第6話:林間学校、夜の森は光る粘液のトラップ!
山の日没は早い。 太陽が稜線の向こうに沈むと、世界は急速に色彩を失い、濃密な闇へと沈んでいく。 昼間の熱気が冷やされ、地面から白い霧が立ち上る。 湿度98%。 私たち菌類(と、それを愛する者)にとって、真の活動時間はここから始まる。
林間学校のメインイベント、「肝試し」。 生徒たちは恐怖に震えながら出発の時を待っているが、私、菌田きのこは一人、森の奥深くにある第3チェックポイント「朽ちた祠」の前で、武者震いならぬ「胞子震い」をしていた。
「ふふふ……条件は整ったわ」
私は足元のバスケットを開いた。 中に入っているのは、タッパーいっぱいに培養された、エメラルドグリーンに発光するゼリー状の物体。 『ヤコウタケ(夜光茸)』の培養ジェルだ。 ヤコウタケは、ルシフェリンとルシフェラーゼという物質の化学反応によって、暗闇の中で鮮やかな緑色の光を放つ。その美しさは「森の宝石」「グリーン・ペペ」とも称されるほどだ。 私はこの発光成分を抽出し、ナメコの多糖類と混ぜ合わせ、肌に塗れる特製ローションを作り上げたのだ。
「前回の『匂い(スッポンタケ)』作戦は、少し刺激が強すぎたわね。でも、今回は違う。視覚に訴える『光』の芸術よ」
私はタッパーに手を突っ込んだ。 ひやり、とした冷たい感触。糸を引く粘り気。 私はそのスライムを掬い上げ、まずは自分の頬に塗った。次いで腕、足、そして幽霊役の衣装である白いワンピースの上から丹念に塗りたくっていく。
「見て……私の体が、蛍のように輝きだしたわ」
暗闇の中で、私の体はボワァ……と不気味な緑色の光を放ち始めた。 鏡はないが、きっと今の私は、森に舞い降りたティンカーベルか、月夜に輝くかぐや姫のように美しいはずだ。 暗闇恐怖症の神木先輩は、この光を見てどう思うだろうか。 きっと、闇夜の灯台を見つけた船乗りような安堵感を覚え、私に抱きついてくるに違いない。
「さあ、おいでなさい先輩。私の光合成できない愛の光で、貴方を導いてあげる……」
◇
午後8時。 肝試しがスタートした。 森の入り口からは、時折女子生徒の「キャー!」という黄色い悲鳴や、男子の「うおっ、マジでビビった!」という声が微かに聞こえてくる。
ザッ、ザッ、ザッ……。 枯れ葉を踏む足音が近づいてくる。 私の「マイコ・センサー」が反応した。この足取りの頼りなさ、怯えきった呼吸のリズム。間違いない、神木先輩だ。 先輩は、同じD班の友人・佐藤くんとペアを組んで歩いているようだ。懐中電灯の光が、落ち着きなくあちこちを照らしている。
「……おい神木、なんかここ、空気重くないか?」 「うん……すごい湿気だね。それに、なんかまだ昼間のあの……変な匂いがする気がする……」 先輩が鼻をひくつかせている。 おや、さすが先輩。私の残り香を感知しているのね。マーキングの効果は持続しているようだ。
「怖いなぁ……。なんか出そうだよ……」 「大丈夫だって。お化け役なんてどうせクラスの女子だろ? わっ!って脅かしてくるだけだよ」 佐藤くんが強がっているが、その声も震えている。
甘いわね、佐藤くん。 私が提供するのは、そんな生温いアトラクションじゃない。 生物学的神秘体験よ。
二人が祠の前に差し掛かった、その瞬間。 私は木陰から、ゆらりと姿を現した。 「わっ!」なんて野暮なことは言わない。 ただ静かに、発光する存在としてそこに佇むのだ。
「……神木……先輩……」
湿気をたっぷり含んだ声で、名を呼ぶ。
二人の足が止まった。 懐中電灯の光が私に向けられるよりも早く、私の全身から放たれる緑色の燐光が、彼らの網膜を焼いた。
「……ひッ……!?」 先輩が息を呑む音が聞こえた。 暗黒の森の中、ボーッと浮かび上がる人型。 それは不定形で、表面がヌラヌラと波打ち、滴り落ちる粘液が地面に新たな光のシミを作っている。
「……こっちへ……いらっしゃい……。怖くないわ……」
私は両手を広げ、ゆっくりと近づいた。 愛を受け入れて。私の光に包まれて。
しかし。 先輩の口から漏れたのは、愛の言葉ではなかった。
「う、うわああああああ!!!」 魂が抜けるような絶叫だった。 「な、なんだあれ!!? 人!? いや、溶けてる!! 人がドロドロに溶けて光ってるぞ!!」 「ヒィィィ! 放射能だ! バイオハザードだ!! 未知のウイルス漏れだぁぁ!!」
佐藤くんも腰を抜かし、尻もちをつきながら後ずさる。 「ち、違う! あれは『祟り神』だ! この山で死んだ人の怨念が、ヘドロになって具現化したんだ!!」
……失礼しちゃうわね。 誰がヘドロよ。これは純度100%の多糖類とルシフェリンの結晶よ。 それに、放射能じゃないわ。冷光よ。理科で習わなかったの?
「違います……先輩……私です……菌田です……」 誤解を解かなければ。 私は一歩踏み出した。 その拍子に、頭に乗せていたベニテングタケの髪飾りがズルリと滑り落ち、光る糸を引いて首元にぶら下がった。 その様子は、まるで自分の首が落ちてぶら下がっているように見えたかもしれない。
「ひいいいい!! 首が!! 首がもげたぁぁぁ!!」 「来るな!! 来るなぁぁぁ!! 溶かされる!!」
二人はパニック状態に陥り、互いに突き飛ばし合いながら、来た道を猛ダッシュで逃げ出した。 懐中電灯を放り投げ、獣道を転がるようにして逃げていく。
「あっ、待ってください先輩! 誤解です! これは求愛行動です!」
私は追いかけた。 夜の森を、緑色に発光する女が、全力疾走で男子高生を追い回す。 木々の枝が体に当たり、粘液が飛び散って、通過したあとの草木が点々と光り輝く。まるでナメクジの這った跡のように。
◇
だが、悲劇(喜劇)はこれだけでは終わらなかった。 私は一つ、重大な生物学的法則を忘れていたのだ。 それは「走光性」。 夜行性の昆虫たちは、光に向かって集まる習性がある、ということを。
私が森を疾走し、強烈な光を撒き散らしていると、周囲の闇がざわめき始めた。 ブブブ……バサバサ……。 羽音が聞こえる。 一匹や二匹ではない。何百、何千という羽音だ。
「……ん?」 何かが私の頬にペタリと張り付いた。 手で触ると、粉っぽい感触。大きな蛾だ。 「きゃっ!?」 払いのけようとした瞬間、視界が黒い点々で覆われた。 ガ、甲虫、カメムシ、羽アリ……。 森中の虫たちが、「うおっ、すげえ明るい街灯が走ってるぞ!」「集まれー!」とばかりに、私を目指して突撃してきたのだ!
「いやぁぁぁ! ちょっと、寄生しないで! 私は宿主じゃないわよ!」
私は手足をバタつかせたが、全身に塗ったナメコの粘液が接着剤となり、虫たちは一度止まると離れない。 私の体はみるみるうちに、光る粘液と、無数の虫たちでコーティングされていく。 動く「ハエ取り紙」。いや、発光する「誘蛾灯」そのものだ。
「先輩! 助けて! 虫が! 虫がぁぁ!」
私は助けを求めて、さらにスピードを上げた。 前方で逃げていた神木先輩が、私の悲鳴を聞いてチラリと振り返る。 そして、見てしまった。 緑色にボウッと光り輝く不定形の怪物が、全身に無数の虫を纏い、羽音を轟かせながら襲いかかってくる姿を。
「うわあああああ!! 進化してる!! 虫を取り込んで巨大化してるぞぉぉぉ!!」 「神木!! 振り返るな!! 食われるぞ!!」
先輩たちの逃走速度が限界突破した。 人間、極限状態になるとあんなに速く走れるものなのか。陸上部のエースも裸足で逃げ出すスピードだ。
「待ってぇぇぇ!! 私です! きのこですよぉぉ!!」
私の叫び声は、夜の森にこだまし、他の班の生徒たちをも恐怖のどん底に叩き落とした。 「おい、なんか光る化け物が走ってるぞ!」 「ヌシだ! 山のヌシが出た!」 「虫使いの祟り神だぁぁ!」
林間学校の夜は、百鬼夜行のパニックホラーと化した。
◇
……ドサッ。 ついに、先輩が木の根に足を取られて転倒した。 「うぅ……もうダメだ……足が……」 腰が抜けて立てない先輩。 佐藤くんは「すまん神木! お前の犠牲は無駄にしない!」と叫んで逃走してしまった(薄情な菌類ね)。
追いついた。 私はゼェゼェと息を切らしながら、先輩の前に立ちはだかった。 私の全身からは、まだ無数の虫が飛び立ち、また戻ってきている。
「……はぁ、はぁ……先輩……やっと……捕まえました……」 「ひぃッ……! 許して……食べないで……美味しくないです……」 先輩が涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で命乞いをする。
「違います……よく見てください……私です……菌田です……」 私は顔に張り付いた大きなヤママユガをバリッと剥がし、先輩に顔を近づけた。 緑色の光に照らされた、私の顔。
「……え? ……き、菌田さん……?」 先輩が瞬きをする。 「……え、本当に? なんで光ってるの? なんで虫まみれなの? っていうか、なんで追いかけてきたの!?」 「先輩が暗いのが怖いって言うから……私が光ってあげようと思って……ヤコウタケの成分を……」 「発想が斜め上すぎるよ!!」
先輩は安堵と、怒りと、恐怖が入り混じったような顔で叫んだ。 「死ぬかと思ったよ! 一生分の冷や汗かいたよ!」 「ごめんなさい……でも、綺麗でしょう? 生物発光の神秘……」 「綺麗じゃないよ! 怖いよ! 夢に出るよ!」
先輩は叫びながらも、私に手を差し伸べてくれた。 「……はぁ。もういいや。とにかく、その虫……取ろうか」 「えっ」 「そんな虫だらけじゃ、可哀想だし……。宿舎まで一緒に帰ろう」
ズキュン。 私の心臓(菌核)が撃ち抜かれた。 こんな化け物のような姿の私を、先輩は受け入れて(?)くれた。 恐怖のあまり感覚が麻痺しているだけかもしれないが、それでもいい。
「はい! 先輩! ありがとうございます!」 感極まった私は、勢いよく先輩に抱きついた。
「わっ、ちょ、待って! 粘液が!」 ベチャァッ。 私の体に塗られた大量のナメコジェルと発光物質が、先輩のジャージに移った。 「うわぁぁぁ! 俺まで光ったぁぁぁ!!」 「これで『ペア・ルミネッセンス』ですね先輩! 光るカップル誕生です!」 「虫も移ってきた! いやだぁぁぁ!」
◇
翌朝。 宿舎の食堂には、どんよりとした空気が漂っていた。 昨晩の「光る怪物騒動」で、多くの生徒が寝不足になっていたからだ。
神木先輩は、魂が抜けたような顔で味噌汁をすすっていた。 その首筋には、昨晩の名残か、うっすらと緑色の蛍光色が沈着して取れなくなっている。 「……神木、お前なんか光ってないか?」 「……触れるな。俺はもう、光合成で生きていくんだ……」 悟りを開いたような目をする先輩。
私は少し離れた席から、その横顔を熱く見つめていた。 私の肌は、虫刺されとかぶれでボロボロだったが、心は満たされていた。 先輩と共有した、あの光と恐怖の夜。 吊り橋効果は完璧だったはずだ(恐怖の方が強かった気もするが)。
「ふふふ……先輩の体に、私の発光成分は染み込んだわ。これで先輩は、どこにいても私の光から逃れられない……」
私はポケットの中の小瓶を握りしめた。 そこには、昨晩剥がした「先輩のジャージに張り付いていた蛾の羽」が入っている。 これもまた、夏の思い出の標本だ。
林間学校は終わるが、夏休みはまだ続く。 次は海だ。 海には海の発光生物がいる。 私の菌糸(と知識)は、陸だけでなく海へも広がっていくのだ。
「待っていてね先輩。次は青い光で、ロマンチックに溺れさせてあげるから……!」
私の不穏な独り言を聞いて、先輩がビクッと肩を震わせ、あたりをキョロキョロと見回した。 その怯えた顔もまた、最高に愛おしい。 恋の胞子は拡散中。 感染源は私。宿主は貴方。 私たちの共生関係は、まだ始まったばかりなのだ。




