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第7.5話:残された胞子と、母の勘違い

チュン、チュン……。  小鳥のさえずりが聞こえる。  カーテンの隙間から、雨上がりの柔らかな朝日が差し込んでいる。


「……ん……」


 神木かみきは、重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。  頭痛は……ない。  喉の痛みも……消えている。  体も軽い。昨日の高熱が嘘のように、すっきりと目覚めた。


「……治った……のか?」


 神木はベッドの上で上半身を起こした。  素晴らしい。健康であることの喜びをこれほど噛み締めた朝はない。  だが、その喜びも束の間。  彼はすぐに、自分の部屋の「異変」に気づいた。


 まず、臭い。  爽やかな朝の空気に混じって、濃厚な「土」の匂いが漂っている。雨上がりの森の奥深く、腐葉土を掘り返した時のような、あの独特の湿った匂いだ。  そして、枕元。  サイドテーブルには、黒いドロドロがこびりついた空のどんぶりと、祭壇のように積み上げられた空のタッパー。  さらに、自分の首元には――。


「……なんだこれ」


 包帯でグルグル巻きにされた、しんなりとした白い物体。  乾燥してカピカピになった、巨大なエノキタケの残骸だった。


「……夢じゃなかった……」


 神木は絶望と共に天を仰いだ。  昨晩の悪夢。  ドブ色のスープを無理やり飲まされたこと。  額に巨大な冷たいキクラゲを貼られたこと。  そして、菌田きんだきのこが、恍惚とした表情で「先輩と一つになりたい」と囁いていたこと。  全て現実リアルだったのだ。


 ガチャリ。  ドアが開き、エプロン姿の母が入ってきた。


「あら、おはよう。目が覚めた?」


 母の手には、お盆に乗った「普通のおかゆ」と「りんご」がある。  神木は救世主を見るような目で母を見た。 「母さん……! おはよう……!」 「顔色、随分良くなったわねえ。熱も下がったみたいだし、安心したわ」  母はベッドサイドに朝食を置きながら、ニコニコと微笑んだ。 「やっぱり、あの子のおかげね」 「……え?」 「菌田さんよ。あの子、本当に献身的ねえ。昨日、あなたが寝てからも、ずっとつきっきりで看病してくれたのよ」


 神木の背筋に悪寒が走った。 「つ、つきっきり……? 俺が寝てる間、あいつ何してたの?」 「何って、こまめに『保湿』してくれてたわよ。霧吹きでシュッシュッてお顔に水をかけたり、お部屋の加湿器をMAXにしたり……『湿度が命ですから』って」 「俺をキノコとして栽培してただけだろそれ!!」


 神木は叫んだが、母には届かない。  母は、サイドテーブルの空になった黒い丼を手に取り、感心したように言った。 「それに、この特製スープ。最初は『あら、イカ墨かしら?』って驚いたけど、あの子ったら『漢方です』って。あなたが残さず食べたって聞いて、お母さん感激しちゃった」 「無理やり流し込まれたんだよ! 拷問だったんだよ!」 「まあ、照れちゃって。あんなに栄養満点なものを作れるなんて、家庭的でいいお嬢さんじゃない」


 ダメだ。完全に籠絡ろうらくされている。  菌田きのこの、あの不思議な愛嬌と、押し出しの強さに、母はすっかり「菌田派」に取り込まれてしまっている。


「母さん、騙されないで。あの子、俺の首にエノキを巻いたんだよ? 見てよこれ」  神木は首元の包帯を解き、干からびたエノキタケを母に見せた。 「普通じゃないだろ!?」


「あらあら、民間療法ね。昔の知恵かしら? 勉強熱心ねえ」  母は全く動じない。それどころか、神木の首筋を見て「あら?」と声を上げた。 「あなた、その首……」 「え?」  神木は慌てて鏡を見た。  そこには――エノキタケが接触していた部分が、くっきりと赤くかぶれ、まるでキスマークのような赤い斑点が無数に残っていた。


「……っ!!?」  神木は悲鳴を上げた。 「かぶれてる! エノキ毒だ! 菌に侵食されたんだ!!」


 しかし、母は口元に手を当て、生温かい目になった。 「まあ……若いっていいわねえ」 「違う! 違うよ母さん! これはキノコのかぶれ!!」 「はいはい、わかってますよ。看病のつもりが、つい情熱的になっちゃったのね。お母さん、ノックしてから入るようにするわね」 「誤解だぁぁぁ!! 冤罪だぁぁぁ!!」


 神木は頭を抱えた。  体調は回復した。ウイルスには勝った。  だが、もっと恐ろしいものに負けた気がする。  家庭内での信頼、そして母という最後の砦が、菌田きのこの「胞子」によって陥落してしまったのだ。


「あ、そうそう。菌田さん、帰りに言ってたわよ」  母がドアのところで振り返る。 「『先輩のお部屋、日当たりが良すぎるので、次は遮光カーテンを持ってきますね。暗闇の方が菌糸が伸びますから』って」 「出入り禁止にしてくれ!!頼むから!!」


 神木の絶叫は、爽やかな秋晴れの空に虚しく吸い込まれていった。  彼の部屋には、まだ微かに、昨晩の「暗黒のおかゆ」の土臭い香りが残っていた。

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