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第30話:進路調査票は白紙の培地

7月上旬。  梅雨明けの蒸し暑い風が吹く教室で、私――菌田きんだきのこは、机の上に置かれた一枚の紙を睨みつけていた。


 『進路希望調査票(最終決定版)』。


 夏休み前の三者面談で提出しなければならない、運命の紙切れだ。  ペンを握る手が汗ばむ。第一志望の欄には、まだ何も書かれていない。


「……はぁ」


 深い溜息が出る。  先日返却された模試の結果は、残酷なものだった。  生物は偏差値78。しかし、英語と数学、化学の足枷が重すぎて、総合判定は**「E」**。  担任の先生の言葉が脳裏をよぎる。


『菌田。……夢を見るのはいいが、現実も見ろ。神木くんのいるK大学農学部は、国立の難関だ。浪人はさせたくない。……ランクを下げて、生物学科のある私立に変えたらどうだ?』


 ランクを下げる。  それはつまり、先輩と同じキャンパスに通う未来を諦めるということだ。


「……私、向いてないのかな」


 私は窓の外を見た。  先輩と一緒に研究したい。先輩の隣に立ちたい。  その気持ちだけは誰にも負けないつもりだったけれど、受験という数字の壁は、私の「菌類愛」だけでは突破できないほど分厚くて、高い。


 ブブッ。  ポケットの中でスマホが震えた。神木先輩からのLINEだ。


 『今週末、大学の実験農場で「イチゴの収穫祭」があるんだ。   サークルのイベントなんだけど、よかったら気分転換に来ない?   採れたてが食べ放題だよ』


 イチゴ。食べ放題。  いつもなら「行きます! 練乳持参で!」と即答するところだが、今の私は指が重かった。  ……今の成績で、先輩の大学に遊びに行くなんて、図々しいんじゃないか。


 でも。  『真白さんも来るよ』  その一文を見て、私の親指が勝手に動いた。


 『行きます。……勉強道具を持って』


 逃げちゃダメだ。  私が目指す場所がどんなところなのか、もう一度、この目で確かめなきゃいけない。


 週末。K大学付属実験農場。  郊外にある広大な敷地は、緑の匂いと土の匂いで満ちていた。


「わあ、すごい……!」


 私が感嘆の声を上げると、麦わら帽子を被った先輩が笑って出迎えてくれた。 「いらっしゃい、菌田さん。暑い中よく来たね」 「先輩! ここが先輩の戦場フィールドなんですね!」


 農場は大きく二つのエリアに分かれていた。  一つは、先輩たちがサークル活動で管理している**「泥だらけの畑」。  そしてもう一つは、その奥にそびえ立つ、巨大なガラス張りの建物――「環境制御型温室スマート・グリーンハウス」**だ。


「まずはこっちを見ていく?」  先輩に案内されたのは、ガラスの温室だった。  中に入ると、そこは別世界だった。  空調が効いていて涼しい。土がない。  代わりに、パイプの中を流れる養液で育てられたイチゴやトマトが、整然と並んでいる。


「ようこそ、きのこちゃん」


 白衣を着て、タブレットを操作していた真白サラさんが、涼やかな笑顔で振り返った。 「ここは私のゼミが管理している**『植物工場』**よ。温度、湿度、二酸化炭素濃度、培養液のpH……全てをデータで管理して、植物にとって『最適解』の環境を作っているの」


 サラさんがイチゴを摘んで渡してくれる。  真っ赤で、形が整っていて、宝石のように美しい。  食べると、雑味がなく、強烈に甘い。


「……美味しいです。すごく」 「本当? よかったぁ。土を使わないから病気のリスクも低いし、虫もつかないんだ。農薬もほとんど使わなくて済むしね。……どうかな? これが最先端の『農学』なんだよ」


 サラさんは嬉しそうだ。  完璧だ。清潔で、合理的で、無駄がない。  彼女にぴったりの農業だと思った。  でも、私の心はどこかザラついていた。


「……すごいですけど、なんか寂しいですね」 「え?」 「土の匂いがしません。微生物たちがせめぎ合う、あのカオスな生命力が感じられなくて……工業製品みたいです」


私が正直に言うと、サラさんは困ったように、でも優しく笑った。 「ふふ、きのこちゃんらしい感想だね。……でも、世界中の人に安定してご飯を届けるには、こういう技術も大切なんだよ?」


 正論だ。何も言い返せない。  私は逃げるように温室を出た。


「次は、僕たちの畑に行こうか」  先輩が私を連れて行ったのは、泥だらけの露地栽培エリアだった。  そこには、土のうねにイチゴの苗が植わっていたが……様子がおかしい。


「……あれ?」  近づいてみると、甘酸っぱい香りの中に、ツンとする腐敗臭が混じっている。  赤く色づきかけたイチゴの実が、次々と茶色く変色し、その上を**「灰色のフワフワしたカビ」**が覆っていたのだ。


「あちゃー……。やっぱりダメか」  先輩が頭を抱える。 「ここ数日、雨が続いただろ? その湿気でやられちゃったみたいなんだ。せっかく実ったのに、半分くらいダメになっちゃったよ」


 サークルの学生たちが「うわ、カビだ」「気持ち悪っ」と遠巻きにしている。  しかし、私は違った。  私はその「灰色のカビ」に顔を近づけ、ルーペを取り出した。


「……美しい」  私は恍惚と呟いた。 「先輩、これは**『ボトリチス・シネレア』**です! 湿気を好んで繁殖し、熟した果実を分解して土に還す、自然界の掃除屋クリーナーですよ!」


 私の菌類脳がスイッチを入れる。  可哀想な病気? 違う、これは生命の営みだ。


「先輩! このままにしましょう!」 「えっ?」 「無理にカビを取る必要はありません。腐った実は土に還り、養分になります。生き残った強い株だけが、次世代の命を繋ぐ……これぞ**『自然農法』**であり、菌との共生です!」


 私は熱弁を振るった。 「菌を敵だと思わないでください! 彼らも必死に生きているんです。この灰色の絨毯じゅうたんを愛でながら、生き残ったイチゴを探すのも一興じゃないですか!」


 私の提案に、先輩や周りの学生たちが「えぇ……」「でも食べる実がなくなるんじゃ……」と困惑する。  その時。


「――ううん、それはダメだよ、きのこちゃん」


 静かな、でも芯の通った声がした。  サラさんが、温室から出てきていた。  彼女は、カビだらけのイチゴ畑を見て、悲しそうに眉を下げた。


「それは**『放置』**になっちゃう。……それだと、イチゴたちが可哀想だよ」


 サラさんは、腕まくりをした。  白衣ではなく、汚れてもいい作業用エプロンをつけている。


「神木くん、ごめんね。剪定バサミとビニール袋、持ってきてくれる?」 「あ、うん! わかった!」


 サラさんは、躊躇なく泥の畑に入り込んだ。  そして、カビが生えたイチゴを、次々と手際よく摘み取り、袋に入れていく。


「菌を愛でたい気持ちはわかるけど……今はダメ。ボトリチス菌は胞子を飛ばして、元気な実まで次々と病気にさせちゃうの。このままだと、全滅しちゃうよ」


 パチン、パチン。  ハサミの音が響く。 「病気になっちゃった実は、すぐにお別れしなきゃいけないの。風通しを良くするために、混み合った葉っぱも落とすね。……そして、土からの湿気が来ないように、わら(藁)を敷いてあげて」


彼女の指示は的確で、速かった。 「菌が憎いわけじゃないの。でも、私たちが守らなきゃいけないのは『育ててる作物』でしょ? 大切な命を守るためには、時には心を鬼にして、戦わなきゃいけないこともあるんだよ」


 サラさんの額に汗が浮かぶ。泥が白い頬についても気にしない。  普段は「無菌室の女王」と呼ばれる彼女が、今、誰よりも泥臭く、命を守るために戦っている。


「……」  私は、何も言えなかった。  私の提案した「共生」は、聞こえはいいが、結果として畑を全滅させる無責任な考えだった。  サラさんは、正しい知識(病理学)と技術で、被害を最小限に食い止めようとしている。


 これが、「農学」。  ただ好き勝手に観察するのではなく、自然をコントロールし、恵みを得るための科学。


 数時間後。  処置を終えた畑は、すっきりと風通しが良くなり、生き残った赤い実たちが夕日を浴びて輝いていた。  感染拡大は、止まったのだ。


夕暮れ時。  私たちは収穫したイチゴを試食した。  サラさんの温室で採れたイチゴと、露地栽培で生き残ったイチゴ。


 サラさんのイチゴは、文句なしに甘く、形も綺麗だった。  一方、露地栽培のイチゴは、形は不揃いで、酸味も強い。でも、味が濃かった。


「……美味しい」  私は泥を落としたイチゴを齧りながら、小さく呟いた。


「きのこちゃん」  隣に座ったサラさんが、優しく声をかけてきた。 「きのこちゃんは、菌のことが本当に好きなんだね。その情熱は、私なんかよりずっとすごいと思う」 「……でも、役に立ちませんでした。逆に、畑を全滅させるところでした」


 私は膝を抱えた。  自分の知識の偏り。浅はかさ。  「好き」という感情だけで突っ走って、現実を見ていなかった。


「……研究者にはね、二つの目が必要なんだって」  サラさんが空を見上げる。 「一つは、きのこちゃんみたいに生命の神秘を愛でる『顕微鏡の目』。もう一つは、全体を見て管理する『望遠鏡の目』だよ」


 彼女は私を見た。 「きのこちゃんには、私にはない『愛』がある。でも、『愛するだけ』じゃ、命は守れないこともあるの。……だから、私たちは勉強するんだよ。病気の原因を知って、化学反応を理解して、データを分析する。全部、大切なものを守るためなんだよ」


 ガツン、と頭を殴られたような気がした。  勉強。  私が「退屈だ」「無機質だ」と思って逃げていた英語や化学や数学。  それらは全て、この現場で「命を守る武器」になるものだったんだ。


 サラさんは、決して冷徹な管理マシーンじゃなかった。  彼女なりの、深い愛情と責任感を持って、植物と向き合っていたんだ。


「……完敗です」  私は涙を拭った。 「サラさんは……すごいです。私、ただのオタクでした」


 帰り道。  私は先輩と並んで駅へ向かった。  リュックの中には、お土産にもらったイチゴジャムが入っている。


「……悔しいです」  私が鼻をすすると、先輩が頭をポンと撫でてくれた。 「うん。今日は真白さんの勝ちだね」 「勝ちどころか、コールド負けです。知識も、覚悟も、全然足りませんでした」


「だから、大学に来るんだろ?」  先輩の言葉に、私は顔を上げた。


「真白さんはすごいよ。僕もいつも助けられてる。……でもね、彼女にはできないことが、君にはできると思うんだ」 「私に……?」 「うん。例えば、あの腐りかけの土を見て『美しい』って言える感性とかね。……その『偏愛』に、正しい『知識』が加わったら……きっと君は、誰にも負けない研究者になれる」


 先輩は、夕日に染まる校舎を指差した。 「待ってるよ、きのこ。ここで、一緒に研究しよう。……君が学ぶべきことは、まだ山ほどあるんだから」


 その言葉が、私の心に火をつけた。  そうだ。  知らないままじゃ終われない。  サラさんに負けっぱなしでなんていられない。  私も、あの場所で、あの白衣を着て、胸を張って菌と向き合いたい!


「……はいッ!!」


 私はカバンから、クシャクシャになりかけていた**「進路希望調査票」**を取り出した。  そして、ペンを取り出し、筆圧濃く書き込んだ。


 【第一志望:K大学 農学部 応用生命科学科】


 もう、迷いはない。  E判定だろうが、偏差値が足りなかろうが、関係ない。  私はここに行く。  ここに行って、サラさんや先輩と対等に渡り合えるだけの「武器(知識)」を手に入れるんだ。


「見ててください、先輩! 私、生まれ変わります! この夏で、脳みそのシワを菌糸で埋め尽くすくらい勉強しますから!」 「菌糸で埋めちゃダメだけど……うん、期待してるよ」


 先輩が笑う。  梅雨が明け、本格的な夏が来る。  私の受験戦争は、今日、本当の意味で始まったのだ。

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