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32話:不器用な女王と離れない手

「夏に恋にうつつを抜かすと、秋に泣きを見るぞ」

予備校の講師が口酸っぱく言う言葉だ。だから今日、地元の花火大会に行くのも「歩きながら英単語のテストを出し合う」という条件付きだったはずなのだが。

「……やっぱり、浴衣に単語帳は似合いませんね」

金魚柄の浴衣の袖を揺らしながら見上げると、先輩は無言でボロボロの英単語帳を甚平のポケットに突っ込んだ。

「ここは無理だね」

先輩は短くそう言って、人混みを避けるように少し前を歩き出す。

提灯の灯りと、焼きそばや綿飴の匂い。慣れない下駄の鼻緒が指の間に食い込む感覚も、湿気を帯びた夜風も、今は全部が特別な標本プレパラートに閉じ込めてしまいたい気さえする。

屋台の連なる通りを歩いていると、金魚すくいの前に少し人だかりができていた。その端っこで、白地に水色の朝顔が描かれた浴衣姿の人が、しゃがみ込んでいる。

「……あれ、真白さん?」

先輩が小さく呟く。間違いない。真白サラさんだ。

ただ、足元には破れたポイが無惨に散乱している。彼女は水面を鋭く睨みつけ、新しいポイを水に浸した。しかし、狙いを定めて手首を返した瞬間、ポイの紙はあっけなく破れ去る。

「ああっ、また……」

おじさんに小銭を渡し、また新しいポイを受け取ろうとするその背中は、普段の完璧な彼女からは想像もつかないほど意地になっていた。

「サラさん、こんばんは」

私が声をかけると、サラさんはピクリと肩を跳ねさせた。

「き、きのこちゃん。神木くんも……」

中腰のままぎこちなく固まり、居心地悪そうに視線を泳がせている。

「金魚すくい、苦戦してるみたいだね」

先輩が和ませるように言うと、彼女は小さなため息をついた。

「……私、こういう不器用な作業がすごく苦手で。紙がすぐ溶けちゃうし、金魚は全然思い通りに動いてくれないし……」

破れたポイを見つめてしゅんとしている姿は、いつもデータを駆使している「女王」ではなく、ただの不器用な女の子だった。私はサラさんの隣にしゃがみ込んだ。

「サラさん、金魚も生きてるから、水の中で急にポイを動かすとびっくりして逃げちゃうんです」

「え?」

「追いかけ回すんじゃなくて……ほら、あの子みたいに水面近くでパクパク息継ぎしてる時とか、壁際で動きが止まった一瞬を狙うんです。あと、紙は最初から全部水に濡らして、水にすっと滑り込ませる感じで入れると破れにくいですよ」

サラさんは真剣に頷くと、そっとポイを水に浸した。じっと水面を観察する彼女の目が、スッと鋭くなる。

一匹の黒い出目金がふらふらと寄ってきた。サラさんは息を詰め、出目金の下にポイを潜り込ませて、水ごと掬うようにゆっくりと手首を返す。

ちゃぷん。お椀の中に、見事に出目金が収まった。

「……すくえた」

サラさんの口元から、張り詰めていた糸がふっと緩んだような、年相応の笑みがこぼれた。

「おめでとうございます」

私と先輩が拍手をすると、彼女は少し照れくさそうに口元を隠したけれど、嬉しそうな瞳は隠せていなかった。

「ありがとう。生き物の動きを読むのは、やっぱりきのこちゃんの方が一枚上手みたいね」

サラさんはおじさんから金魚の入った袋を受け取ると、愛おしそうにそれを見つめる。

「さて、私はそろそろ帰るわ。この子が弱る前に、カルキを抜いて水温を合わせて……環境を整えてあげないと」

すっかり飼育モードに切り替わっている。

「花火、見ないんですか?」

「ええ、今日はこの子が最優先だから。……二人とも、せいぜいジンクスに負けないようにね。秋の模試では容赦しないわよ」

サラさんは私に向かって小さく手を振ると、背筋を伸ばして人混みの中へ帰っていった。完璧に見える彼女の不器用な一面に触れて、私の中の苦手意識が少しだけ溶けた気がした。

ヒュルルルル……ドンッ!

夜空に重低音と共に花火が打ち上がった。歓声が上がり、人々の流れが一斉に花火の見える方向へと動き出す。急に増えた人混みに揉まれ、下駄が引っかかってよろけそうになった。

「あっ……」

バランスを崩した瞬間、ぐいっと腕を引かれた。

気がつくと、私は先輩の胸のすぐ近くに引き寄せられていた。先輩は私の手首を掴んでいた手をすべらせ、私の指先に自分の指を絡めて、しっかりと手を繋ぐ。

「……はぐれるから。今日はもう、単語帳はおしまい」

繋いだ手から伝わってくる先輩の体温に、周囲の喧騒が遠のいていく。

ドーン、と一際大きな花火が上がり、夜空を金色に染め上げた。見上げると、先輩の横顔が光に照らされている。

繋がれた手のひらから汗が滲まないか、そればかりが気になって、私の脈は網にかかった金魚みたいに跳ね続けている。理科室で菌を培養している時より、ずっと繊細で、温度管理が難しい。

先輩の手が、少しだけ強く握り返してくれた。

夜空に咲いては消える光の花を見つめながら、私は繋いだ手にそっと力を込める。

……秋の模試、絶対にA判定を出さなきゃな。

先輩の隣で、誰よりもふさわしい「共生相手」になるために。私は密かに、夏の夜空に誓った。

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