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第7話:夏期講習は極寒の冷蔵庫

 7月下旬。

 梅雨が明け、東京の空には入道雲が湧き上がっていた。

 アスファルトが陽炎かげろうを上げ、セミたちが命の限り鳴き叫ぶ猛暑の夏。

 菌類にとっては乾燥が大敵だが、高温多湿な日本の夏は、まさに成長と繁殖のベストシーズンだ。

 ……しかし、それは「外の世界」の話。

 私――菌田きんだきのこは今、生命の危機に瀕していた。

「……さ、寒い……。菌糸が……凍結する……」

 私は、大手予備校の自習室の隅で、ガタガタと震えていた。

 夏休みに入り、私は神木かみき先輩の大学の近くにある予備校の夏期講習に通い始めたのだが、ここには恐ろしい罠があった。


 **『眠気防止のための、過剰な冷房』**だ。

 設定温度は、体感で18℃以下。

 外気温35℃との温度差は15℃以上。


 これはもはや教室ではない。生鮮食品の鮮度を保つための**「業務用冷蔵庫」**だ。

「……菌類の生育適温は20〜25℃……。この低温環境では、酵素活性が低下し、細胞分裂が停止してしまう……」

 カーディガンを着込み、膝掛けをしていても、冷気は容赦なく骨の髄まで侵入してくる。

 指先がかじかんで、シャーペンがうまく握れない。

 思考回路が鈍り、英単語が頭に入ってこない。

 自律神経が悲鳴を上げているのがわかる。

「……光合成……熱源が必要……」

 私はゾンビのような足取りで、自習室を脱出した。


 昼休み。

 私は、少しでも太陽の光を浴びようと、先輩の通うK大学のキャンパスへと向かった。

 待ち合わせ場所のベンチ。

 そこには、テスト期間中で早帰りの神木先輩が待っていた。

「……せ、んぱい……」

 私がふらふらと近づくと、スマホを見ていた先輩が顔を上げ、ギョッとした。

「菌田さん!? どうしたのその顔! 唇が紫色だよ!」

「……寒いです……。予備校が……シベリアなんです……」

「シベリア!? 外はこんなに暑いのに?」

 先輩が慌てて私の背中をさする。

 Tシャツ越しに伝わる先輩の体温。

 温かい。

 私は思わず、先輩にしがみつきそうになった。

「あら、きのこちゃん。……これは『冷房病』ね」

 涼やかな声と共に、日傘を差した真白ましろサラさんが現れた。

 純白のサマードレスに、手にはハンディファン。

 汗ひとつかいていない、完璧な「夏の女神」スタイルだ。

「さ、サラさん……」

「急激な温度変化で、自律神経がパニックを起こしてるのよ。体温調節機能がバグっちゃってる状態ね」

 サラさんは冷静に分析すると、持っていたクーラーボックスを開けた。

 中から冷気が漂う。

「食欲もないでしょ? ……これ、食べてみて」

 彼女が差し出したのは、キンキンに冷えた**「ミントとライムの栄養ゼリー」**だった。

「ビタミンとミネラルを補給して、メントールの効果でリフレッシュするの。内側からクールダウンすれば、外の暑さとのギャップもマシになるわ」

 科学的に正しい処置だ。

 熱中症対策としては完璧だろう。


 しかし、今の私――芯まで冷え切って「冬眠モード」に入りかけた菌類にとっては、それは追い打ちでしかなかった。

「……あ、ありがとうございます……」

 私は震える手でゼリーを受け取り、一口食べた。

 冷たい。

 爽快なミントの香りが、胃の中で氷のように居座る。

 ……ガチガチガチ

 震えが止まらない。むしろ悪化した。

「えっ? あれ? ……ごめんなさい、逆効果だった?」

 サラさんが目を丸くする。

 彼女の「健康管理」のセオリーには、「夏に凍えている人間」のデータがなかったようだ。


 見かねた先輩が立ち上がった。

「真白さん、ごめん。……ちょっと彼女を借りるよ」

「えっ? 神木くん?」

「彼女には、冷却じゃなくて『解凍』が必要なんだ」

 先輩は私の手首を掴むと、早足で歩き出した。

 連れて行かれたのは、農学部の建物に隣接する、古い**「調理実習室」**だった。

 今は使われていないのか、空調が切れている。

 ムワッとした熱気と、少し埃っぽい匂い。

「……はぁ。……暖かい……」

 私はその場にへたり込んだ。

 一般人なら「蒸し暑い」と顔をしかめる環境だろう。

 でも、私にとっては天国だ。

 湿度60%、気温30℃。

 菌類が最も活発になる、理想の培養環境だ。

「やっぱりね。菌田さんには『湿気』と『熱』が必要だろ?」

 先輩が苦笑しながら、窓を開けて風を通す。

「少し待ってて。今、体を温めるものを作るから」

 先輩は、慣れた手つきでコンロに火をつけた。

 リュックから取り出したのは、お弁当用の魔法瓶……ではなく、なんと**「生姜ショウガ」**の塊だった。

「……先輩、なんで生姜を?」

「最近、冷房で僕もお腹の調子が悪くてさ。自習用に持ち歩いてたんだ」

 先輩はナイフで生姜をすりおろし、小鍋に入れた。

 そこに水と、片栗粉、そして砂糖を加えて、弱火で練り上げる。

「いい? 生姜の辛味成分『ジンゲロール』は、加熱すると脱水反応を起こして**『ショウガオール』**に変化するんだ」

 先輩が、まるで私に語りかけるように解説する。

「ジンゲロールは解熱作用があるけど、ショウガオールは胃腸の壁を刺激して、血流を高め、体の芯から熱を作り出す。……つまり、最強の『体内ヒーター』だよ」

 ふつふつと泡立つ鍋。

 甘く、スパイシーな香りが部屋に満ちる。

 先輩が作ってくれたのは、とろみのついた熱々の**「特製・生姜葛湯くずゆ」**だった。


「はい、どうぞ。……熱いから、少しずつね」

 先輩がマグカップを差し出す。

 私は両手でそれを受け取った。

 カップを通じて伝わる熱が、冷たい指先を解かしていく。

「いただきます……」

 ふーふー、と息を吹きかけ、一口すする。

 トロリ。

 優しい甘さと、ピリッとした生姜の刺激。

 とろみのある液体が、食道をゆっくりと滑り落ち、胃袋に到達する。

 その瞬間。

 ポッ、と小さく火が灯ったような感覚。

「……んん……」

 胃の中から、じわじわと熱が広がっていく。

 凍りついていた血液が、再び流れ出す。

 手足の先まで、ジンジンとした感覚が戻ってくる。

「……はぁぁ。生き返ります……」

 私は大きく息を吐いた。

「凍結保存されていた菌糸が、解凍されて……再び伸びていくのがわかります……」

 顔色が戻った私を見て、先輩がホッとしたように笑う。

「よかった。……やっぱり君は、元気な方がいいよ」

 先輩は、私の向かいの椅子に座った。

 そして、まだカップを握りしめている私の手を、じっと見つめた。

「……まだ、手が冷たいね」

「あ、はい。末端までは、まだ熱が届いていなくて」

「貸して」

 先輩が、手を伸ばした。

 そして、私の両手を、自分の大きな両手で包み込んだ。

「!!」

 ドクン。

 心臓が跳ねた。

 先輩の手は、驚くほど温かかった。

 いや、熱かった。

 生姜の効果なのか、それとも先輩自身の体温なのか。

「……どう? 温かい?」

 先輩が、上目遣いで私を見る。

 その顔が、少し赤い気がする。

「は、はい……。すごく……」

「キノコの培養には、適度な温度管理インキュベーションが必要なんだろ?」

 先輩の手が、優しく力を込める。

「僕の体温で……君を**『培養』**してるつもりなんだけど」

 培養。

 その言葉の響きに、私の頭が沸騰しそうになった。

 ただ手を繋ぐよりも、抱きしめられるよりも、もっと深く、生物学的に愛されている気がする。

「……先輩……」

 私は、先輩の手を握り返した。

「……最高の発酵熱です。私の菌糸が……先輩の体温を求めて、絡みつこうとしてます……」

「……うん。絡みついていいよ」

 狭い実習室。

 蒸し暑い空気と、生姜の香り。

 窓の外ではセミが鳴いているけれど、ここだけは時が止まったように静かだった。

 先輩の体温が、私の皮膚を通じて、DNAの螺旋まで染み込んでくる。


 ああ。


 サラさんのくれる「清潔なゼリー」も素敵だけど。

 私が生きていくために必要なのは、やっぱりこの「泥臭い熱」なんだ。


 ガラッ。

 不意に、実習室のドアが開いた。

「……あら」

 そこに立っていたのは、サラさんだった。

 彼女は、手を握り合って見つめ合う私たちを見て、目を丸くした。

「わっ!?」

 先輩がバッと手を離す。私も飛び上がった。

 二人とも、顔が茹でダコのように真っ赤だ。血行促進されすぎている。

「ま、真白さん! これは違うんだ! 医療行為というか、温度管理というか!」

 先輩がしどろもどろに言い訳をする。

 サラさんは、部屋の中に充満する生姜の匂いと、私の血色の良くなった顔を見て、ふっと微笑んだ。

 少しだけ、寂しそうな、でも納得したような笑顔。

「……ふーん。なるほどね」

 彼女は、手に持っていた追加の保冷剤を、そっと後ろに隠した。

「夏にあえて『熱いもの』を摂取させて、発汗作用で体温を調整する……。東洋医学的なアプローチね。勉強になったわ」

「え? あ、うん」

「顔色も良くなったみたいだし、私の出番はなかったみたいね」

 サラさんは、私にウインクをした。

「よかったわね、きのこちゃん。……最高の**『熱源ヒーター』**が見つかって」

「……は、はい!」

 私は直立不動で答えた。

 サラさんは、「お邪魔しました」と言って、静かにドアを閉めた。

 彼女には、敵わない。

 全てお見通しだ。

「……はぁ。心臓止まるかと思った」

 先輩が脱力して椅子にもたれかかる。

「でも、元気になったろ? そろそろ予備校に戻らないと」

「はい! フルパワーで光合成できます!」


 帰り際。

 先輩は、自分が着ていたベージュのカーディガンを脱いで、私に渡してくれた。

「これ、貸すよ。予備校はまだ寒いだろうから」

「えっ、いいんですか? 先輩の匂いが……」

「……洗濯してあるから、臭くはないはずだけど」

 先輩が赤くなりながらそっぽを向く。

「僕の……『菌』がついてると思って、お守りにしてよ」

 ズキュン。

 殺し文句だ。

 私はカーディガンをひったくるように受け取り、胸に抱きしめた。


 先輩の体温と、微かな土の匂いが残っている。

「はい! このカーディガンを**『菌床ベッド』**だと思って、先輩に包まれながら勉強します!」

「……恥ずかしいから、外では言わないでね」

 予備校への帰り道。

 私は先輩のカーディガンを羽織って歩いた。

 もう寒くない。

 エアコンの冷気なんて、私の燃えるような菌糸の前では無力だ。

 夏期講習、後半戦。

 ライバル・サラさんの完璧さと、先輩の泥臭い優しさ。

 その両方を栄養にして、私はもっともっと強く育ってみせる。

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