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第5話:林間学校、昼下がりの森は愛とフェロモンの粘着地獄!

夏。  それは一般的に、太陽と青空、そして爽やかな海が似合う季節だとされている。  しかし、生態系の底辺を支える分解者デコンポーザーたる私――菌田きのこにとって、夏の定義は少し異なる。  高温。多湿。そして腐敗。  微生物たちが狂喜乱舞し、有機物を土へと還すスピードが加速する、生命の回転サイクルが最も激しい季節。それこそが日本の夏だ。


 バスが山道を揺られながら登っていく。  窓ガラス越しに見える景色は、コンクリートジャングルから、深緑の樹海へと変わっていた。 「ふふふ……感じるわ。窓の隙間から侵入してくる、濃厚な腐葉土の香り……。何億ものバクテリアが呼吸している、熱気を帯びた湿気……!」  私はバスの座席で、窓にへばりつきながら恍惚の溜息を漏らした。  車内のエアコンは効いているはずなのに、私の周りだけ湿度が局地的に上昇している気がする。


 私の視線の先、斜め前の席には、神木かみき先輩が座っている。  窓の外の鬱蒼とした森を見て、先輩は少し顔を青ざめさせていた。 「うわぁ……すごい山奥だな。携帯の電波、もう一本しか立ってないよ……」 「大丈夫か神木? 熊とか出るらしいぞ」 「やめてよ……俺、虫もダメなのに……」


 怯える先輩。なんて愛らしい弱者なのだろう。  都会の無菌室のような環境で育ったヒョロヒョロの苗木。それが神木先輩だ。  そんな先輩が、私のテリトリーである大自然マザー・ネイチャーに足を踏み入れようとしている。  大丈夫ですよ、先輩。貴方を害する悪い虫や獣からは、私が守ってあげる。  代わりに、私の菌糸でグルグル巻きにして、森の一部にしてあげるから……。


          ◇


 正午過ぎ。バスは標高1000メートルの宿泊施設「森の家」に到着した。  バスを降りた瞬間、ムワッとした熱気と、濃密な緑の匂いが全身を包み込む。 「空気が……美味しい!」  私は大きく深呼吸をした。肺胞の一つ一つに胞子が入り込むような充足感。  一方、先輩はバス酔いと熱気でグロッキー状態だ。 「うぅ……気持ち悪い……。空気、濃すぎない……?」  膝に手をつく先輩。  早速、私の出番ね。


 今回の林間学校、最初のプログラムは「森のオリエンテーリング」だ。  班ごとに地図を頼りに森の中のポイントを回り、キーワードを集めるというもの。  残念ながら、くじ引きの結果、私と先輩は別の班になってしまった。  神木先輩は男子4人の「D班」。私は女子グループの「G班」。  しかし、オリエンテーリングのコースは同じ。森の中で偶然を装って遭遇し、ドサクサに紛れて合流することは十分に可能だ。


「よし、G班のみんな! 私についてきて! この森の植生なら、最短ルートはこっちよ!」 「えっ、菌田さん? 地図だと逆方向だけど……」 「地図なんて平面の情報よ。菌類の声に従うの!」


 私は同班の女子たちを強引に誘導し(というより、私が猛スピードで進むので彼女たちが必死についてくる形になり)、D班の後ろを追跡するルートを選んだ。  獣道をかき分け、湿った苔の上を音もなく滑るように進む。  私の「先輩探知能力マイコ・センサー」が反応している。  あそこだ。


 木立の向こう、少し開けた場所で、D班が立ち止まっていた。 「うわっ、なんだよここ! 虫すげえ!」 「最悪だ、蚊柱ができてるぞ!」  そこは、小川沿いの湿地帯だった。  当然、吸血昆虫たちの楽園である。ブヨや蚊の大群が、新鮮な高校生の血を求めて乱舞している。  その中心で、神木先輩がパニックになっていた。 「うわぁぁ! 来るな! 寄ってくるな!」  帽子を振り回し、必死に抵抗する先輩。その白くて薄い皮膚は、虫たちにとってご馳走に見えるのだろう。すでに腕のあたりが赤くなっている。


「大変! 先輩が貧血になっちゃう!」  私は茂みから飛び出した。 「G班、ここで待機! 私は遭難者(先輩)を救助してくる!」 「えっ、ちょ、菌田さん!?」  制止を振り切り、私はD班のもとへスライディング気味に滑り込んだ。


「先輩! 無事ですか!」 「えっ、菌田さん!? どうしてここに?」 「私の菌糸が、先輩のピンチを知らせてくれたんです! 虫に襲われていますね!」 「そうなんだよ! 虫除けスプレーしたのに全然効かないんだ!」


 先輩が泣きそうな目で私を見る。  一般の虫除けスプレーなど、この深山の飢えた虫たちにはスパイス程度にしかならない。  だが、私には秘策があった。  昨晩、徹夜で調合してきた「対・森の害虫用・最強バリアー」が。


「安心してください。私が特製の『オーガニック虫除け軟膏』を持ってきました!」  私はリュックから、怪しげな瓶を取り出した。  中に入っているのは、茶色く濁った、粘り気のあるゲル状の物質。 「え……なにそれ?」 「いいから! じっとしていてください! 塗らないと吸い尽くされますよ!」


 私は有無を言わさず、瓶のふたを開けた。  プシュッ。  瞬間、あたりに漂う強烈な異臭。  それは、生ゴミと、古い雑巾と、銀杏ギンナンを混ぜて煮込んだような匂いだった。


「うっ……くさっ!?」  先輩が鼻をつまむ。 「我慢してください! これは『スッポンタケ』のグレバ(胞子紋)をベースにしたものです! この強烈な悪臭で、虫たちの嗅覚を麻痺させ、近寄れなくするんです!」


 スッポンタケ。  男根のような形状をしたキノコで、その先端からは強烈な悪臭を放つ粘液が出る。自然界では、その匂いでハエをおびき寄せ、胞子を運ばせるのだが……私の理論では、「これだけ臭ければ、蚊やブヨは逆に嫌がって逃げるはず(毒をもって毒を制す理論)」だった。


「いや、臭すぎるよ! 吐きそう!」 「血を吸われるよりマシです! えいっ!」  私は嫌がる先輩の首筋、腕、そして顔の周りに、茶色い粘液をたっぷりと塗りたくった。  ヌチャッ、ヌチャッ。 「ひぃぃ……冷たい……ヌルヌルする……」  先輩が悲鳴を上げるが、私は止まらない。 「よし、これで完璧なコーティングです! さあ、見てください。虫たちが……」


 私は自信満々に周囲を見回した。  私の計算通りなら、蚊たちは恐れをなして逃げ散っているはずだ。


 ブーン……ブンブンブン……。


 羽音が、大きくなっていた。  いや、種類が変わっていた。  さっきまでは「プ~ン」という蚊の音だったが、今は「ブブブブ!」という、もっと重低音の羽音が響いている。


「……あれ?」


 黒い影が、先輩の周りに集まってきた。  それは、森の中から現れた、巨大なハエ、センチコガネ、シデムシなどの「腐肉食性スカベンジャー」の昆虫たちだった。  彼らは、スッポンタケの「腐敗臭」を、「死肉ごちそうがある!」と勘違いして、大挙して押し寄せてきたのだ!


「うわあああ!! さっきより増えてる!! しかもデカイ!!」 「痛い! なんか甲虫がぶつかってくる!」  先輩が絶叫し、手足をバタつかせた。  ハエが先輩の顔(に塗った粘液)に止まろうとし、コガネムシが服の中に潜り込もうとする。  先輩は今や、森の分解者たちにとってのアイドル「動く腐肉」と化していた。


「あ、あれ? おかしいですね。生態系のバランス計算を間違えたかしら?」 「間違えすぎだよ!! 何塗ったんだよこれ!! 虫ホイホイじゃねーか!!」 「すみません! でも、蚊はいなくなりましたよ!?」 「ハエまみれになる方が嫌だよ!!」


 先輩は半狂乱になり、茶色い粘液と虫を振り払いながら走り出した。 「助けてくれぇぇぇ!!」  森の奥へと疾走する先輩。その後ろを、黒い雲のような虫の大群が追いかけていく。  まるで、イナゴの大群を引き連れる予言者のようだ。


「あっ、待ってください先輩! 洗い流すための『キノコ茶(殺菌作用あり)』もありますから!」  私は追いかけた。  D班の男子たちも「神木が虫に食われるぞ!」と追いかけ、G班の女子たちも「なんか面白そうだから行こう」と追いかける。  静かだった森は、阿鼻叫喚の運動会会場となった。


          ◇


 一時間後。ゴール地点の広場。  そこにたどり着いた神木先輩は、抜け殻のようになっていた。  近くの沢で必死に粘液を洗い流したらしいが、まだほのかにスッポンタケの悪臭が漂っており、時折ふらふらとハエが寄ってくる。  顔や腕は虫刺されこそ少ないものの、精神的なダメージで憔悴しきっていた。


「……もう帰りたい……。東京に帰りたい……」  体育座りで遠い目をする先輩。  私はスポーツドリンク(市販品)を差し出し、隣に座った。 「先輩、水分補給を。生きてこそ、です」 「……誰のせいだと……」  先輩が恨めしそうに私を見るが、気力がないのか、ドリンクを受け取ってくれた。 「でも先輩、見てください。あの虫たちの熱狂ぶり。先輩は森の生き物たちに愛されていたんですよ。種を超えた愛、素敵じゃないですか」 「愛の種類が重すぎるんだよ……。物理的に重かったよ、カブトムシ……」


 先輩は深いため息をついた。  私の「虫除け作戦」は、結果的に「虫寄せ作戦」となって失敗に終わった。  しかし、転んでもただでは起きないのが私、菌田きのこだ。  先輩の体には、スッポンタケの成分が微量に残っているはず。それはつまり、私のマーキングが完了したということ。  これで、夜の闇の中でも、私は先輩を匂いで追跡できる。


 先生がハンドマイクで叫んだ。 「えー、オリエンテーリングお疲れ様! 夕食のカレー作りの後は、いよいよ夜のメインイベント、『肝試し』を行うぞ!」  生徒たちが「イェーイ!」「マジかよー」とざわめく。


 肝試し。  昼間の失敗を取り戻す、千載一遇のチャンス。  私はリュックの奥底に隠していた、もう一つの「秘密兵器」を確認した。  タッパーに入った、緑色に怪しく光るジェル状の物体。  『ヤコウタケ(夜光茸)培養液』だ。


 昼間は「匂い」で失敗した。  ならば夜は「光」で勝負だ。  暗闇恐怖症の気がある先輩にとって、闇夜に輝く光は救いとなるはず。  私が、森の妖精のように幻想的に光り輝き、先輩を導くのだ。  そうすれば、今度こそ先輩は「菌田さん、綺麗だ……」と恋に落ちるに違いない。


「……ふふふ。待っていてくださいね、先輩」  私は夕暮れの森を見つめ、ニヤリと笑った。  太陽が沈み、光合成が終わる時。  それは、私たち菌類(と私)が主役となる時間の始まりだ。


 神木先輩は、背筋に悪寒が走ったのか、ブルッと震えて自分の肩を抱いた。 「……なんか、夜になったらもっと酷いことが起きる気がする……」  その予感は、悲しいかな的中することになる。  伝説の「発光粘液モンスター」が誕生する夜が、刻一刻と迫っていた。

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