実に浅葱の想像したものに近づいた。けれど浅葱にはまだ足りないと思ってしまう。今度は何が足りないのかが分からない。
今日は風景画だけを描くつもりできたのに、結局龍も描いてしまった、と自分自身に呆れてしまったが描いたら描いたで少しはすっきりしたので浅葱はこの絵で納得する。
ぶるりと体が震えた。気が付けば体がだいぶ冷えてしまっている。帰って熱い風呂に入らなければ風邪をひくな。急いで筆箱に鉛筆を片付け、筆箱とスケッチブックを画材鞄に入れて立ち上がる。思ったよりも体は寒さと姿勢の動かなさで固くなっており、あちこちが痛んだ。足早に駅に向かおうと足を動かす。背後から、
「なんだ、もう帰るの」
と、声がした。青年のような口調でいて、それにしては少し低い声の自分に投げかけられたような言葉に、浅葱は振り返る。しかしそこには誰もおらず、石畳がはるか先まで続くのみだった。
エジェオが家主の屋敷に帰るなり、早々に浅葱は風呂の準備をした。十五時を過ぎた、曇っているがまだ日が高い時間だが、冷え冷えとした浅葱の体には緊急のタスクだった。猫足バスタブにお湯を溜めつつ、服を脱いでお湯を溜める蛇口とは別の備え付けのシャワーのハンドルを回す。熱々のお湯を凍った手先、足先から当てていき、全身に浴びていく。やっと一息できたと蒸気が舞う中浅葱はひと心地着く。今日の夜は今以上に冷えるだろう、それこそ雪が降るかもしれない、エジェオにも体を冷やさないように伝えなければと体を洗いながら考える。しかしその中でも心はスケッチブックの龍が昇る絵が気がかりだった。
今瞼を閉じても、浅葱の暗闇の中には空に昇る龍が見える。これではまるで思春期の恋する女の子みたいじゃないか、と今の自分が異様に執着を見せていることに呆れた。呆れつつもあんなもの見た後じゃ仕方ないかもしれないなと、創作意欲が描きたてられているのだと前向きにとらえ、どんな画材を使えば自分の見た通りのものが描けるか構想を練る。
シャワーを浴びながら考えている間にバスタブにお湯が溜まり、ゆっくりと足先から湯船に浸かる。肩まで湯に浸り、おじさんのような声が出た。
思考が曖昧になる感覚を得て、浅葱は瞼が重くなる。バスタブの縁に頭を預け浅葱は意識を手放す。
〇
透き通った空色の空間だった。壁はなく、どこまでも続く透き通った空に遥か足元には白い雲の波。浅葱の口の端から泡が漏れて、ここが水中なのか雲の上の空の中なのか分からなかった。とりあえず、目に入る情報から断定的に空の中だと浅葱は判断する。浮遊感のある自分の体を特に動かすことなく、空気の流れに漂わせる。
遠くに白い線があった。それは蛇のようにうねうねと空中を動き次第に線が太くなっていく。しばらくして、浅葱はそれがこちらに近づいてきているのだというのに気が付いた。
鯨のような高い鳴き声が響いて浅葱の耳に届いた。それはまるで仲間に呼びかけるような伸びやかな声だった。
ぼんやりと見ていた白いそれがはっきりと見えてきたころにはもうすぐそこで、やっと浅葱は見ていたものが自分の心を魅了してやまない白龍であることに思い至った。
白龍は確実に浅葱を認識しているようで、浅葱に近付いて彼の周りをぐるぐると囲うように回る。浅葱の前に白龍の頭が来た時には白龍の大きな目がじっと浅葱を見ていた。
『おれをかいて』
またも鯨の鳴き声で白龍が言った。
〇
「浅葱、浅葱!」
エジェオの声が浅葱の耳に届く。体が異様に重く首と頭が痛い。頭痛ではなく凝り固まった筋肉の痛さだった。滲む視界と、うまく回らない頭ながらも何事かとエジェオを見ると吸血鬼の白い顔が青白くなって浅葱を見ていた。
「エジェオ……?」
「君、こんな冷たい風呂に入ってどうした。体冷えてるじゃないか。しかも気絶して。大丈夫か、意識ははっきりしているか」
エジェオに言われ、浸かったときはあれだけ温かかった湯船が今は冷え冷えとしていることに気が付いた。それに伴い浅葱の体もあれだけ温めたのに冷え切っていた。指先もふやけてしわしわになっている。
「さむっ。え、おれ寝てたの」
「ああ。ほら上がって、シャワー浴びて温まって。晩御飯は全部こっちで準備するから冷えないようにするんだぞ」
エジェオは水の中から浅葱の傷跡だらけの腕を引っ張り支えながら浴槽から出し、シャワーのお湯を確かめシャワーヘッドを彼に渡した。
「何かあったら呼ぶように。君のパトロンであるのと同時に、君の面倒を見るのも私の役目なんだからな」
そう言ってエジェオは浴室から出て行った。シャワーヘッドを手に持った浅葱はまた足元からお湯を当てて、体温を平熱に戻していった。浴室の鏡の曇りを拭って顔を見れば浅葱自身の顔色も青白く、唇は紫がかって変色していた。どうやら相当危なかったらしいと今更ながら身の危険を感じ、寒さとは別にぶるりと震えた。
十分に体を温め、浴室、脱衣所から出て来たら廊下にいい匂いが漂ってきていた。トマトの甘く爽やかな匂いとベーコンとコンソメの混ざった柔らかな匂い。冷えた廊下をスリッパでパタパタと歩きながら、これはあれかな、と予想を立てて心躍らせる。リビングの扉を開けると匂いは強くなりながらも美味しそうという印象が強く、余計空きっ腹を刺激した。
「エジェオ、今日ミネストローネ?」
「ああ。トーストも焼いてる。ミネストローネはたくさん作ったからおかわりすると良い」
スープ皿に盛り付けたミネストローネとトーストを二枚ずつ、小さなサラダと飲み物を用意して、暖炉の火が灯り温かいリビングで手を合わせる。
「いただきます」
「めしあがれ」
スープスプーンでトマトスープと細かく刻まれた具材を掬う。熱々のスープを息を吹きかけ冷まして一口。トマトのうまみと、コンソメ、ベーコン、他野菜のおいしさとじんわりと広がる熱にほっと息を吐く。今日はずっと冷えてばかりだと思い返しながらも、エジェオのミネストローネが食べられたのは僥倖だ。
「今日はどこに行ってたんだ? 冷えた風呂に入るわけはないし、早い時間に入っていたんだろう?」
「ああ、あの龍を見た浜辺に」
浅葱が言うとエジェオの表情が少し険しくなる。
「なんでまた」
「なんとなく。あそこで絵が描きたいなと思ったから。そうだ、多分寝てた時に白龍を見たよ。すごく近くまで来て、そう」
夢のことを思い返しながら浅葱は龍に言われたことを繰り返す。
「『わたしをかいて』って」
「……見入られてないか、それ」
龍の言葉に、エジェオの眉間の皺が深くなる。普段からそう笑顔でいるわけでもないエジェオだが、眉間に皺が寄るときは相当不快な時だと浅葱は心得ていた。
「行った浜辺の近くに神社とかないのか。そこで関わらないで下さいとかお願いするなりなんなり」
「悪いものの感じはしなかったけどな。そんなに焦ること?」
「君が呑気すぎるんだ。神様なんて碌でもないんだから」
確かに浅葱は指摘されるほどマイペースで危機感がないとよく言われるが、ちゃんと浅葱も危ないことは危ないと判断できる力はある。その上であの龍は危ないものではないと浅葱は判断していた。
「エジェオは何を怯えてるのさ」浅葱の純粋な疑問にエジェオは言葉を詰まらせる。
「昨日神様はいるって言ったときもそんなにいい顔してなかったし。何かあったか聞いていい? というかおれエジェオの昔の話そんなに聞いたことないよね?」
「そんなに、話すことでもないと思っていたからな。第一、どこからがどれだけ昔なのか、今は曖昧なんだ」
陶器のコップに注がれた緑茶を飲むエジェオ。深く息を吐いて「先に食事を終わらせよう。詳しい話は食後にする」とミネストローネに手を付けた。浅葱もそれを黙って了承し、食べ進めた。
食事が終わり、食器洗いを浅葱が担当し、乾燥機にあらかた詰め込みスイッチを着けたときにはエジェオは暖炉前の一人用ソファーに腰掛け、自分の座るソファーと三人掛けのソファーに添えてあるサイドテーブルにお互いお気に入りのマグカップ、エジェオは青一色のマグカップを、浅葱は浅葱色に白の猫の足跡のワンポイントのあるマグカップを置いていた。近付けば微かにコーヒーの匂いがする。
「君のは砂糖なしのカフェオレにしたよ」
「ありがとう」
三人掛けのソファーに座り、エジェオに向き直る。
「それで、何があったのさ」
切り出す浅葱に、一度は顔を向けたエジェオだがすっと下に目を逸らした。
「どれくらい前かは覚えてない。昔、友人と旅をしていた時に教会に立ち寄って大きなマリア像を見たことがある。友人は吸血鬼ではなく人間で、敬虔なクリスチャンだったから行先に教会があればよく祈っていた。私はそれに付き添い、傍で眺めていた」
「吸血鬼が教会に入って体調悪くしたりとかはなかったの?」
素朴な浅葱の疑問にエジェオはなんでもないように答えた。
「あくまで私は吸血鬼という種であり、悪魔ではないからな。なんともない」
一口コーヒーで口を濡らして、エジェオは続けた。
「いつだったかな。他より規模が大きい教会に立ち寄ったときの話だ。マリア像がステンドグラスの光を背負って、私でも神々しいなと思いながら、教会の椅子に座って友人のお祈りを待っていた時に耳鳴りがしたんだ。えらく大きい音で鳴る耳鳴りに軽い頭痛もしてきて目の前が真っ白になった。真っ白な空間に、明るい人型の光があった。それは私に『あなたに祝福を与えましょう』と言って手をかざしてきた。瞬きした次の瞬間には元の教会だったんだが、ステンドグラスから差し込む光に身を焼かれる痛みを感じた」
浅葱は黙って聞き役に徹する。なんとなく、次に言われることが分かってしまっていた。
「私はあの日から、ダンピールから、本当の吸血鬼に変わってしまったんだ」
「ダンピールって確か、人間と吸血鬼のハーフ、だよな」
こくりとエジェオは頷いた。
「初耳だったな。エジェオがダンピールだったなんて。初めて会った時に吸血鬼と説明されていたから、生粋の吸血鬼なものだと」
「現に今は吸血鬼だからな。体質が変わってから両親の元に帰って吸血鬼としての生き方を学んだ。しばらくの間は、生まれ育った土地の私たち吸血鬼一族の知り合いで、厚意的な人間から血を分けてもらっていたよ」
「言い淀んでいたことの理由については」
「あの日全身を焼くような痛みが、記憶と紐づいていたからあまり話したく無くてな」
浅葱は肘置きに寄りかかり考える。エジェオの言う理由に懐疑的だったからだ。確かに痛みの記憶は思い出したくないものだろう。それもなんの耐性もない状態で吸血鬼の弱点である太陽に焼かれる痛みなど、想像に絶する。だけれども、どうしても普段のエジェオからは考えにくい理由だと思うのが浅葱の見解だった。
自分がもともと住んでいたあの狭いアトリエから連れ去られた夜から、共にエジェオの屋敷で暮らして浅葱は三年になる。一般的に見ればそれなりの長さである付き合いだが、浅葱にしてみれば過去を詳しく話そうとしないエジェオとこの三年で距離を縮められたかといえば答えは否だ。エジェオが話したがらないなら、恥ずかしい過去だとか、怖い思いをしたから思い出したくないだとかあるだろう。だけど普段の過去の話に触れた際に表れる態度はそういったものではなく、どことなく割り切ったような、諦観したような、触れてほしくないというより興味がないような態度だった。それは交流の中で培ったエジェオへの観察眼ゆえとも言える目利きである。
この直感と憶測は、浅葱にとっては短い日々の中での経験から来るものだ。
「まあ、そういう理由で神様というものはいると断言できるし、碌なもんじゃないと思っているわけだ」と浅葱から視線を外し語るエジェオに、浅葱は俯き黙して考える。
ふと、浮かんだ理由を口にした。
「今話したこと以外に、その出来事で何か後悔してることがある……?」
浅葱は視線をエジェオに戻す。エジェオは苦虫を噛んだような表情で浅葱を見て、食事の時から二度目の溜息を吐いた。
「君は変に勘がいい時と、勘づかなくていい時があるな」
「あ、えっと、ごめん。誤魔化したってことは話したくないことだろうからいい。今日はこれを飲んで寝るよ」
マグカップに入っている砂糖なしのカフェオレを一気に飲み干し、浅葱は逃げるようにリビングを出ようとする。その背中に、エジェオが声を投げかけた。
「話せるようになったら話す。今日はゆっくり休んでくれ。おやすみ」
その声は落ち込んだような声色で、浅葱は自分の不用意な発言を後悔した。
「分かった。おやすみ、エジェオ」
リビングを去って冷えた廊下に出る。外はしんしんと雪が降っていた。
浅葱の目が覚めたとき、時間は午前五時半を過ぎていた。頭が冴えて二度寝するにしても寝付けなさそうだとベッドから起き上がりベッド傍の窓のカーテンを開ける。部屋の窓から見える庭はガーデンライトに照らされていたが雪が積もった形跡はなく、夜中に雪はやんでいたようだった。灯りは庭のものだけで、遠くまでは真っ暗で何も見えない。日の光を浴びないと起きた気がしないな、なんて思いながら少しだるい体を活動させるためにロングカーディガンを着てリビングに向かった。朝は毎日コーヒーを飲むのがこの屋敷に来てからの、浅葱の日課になっていた。
リビングに入ると、ちょうど暖炉の火を鎮火させていたエジェオと顔を合わせる。
「あ、おはよう、エジェオ」
「おはよう浅葱。今日はいつもより早いな」
「頭が冴えちゃってさ。エジェオは寝るところだよな」
「ああ。……今日も浜辺に行くのか」
心配そうなエジェオの表情に良心が痛くなりながらも浅葱は「そのつもり。夢も気になるし、納得いくまで絵を描きたくて」と返す。エジェオはやや苦い顔をしながらも「そうか」と引き留めなかった。代わりに「この子を連れて行ってくれ」と、エジェオは輪郭を一瞬揺らし、自分の体からちいさな蝙蝠を生み出した。
「その子は?」
「私の分身……子機みたいなものだ。これは日に当たっても消えたりしないけれど、その分私にダメージが来るから極力日に当てないでくれ」
手のひらに収まる子蝙蝠を受け取り、カーディガンのポケットに収めた。
「コーヒー、寝る前に飲む?」
「そうしようかな。お湯を沸かしてくれ、私は豆を挽くから」
二人分のコーヒーを淹れて、エジェオは寝るために寝室へ、浅葱は朝食の準備でキッチンに残った。朝御飯はいつもトースト一枚とマーガリン、インスタントスープを用意している。今朝は昨夜の残ったミネストローネがスープ代わりだ。先ほど淹れたコーヒーに牛乳を入れて、いつも通りの朝を迎えた。そのころにはやっと体が起き始めて、活動する意欲が湧いていた。
朝御飯を食べ終え部屋に戻る。まだ外は暗いが、完全に目覚めたために昨日描いた絵を元にアクリル絵の具でキャンパスに描こうと行動に移す。カーディガンを脱ぐ際にまだ寝ている子蝙蝠をポケットから出し、潰さないようにベッドに寝かせた。絵具で汚れてもいいジャージの上下に着替え、絵画作成用のエプロンを身に着け自室と隣接しているアトリエにスマートフォンを持って入る。少し考え、自室とアトリエを繋ぐ扉は開けっ放しにしておいた。
このアトリエは、エジェオ曰く浅葱を知る前から画家用の部屋としてリフォームしたらしい。水道と換気扇、開閉可能な鍵付きの窓、道具をしまうための大小さまざまな棚。その他諸々備え付けてある。
何をきっかけかは教えてもらっていないが、エジェオは画家のパトロンになり面倒を見たいと浅葱は初めて会ったとき告げられた。何十人の画家に夜中いきなり押しかけ、勧誘していたのだが大抵は断られたそうだ。正直浅葱としてはその画家がどんな思いだったのかは想像に難くなかった。誰だって夜中いきなり現れて、支援者になるから一緒に屋敷に住んでくれと言われてすぐにはいと頷く人はいないだろう。いたらよほど金に飢えてるか、変人か。断られた話を聞いて、そりゃそうだろうなあと思っていたが「大抵」というのだから少数の割合でよほど金に困っている画家がいたらしい。それもエジェオと共に暮らし始めて、エジェオの特殊な吸血行為にドン引きして逃げられたんだそう。
では今現在共に暮らしている浅葱はどうなのかと言えば、他人から見れば、金に困っていて、変人で、夢見がちで、物怖じしない性格なのがエジェオの提案と相性が良かった。本人は周りからおかしいだとか、変だとか言われることはある。昔はコンプレックスになり真人間になろうとしていたが、今ではその努力をすることが空しいと感じその分やりたいことをやり、こんな人間も何者かになれるのだと証明することに勤しんだ。勿論労力や努力はやりたいこと、絵を描くことに注力した。生活に関わらないことでやりたくなければやらなかった。
エジェオの特殊な吸血行動に対しても浅葱は特に抵抗はなかった。それはエジェオの個性を否定することになると自然に思えたからだ。自分がされて嫌なことはしないのも浅葱の性格の一部である。
アトリエに備え付けられた水道から筆洗い用の容器に水をため、四号Fサイズのキャンパスにジェッソを塗って角度のついた台座に置き、キャンバスを前に精神統一をする。瞼を閉じ、深呼吸。
描きたいものを思い浮かべる。ずっと頭から離れられない、あの光景を。
日が差し込み部屋の明るさが増す。すっと瞼を開き、浅葱は筆を取った。
無心に描き続けて、程よい疲労感を感じ息を吐く。筆を水洗いの容器の中に入れて、エプロンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。時刻は十時四十分を過ぎていた。最後に時計を見たときは七時前だったから三時間以上は絵と向き合っていたらしい。
現在出来上がった絵は、青空に灰色がかった雲が重なり、どこまでも続くその空の果てに島の影が見え、全体的に薄暗い景色に白い龍が光が差し込んだ隙間に水しぶきを上げ昇っている。浜で描いたスケッチよりも色が付いているからか思ったよりも浅葱に満足感があった。あったのだが、まだこれでも納得がいかない。
「んー……何が悪いんだろうな。描き方かな。道具変えてみるか、絵具をハードタイプに変えてみるか……」
そうはいうものの、描きあがったばかりで精神的にも体力的にも消耗気味の今に、すぐ試すほど活力はない。少し早いが昼御飯がてら休んで、もう一度あの海を見に行こうと気分を変える。
エプロンを外しながらベッドを見ると今起きたのか、子蝙蝠が欠伸をして瞼を開いたり閉じたりしていた。
「えーっと、お昼御飯どうする?」
エジェオの分身ということで食欲があるのかと確認を取ると、子蝙蝠は真っ直ぐ浅葱を見た。そして。
「このすがたのときは、かるくちをのませてもらえればいい」
とエジェオより高く、幼い声で返事をした。
「喋るんだねぇ……」
「あくまでこきだからな。おおもとのわたしがねむっているあいだは、いしきはこちらにあるから、きおくもきょうゆうされるぞ」
「便利ぃ」
子蝙蝠、改め子機をジャージの上着のポケットに入れて、キッチンに足を向けた。
本日二度目の冷蔵庫の食材確認をして、気分的に甘い卵が食べたいなと思い卵を二つ取り出す。作るとして卵焼き、他に何かつけるとしたらおなかに溜まるもの。ある程度蓄えている食材を見て、前にネットニュースで見かけた卵焼きとパンで作るたまごサンドを思い出す。スマートフォンを取り出し、浅葱はネットで作り方を探す。幸いネットの海には多くの作り方が乗っており、屋敷にある調理器具を鑑みて卵焼き用のフライパンを使って作る方法を取ることにした。
ボウルに卵二個と、砂糖、醤油をよく混ぜる。白身と黄身を切る様に混ぜたら、油を広げた卵焼き用の四角いフライパンに四回分に分けて卵液を注いでは焼き、巻き、注いでは焼き、と繰り返す。四回目の卵液で形を整えながら焼き上げ、皿に上げて粗熱と取る。最初に用意していた食パンを広げ、ソース用にマヨネーズとからしを混ぜる。ソースを食パン二枚の片面だけに塗り、卵焼きを二枚に挟みラップで包んだうえで重しを乗せて馴染ませる。五分ほど置いて半分に切って、昼御飯の出来上がりである。
皿に盛り付け、飲み物は牛乳を用意する。食卓に移動し、手を合わせ食事をいただく。甘い卵焼きは浅葱の好みであり、エジェオは出し巻きの方に馴染みがある。料理はエジェオ主導で作られるので、作られる料理のジャンルはエジェオの好みだ。それでも浅葱を優先して和食が多めであるが、基本味付けは自然とエジェオの舌に合ったものになる。ただ、卵焼きだけは浅葱の好みの味付けなのだ。たまごサンドの甘い味付けを味わいながら浅葱は、やっぱりエジェオが作った卵焼きの方が好きだなぁ、なんてエジェオの作る卵焼きになれた舌で考えていた。からしの効いたマヨネーズもいいアクセントになり、味に深みが増して美味しいのだが、これもエジェオが作ったらまた違う味なんだろうなとも感じいる。
「あさぎ、わたしにちをもらえるか」
「ん? うん、大丈夫だよ。はい」
ポケットの中から顔を出す子機に指を差し出す。子機は浅葱の人差し指にしがみ付き、指の第二関節の少し先を噛み付いた。かすかにちくりとするだけで思うほど痛みはない。小さな吸引力を感じたがそれは十秒にも満たない。すぐに子機は口を離した。
「ありがとう。これからは、はなしていたはまべに?」
「うん、少し休憩してからね。昨日のこともあったからカイロ出すかなぁ。エジェオはポケットでいい?」
「あさぎのまいたまふらーのなかにいれてもらえれば。ひかりがあたらないように、かぶせてね」
「はいよ」
そうして三十分の休憩と着替えを挟み、十二時あたりで浅葱は子機をマフラーで隠しながら屋敷を出た。
三度目の浜辺はもはや見慣れたものだった。違いと言えば一昨日、昨日と違い空が晴れ渡っていることだろう。こうも晴れているとより遠くの水平線まで見える。ぼんやりとしていた島の輪郭もはっきりと視認することができた。風がなく穏やかで暖かな日和だった。
いつもの場所に陣取り、画材鞄からスケッチブックと鉛筆と、今回は色鉛筆も持ってきた。薄い鉛筆で輪郭と大まかなアタリをつけてねり消しで消しながら色鉛筆で色を重ねる。
深呼吸をする。今になってやっと、ずっと嗅ぎたかった潮の香りが鼻に届いた。
黙々と描き続けて、浅葱はふと気配を感じて振り返った。そこには、後ろから浅葱の絵を覗き込んで眺める青年が立っていた。
白い髪、童顔に青い目、白い袴に浅葱色の襟巻をした、冬が人になったかのような青年だった。
「……こんにちは?」
「こんにちは。絵、描いてんの?」
青年の声は見た目よりも低い。浅葱には昨日帰り際に聞いた声と似ている気がしていた。
「そうです。おにいさんは?」
「ここら辺見回っていたら、昨日見かけたアンタがいたからね。なにしてんのかなって」
「隣いい?」と青年が訊ねてくるのを浅葱は少し横にずれてどうぞと譲る。浅葱は青年を窺うように横目で様子を見ていたが、何をするわけでもなく海を眺める青年に止めていた色鉛筆の手を進めた。青年は浅葱が描き出すところを見てまた覗き込む。
「面白いですか」
「俺にはできないから興味深い」
そこで会話は一旦途切れる。浅葱も特に取っ掛かりが見つからない返答だったので何も返さずにいると、青年は続けた。
「昔、友人がいたんだよね。絵が好きな、綺麗な銀髪のやつ。絵を描いてる人見たり、絵画そのものを見ると、そいつ思い出すんだ」
「その方とは今はもう交流してないんですか」
「俺から何も言わず離れちゃってそれっきり。まあ離れたって言っても意図的にじゃなくて、不可抗力なんだけどさ」
「俺も絵になれば、あいつに会えたのかなぁ」と悲しげな、諦めたかのような口調と声に思わず浅葱は顔を上げて彼を見た。彼の短く綺麗な白髪が柔らかく吹く風に揺られ太陽を反射し水面のように光った。
「ところで、アンタここら辺の人じゃないだろ。どこから来たんだよ」
「五駅前のところから電車で」
「遠いじゃん。なんでこんなところまで。海以外何もない場所だよ?」
「なんで、と言われたら、明確な理由はないんですけど」
浅葱は困ったように視線を下げる。そのまま、風吹く海に目線を移し浅く息を吸って、深く息を吐いて告げた。
「望郷の念に駆られて、ですかね」
「ふーん。そこも海があって、龍神がいるの」
「龍踊とかお祭りで出てきますよ。場所によっては龍の伝説もあったかなぁ」
「……そっか。なる、ほど、ねっ」
遠くを見る浅葱の表情のどこか嬉しそうなところに、青年は一人納得したように声を上げ、立ち上がった。浅葱もそれを目で追う。
「ここ、近くにワダツミ神社があるからお参りするといいよ。あと、明日の初日の出。ここに見に来たらいいもの見れるよ」
「それじゃあね」と青年は浅葱に背を向け手を振り去っていく。それを見送り、浅葱は独り言のように「龍神らしき人に会う。そういうこともあるよねぇ」と呟くとそれに返事をするかのようにマフラーに隠れていた子機のエジェオが幼い声で「いや、ないだろう」と口にした。
ある程度描いたところで、時間は午後の二時五十分ごろ。画材を仕舞い、首を回したり肩を回したり、背伸びをしたりとストレッチをした後。浅葱は青年が言った海神の神社が気になっていた。
浅葱の地元にも離島だが海神神社がある。それは豊玉姫を主神として祭っているものだが、浅葱にはそれとは別だと予感していた。恐らくは、あの白龍を祀る神社であり、あの白い青年の住処なのだろう。
スマートフォンの地図アプリで近くの神社を調べてみると該当する神社を見つける。表記は和田津御神社となっており、歩いて十分ほど先、青年が去っていったのと同じ方向にあった。
神社は海沿いの道から少し外れた場所にある。この三日間浅葱はこの浜辺に来るために近くの道は歩いたが、雑木林の中で手前は小さな公園と障害物で遮られている中にあったので気が付かなった。
公園を迂回して雑木林に沿って神社の階段前にいく。端に寄って鳥居をくぐると後ろから背を押すように風が吹いた。押されるがままに歩く。
手水舎で手と口を清め、境内前にお参りをする。マフラーの中で子機がもぞもぞと動き、ぴょこりと顔を出した。
「りっぱなじんじゃだな」
お参りの手を解き、浅葱も本殿を見上げる。
白龍を祀る本殿は年季が入った古くも手入れが行き届いた場所で、隔たれて戸にはめられたガラス越しでも厳かな雰囲気が伝わる。先ほどの手水舎も綺麗な水に細かなところまで掃除がされているのがよくわかった。そもそも神社の全体の敷地や建物自体が大きいのだ。
「そうだね。参拝客も多く来るのかな」
「お兄さん、ちょっとそこいいかしら」
年老いた女性の声が背後からかけられ、浅葱は振り返る。そこには背の低いやや腰の曲がったおばあさんが杖を突いて立っていた。そこでやっと浅葱は自分が境内の前に立ち尽くし、お参りの邪魔になっていることに気付く。すぐに謝りながら本殿脇に移動した。服の上から左腕を掻き、行き場のない視線を神社の敷地内にさ迷わせていると「お兄さん」とお参りを終えたおばあさんから声をかけられた。
「お兄さん、この神社は初めてなの?」
「はい。さっきここを教えてもらって。立派な神社ですね」
「そうでしょう。分祠じゃないのに、同じくらいの大きな神社に比べて建造されてから長いのよ」
どこか自慢げなおばあさんに、浅葱は聞き手にまわり話を引き出す。
「どれくらい経っているんでしょうか」
「確か二百年前くらいに建てられたらしいわ。他の、出雲大社くらい大きな神社に比べたら短いかもしれないけれど、氏神様でもないのにこの大きさでそれだけ長いのは珍しいんじゃないかしら……」
「なるほど。でも二百年はおれたちからすれば十分長いですよね。なにか建てられた経緯とかはご存じですか」
「ああ、えっと……」とおばあさんは考え始め、「年のせいか忘れっぽくていやね。確か手水舎近くに制札があって由緒が書かれてたと思うわ」と押してくれた。浅葱はおばあさんにお礼と頭を下げて制札の元に向かう。
制札には細かな文字でこの神社が建てられた経緯が書かれていた。
曰く、昔ここは漁業が盛んにおこなわれていた浜辺だったらしい。魚はよく捕まり、波もそう荒ぶることはなく、村の生命線だったそうだ。
ある時沖に出た漁師が海に人を見つけた。死体かと思ったそれは、まだ息をしていて漁師たちで引き上げたそう。
拾われたのは白い髪に青い目の青年だった。幼い顔立ちの青年は村でよく働いた。特に素潜りが得意らしく、一度潜ればなかなか上がってこず、上がってきたと思えば網に大量のアワビやサザエやウニを入れて来たらしい。
そうやって青年が村に馴染んできたころ、大地震が起きた。なにが起きたか分からない村人たちを海から離れさせ、一番高い丘へ向かわせた青年はひとり静かすぎる海に飛び込んだ。そのすぐ後に村人たちは遠くの水平線から迫りくる波を見た。どう見積もっても自分たちの村が流されるくらいの大波を。
泣き出すものがいた、声にならず呆然とするものもいた、ただただ終わりを見守るものいた。けれども村は流されなかった。それは大波の音よりももっと大きく、腹に響く波を白く立派な龍が立てたからだった。大波は龍の立てた波に勢いを消され、村に届いてもただ地面を濡らすだけのものとなった。
龍は波が収まるまで海から出たり入ったりを繰り返し、もう脅威はないと判断したらしいあとはそのまま海の中に潜っていった。
その後、青年は帰ってくることはなかった。
白龍の助けに畏敬の念を示し、村人たちは村長を代表とし海辺の近くに神社を作ったそうだ。
その白龍の名前は「白嶺瀧」と書かれていた。
「しらみね、たき」エジェオが口に出して読む。
浅葱は「とりあえず」とワンクッション挟んで訊ねた。
「どうする、エジェオ。明日の元旦にまた来てみる?」
「あ、ああ。おすすめされたしな。それに……」
またもエジェオは言い淀む。今回は言いかけた言葉に、もともとは何か伝えたい意思があったと判断して浅葱は「なぁに。何か言いたいことあるんだね?」と先を促した。子機のエジェオは言葉を選ぶように「ああ」とか「えっと」と口にして小さな口で話した。
「むかしのきおくだからさだかではないが……きのうはなした、ゆうじんににているきがして。かれににているそんざいからのことばなら、ききたいとおもったんだ」
「なるほどね。じゃあ行かないとだ」
浅葱はマフラーの位置を整え、子機を隠すと神社から出て行った。ついでに帰り道で子機から頼まれ晩御飯の食材を買っていくのだった。
「浅葱、浅葱」
エジェオの呼びかけに目を開ける。間接照明の灯りに照らされた彼の顔が眼前に広がり、何故起こされたのかしばし分からなかった。が、エジェオの「余裕持って準備しないと遅れるぞ」の言葉にやっと今が初日の出を見に行く時間なのだと分かった。
昨夜の浅葱とエジェオは夕食に年越し蕎麦を食べ、テレビのない屋敷ではラジオを流しながら年を越すのを待っていた。蕎麦を食べたのは二十時くらいだったが時間が経つにつれ意外とお腹が空くもので。常備しているクラッカーを使ったおつまみで、アボカドとサーモンのクリーム乗せやポテトサラダやクリームチーズそのものを乗せたりつけたりしたものをエジェオは出した。エジェオは赤ワインを飲み、浅葱はチューハイを飲んでいたが酒に弱い浅葱はすぐにリビングで眠ってしまった。そして目が覚めた今現在の場所もリビングである。
「おはよう、エジェオ。今何時……」
「おはよう。五時。調べたら、あの浜辺の辺りは大体六時四十五分くらいって書いてあった。電車で一時間くらいだろう。そろそろ起きよう」
「ああ、うん……え?」
目の前で準備するエジェオに浅葱は疑問を抱く。初日の出なのだからまた今日もエジェオは子機で行くものだと思っていたが、本人はしっかりコートを着てマフラーを着け、外出態勢でいる。
「エジェオ、子機じゃないの?」
「初日の出だけだろう? すぐに帰るならこの体でもなんとかなる」
「いやでも電車で一時間だよ? 日にはだいぶ当たるだろ」
「肌を出さなければ直射よりは大丈夫だ」
「……おまえがそういうなら、そういうことにするけども」
エジェオは浅葱に話しながらも手袋をつけたり、つばの広い帽子を選んだりしている。エジェオが何を理由として本体である人の姿で見に行こうとするのかは分からなかったが、エジェオが神社で言っていた「友人に似ている」という話を鑑みて、本来の自分で会いに行きたいのかもしれないと、なんとなくではありながらも納得した。
浅葱は変わらず防寒具を身に着け、エジェオはマフラー、手袋、コートにつば広の黒い帽子とマスクを身に着けて屋敷を出た。エジェオは日の光を直視しないようにポケットにサングラスを用意して。
電車に乗って例の浜辺へ足を運ぶ。始発の電車はガラガラで、浅葱たちの住んでいる地域から和田津御神社付近の初日の出を拝む者はいないようだった。浅葱としても、普通に考えればわざわざ五駅先の場所に一時間かけて行くよりかは近くで済ませるだろうと考えつく。行けば浜辺近くのご近所さんが見に来ているかもしれない。
目的の駅に降り立ち、浜辺を目指す。空は白み出しており日の出はもうすぐといったところだった。二人は足早に海に向かう。途中で和田津御神社の近くを通れば初詣で来ている住人たちをちらほらと見かけた。日の出を拝もうと浜辺へ歩いていく人もいた。
着いた先の浜辺では老若男女の住人たちがちらほらと拝みに来ている。空の明るさも増し、あと少しで日が昇るというところだ。
「エジェオ、サングラス」
「もう着けてる」
空はやや雲が出てはいるが日の出を見るには十分というほどに晴れていた。星の灯りもほとんど消えており、水平線とは逆側では月が白んでいた。
白い息を吐き、もうすぐか、と。青年の言っていたいいものとはなんだろう、と。何かを期待してきたわけではないが、何が見れるのかは気になるというのも浅葱の本音だった。
途端、一陣の強風が吹く。浅葱もエジェオも風の冷たさと強さに一瞬目を閉じる。浅葱には覚えがあった。初めてここに来た時と同じ風だと。思わず空を見上げる。
空には雲に大穴が空き、白い空が穴越しに見えた。初日の出の太陽が昇り始め、ちかりと光が目を差す。その時、鯨のような鳴き声があたりに轟いた。
どっ、という轟音を伴い、大きく立派な白龍が海に、一直線に飛び込んだ。
浅葱は初めて、龍の顔を見た。夢で見たあの龍の顔であり、精悍な顔つきだった。
白龍はけたたましく海面に水しぶきを上げ、海へと潜り込んでいった。離れた浜辺からも聞こえるほどにどぼん、と最後の尾を海に沈めると何事もなかったように、波立っていた海は静かになった。
浅葱はただ茫然とそれを眺めていた。それを背中を叩いてエジェオが現実に戻す。
「……エジェオ、見た?」
「ああ、見た。でもどうやら私たちだけらしい」
エジェオの言葉に浅葱は周りを見る。日の出を見に来た人たちは特に声を上げることもなく、日の出を見ている。それだけなら、毎年の出来事のように見慣れているのかもしれなかったが、見に来ていた子供たちが海に何の関心も抱いておらず、その子どもに対して親も何も言わないことに違和感があった。浜辺に出ている人たちもあれだけ波立っていたというのに何も気にしていない。
「まあなんだ、つまりはあれだな」と、エジェオ。
「私たちは、彼ないしあの白龍とは何かしらの縁があったってことだな」
「縁かぁ。エジェオとは何の縁?」
何の気は無しに浅葱は聞いてみた。エジェオは日が昇る水平線を眺めながら答えた。
「……いなくなった、友人とのかな」
それから、「やっぱり日に当たると痛い。浅葱はどうする」と聞いたエジェオを一も二もなく自宅へ連れ帰った。いつもは自分の方が危ういせいでエジェオから注意されるのに、変だなぁとひっそりと笑いながら、浅葱はエジェオの手を取っていた。
帰ってからは、まずは焼けたエジェオの手当と濡れタオルで火傷した部分を冷やし、日も出てきて、エジェオも種族としてなってしまった昼夜逆転の生活に引っ張られベッドに潜った。
浅葱はいつも通りの朝御飯を食べたあと作業用のジャージとエプロンに着替えてアトリエに引っ込んだ。目的はこの三日間と変わらずあの龍の絵を描くためだ。
浅葱と白龍に縁ができたのは、たまたまなのか、浅葱の郷愁の念が白龍を呼んだのか。もしくは絵を描く人間と認識して、浅葱を通して白龍のいう友人に自分を見つけてもらうために姿を現したのかもしれない。夢に現れて描いてほしいと言われれば、これはもう依頼の域だ。お金は発生しないが、浅葱には仕事の認識とは別に、使命感もあった。
透明水彩は淡すぎる気がしていて避けていたが、不透明水彩と一緒に使って描くのはいい塩梅になるかもしれないと、浅葱は画材を手に取り思う。木版にマスキングテープで水彩紙を張り、水張りをする。
描きたいもの、描きたい光景は浅葱にはもう浮かんでいた。
朝日を背負い海に飛び込む白龍は、どんなものよりも美しいだろう。完成した絵で青年が再会したい友人に出会えるか分からない。もしかしたら人違いだってあるかもしれない。だけれど、もし浅葱に託すことが確かな縁ならば、あるかもしれない。
浅葱は筆を手に取る。
迷いはなかった。




