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第29話:期末テスト、数式は菌糸のネットワーク

6月下旬。

 日本列島は、分厚い雲と湿気に覆われていた。

 ジメジメとした空気は、カビやキノコにとっては楽園パラダイスだが、湿気に弱い紙のテキストや、人間のメンタルにとっては天敵だ。

 私――菌田きんだきのこは、放課後の職員室で、担任の先生から死刑宣告を受けていた。

「菌田。……単刀直入に言うぞ」

 先生が、私の数学の小テスト(12点)をヒラヒラと振る。

「来週の期末テスト。数学で平均点の半分……つまり『赤点』を取ったら、夏休みは没収だ」

「ぼ、没収……?」

「そうだ。夏休み期間中、毎日学校に来て**『強制補習』**を受けてもらう。朝から晩まで、みっちりとな」

 ガーン!!

 頭上で雷が鳴った気がした。

 夏休み。それは受験生にとっての天王山。

 そして私にとっては、神木かみき先輩の大学の近くにある予備校の夏期講習に通い、ランチや夕食を共にするという**「夏季・共生強化月間」**のはずだったのだ。

「そ、そんな……! 私の『サマー・マイコ・プロジェクト』が!」

「菌の話はしてない。いいか、これは決定事項だ。……死ぬ気で勉強しろ」

 先生は無慈悲に宣告し、さらに分厚い数学の問題集を私の前に積み上げた。

 帰り道。傘を叩く雨音が、私の心模様のように重い。

 数学。

 それは、私にとって最も理解不能な言語だ。

 xとかyとか、無機質な記号が並んでいるだけで、脳が拒絶反応を起こして胞子を噴きそうになる。

 生物や化学のような「命の匂い」がしない。乾燥しきった砂漠のような世界。

「……助けて、先輩」

 私は震える指で、救難信号(LINE)を送った。


 翌日の放課後。

 私は、K大学の図書館にいた。

 レンガ造りの重厚な建物。中は空調が完備され、湿気とは無縁の快適な空間だ。

 静寂。紙の匂い。そして、知性の香り。

「……ここに来ると、自分が『異物コンタミ』になった気分になります」

 私が小声で嘆くと、向かいに座っていた神木先輩が苦笑した。

「そんなことないよ。ここは誰でも使える場所だからね」

 先輩は、私の数学の教科書を広げた。

「で、今回の敵は『指数・対数関数』と『微分』か……。確かに、とっつきにくい分野だね」

「とっつきにくいどころか、宇宙語です! 数字がただの記号に見えます! 生きてないんです!」

 私が頭を抱えていると、コツコツと足音が近づいてきた。

「あら、神木くん。それに、きのこちゃん」

 爽やかな石鹸の香りと共に現れたのは、真白ましろサラさんだった。

 純白のブラウスに、淡いグレーのカーディガン。

 雨の日だというのに、彼女の周りだけ湿度が最適化されているように爽やかだ。

「あ、真白さん。お疲れ様」

「さ、サラさん……ごきげんよう(小声)」

「奇遇ね。私もレポートをまとめに来たの。……あら、数学?」

 サラさんは、私の惨憺たるノートを見て、ふふっと優しく微笑んだ。

「数学、苦手なの? 私、けっこう得意なんだ。高校時代は満点だったよ」

「ま、満点……!?」

「よかったら、教えてあげようか? 神木くんもレポート忙しそうだし」

 サラさんの提案は、ありがたいけれどプレッシャーだ。

 でも、背に腹は代えられない。

「お、お願いします……! 私の脳みそに数学的回路を接続してください!」


 サラさんの授業が始まった。

 彼女の教え方は、彼女自身のように「完璧」で「清潔」だった。

「いい? 数学は世界を記述する美しい言語なの」

 サラさんは、定規で引いたように真っ直ぐな線でグラフを描く。

「この方程式はバランスが大事。左辺と右辺を整えて、不要な項を『消去』していくの。そうすれば、最後に美しい答えだけが残るわ」

 論理的。

 無駄がない。

 教科書のお手本のような解説。

 しかし。

 私の脳は、その「美しさ」を滑ってしまい、全く定着しなかった。

「……うぅ……目が回ります……」

「えっ? ここでxをくくりだすだけだよ?」

「そのxが何者なのか分からないんです! 菌類ですか? 胞子ですか? 正体不明の物体を操作するなんて、不安で手が震えます……!」

 私はペンを握りしめて震えた。

 サラさんは困ったように眉を下げる。

「うーん……。抽象的な概念を操作するのが数学なんだけどな。……きのこちゃん、もしかして『物語』がないと頭に入らないタイプ?」

 その通りだ。

 私は、生命の営み(ストーリー)がないと、情報を処理できない。

 見かねた先輩が、レポートの手を止めて口を挟んだ。

「真白さん、ちょっといいかな。……彼女には、たぶん『翻訳』が必要なんだ」

「翻訳?」

「うん。……貸して」

 先輩は、私のノートを引き寄せた。

 そして、サラさんが描いた美しいグラフ

(指数関数 y = a^x)の上から、鉛筆で書き込みを入れた。

「菌田さん。このカーブ、何かに似てないか?」

「えっ? ……うーん、急激に上がってますね」

「そう。思い出してごらん。新しい培地に、パン酵母を植え付けた時のことを」

 ハッとした。

「……! 栄養豊富な環境での、『酵母菌の指数関数的増殖期』!?」


「正解」

 先輩がニヤリと笑う。

「指数関数は、菌が爆発的に増える様子そのものなんだ。1個が2個、2個が4個、4個が8個……。倍々ゲームで増えていく勢い、それがこのグラフだ」

 私の目に、無機質だった線が、急に生き生きとした「菌の生命力」に見えてきた。

 うねるような曲線。天を衝くような勢い。

 これは、数学じゃない。**「培養記録」**だ!

「じゃあ、この『対数』は?」

「それは……『菌が〇〇個になるまでに、何時間かかるか』を逆算する道具だ」

「なるほど!! つまり培養時間の予測ツールですね! 便利です!」

 霧が晴れたように、意味が脳に染み込んでくる。

 サラさんが、ポカンとして口を開けている。

「……神木くん。その説明、数学的にはかなり乱暴だよ?」

「あはは、ごめん。でも、彼女にはこれが『公用語』なんだ」


 そこからは、先輩の独壇場だった。

 数学の記号たちが、次々と生物学的な意味を持って動き出す。

「いいかい? 『微分』とは何か」

「接線の傾き……?」

「違う。『その瞬間における、菌の増殖スピード』**だ!」

「おおおっ! わかりやすい!」


「じゃあ『積分』は?」

「面積……?」

「そう。グラフの下の面積。つまり『シャーレを覆い尽くしたコロニーの総面積バイオマス』**だ!」

「なるほど! 積分すれば、収穫量がわかるんですね!」

「『ベクトル』は?」

「矢印!」

「『菌糸が、養分ゴールに向かって伸びようとする力と方向』だ!」

 私のノートは、数字と記号の横に、キノコのイラストや菌糸の図解がびっしりと書き込まれていった。

 一見すると落書きだらけのカオスなノートだが、私にとっては「生命の設計図」に他ならない。

「解ける……! 解けます先輩! XもYも生きてます! 彼らがどこへ行きたいのか、手に取るようにわかります!」


 私は猛烈な勢いで問題を解き始めた。

 ペン先が紙を走る音が、小気味よく響く。

 サラさんが、私のノートを覗き込んで、絶句している。

「……信じられない。途中式に『菌糸の伸長』とか書いてあるのに……答えは合ってるわ」

「翻訳さえできれば、計算はただの代謝活動ですから!」

 私は鼻息荒く答えた。

 サラさんは、自分の整然とした美しいノートと、私のカオスなノートを見比べて、ふっと笑った。

「……負けたわ。綺麗なだけが、正解じゃないってことね」

 彼女は、カバンから除菌ウェットティッシュを取り出し、私の黒くなった指先を拭いてくれた。

「でも、計算が終わったら手は洗いなさいね。鉛筆の粉は体に悪いわよ」

「はい! ありがとうございます!」


 最後の難関は、応用問題だった。

 「最短ルートの確率」や「組み合わせ」。

 複雑な条件分岐に、頭がこんがらがる。

「……うぅ。菌糸が絡まりそうです……」

 ペンが止まる。

 先輩も、どう教えようか悩んでいるようだ。

 その時、サラさんが口を開いた。

「……ねえ、きのこちゃん」

 彼女の声は、困っている私を助け舟に乗せるように優しかった。

「きのこちゃん、『粘菌スライムモールド』が好きだったよね?」

「はい! 」

 私が答えると、サラさんはふふっと笑った。

「あの時、神木くんと話してたんだ。『粘菌って、脳がないのに迷路を解く賢い生き物なんだよ』って」

 私は顔を上げた。

「そうです! 粘菌は、複数のルートに原形質を伸ばして、餌への最短ルートだけを残して管を太くするんです。**『粘菌コンピュータ』**とも呼ばれる高度な情報処理能力です!」

 サラさんは、私の問題用紙を指差した。

「だったら、きのこちゃんがその『粘菌』になってみたらどうかな?」

「え?」

「このスタート地点にきのこちゃんがいる。ゴール地点には……そうね、神木くんがいるとするよ」

 サラさんは悪戯っぽく先輩を見た。先輩が「えっ、僕?」と赤くなる。

「神木くんにたどり着くために、無駄なルートを捨てて、一番効率のいい道を広げていくの。……きのこちゃんの好きな、粘菌の本能で」

 そのアドバイスに、電流が走った。

 そうだ。計算式を組むんじゃない。

 ルートを探すんだ。生命として、一番効率の良い道を!

「……見えます。道筋が!」

 私は目を閉じた。

 自分が黄色いドロドロした粘菌になったイメージ。

 目の前には複雑な迷路。その奥に、先輩がいる。

 私は触手を伸ばす。こっちは行き止まり。こっちは遠回り。

 残った道は――これだ!

 カッ!

 私は目を開き、一気に答えを書き込んだ。

 樹形図でも、計算式でもない。

 まるで血管のような、有機的なネットワーク図を描き、その結合点の数を数える。

「答えは……5/12です!!」

 静まり返る図書館。

 サラさんが答え合わせをする。

 彼女は私のぐちゃぐちゃな図解と、模範解答を見比べて、目を丸くした。

「……正解。合ってるよ」

 サラさんは、ほう、と感心したようなため息をついた。

「すごいなぁ。数式を使わずに、感覚だけで正解にたどり着いちゃうなんて。……私には真似できないよ」

 彼女は、素直に私を称賛してくれた。

「きのこちゃんの頭の中って、本当に面白いね。……勉強になったよ」

「やりました! 粘菌の勝利です!」

「しーっ! 声が大きい!」

 先輩に怒られたけれど、私たちは顔を見合わせて小さく笑った。

 サラさんも、そんな私たちを見て、優しく微笑んでいた。


 期末テスト当日。

 数学の試験中、私は問題用紙に菌のイラストを描きまくった。

 監督の先生がギョッとしていたが、答えは埋まった。

 数日後。

 返却された答案用紙には、**「65点」**という、過去最高得点が記されていた。

 ただし、余白には赤ペンで『※計算に関係のないキノコの絵を描かないこと。夢に出ます』と注意書きがあったけれど。

「やったぁぁぁ!! 夏休み確保です!!」

 放課後の廊下で、私は答案用紙を掲げて叫んだ。

 これで補習は回避。

 晴れて、先輩の大学の近くの予備校に通える!

 スマホが震える。先輩からのLINEだ。

 『お疲れ様。よくやったね。

  ご褒美に、次の日曜は植物園に行こう。雨が降っても決行で』


 雨の植物園。最高だ。

 湿気たっぷりの温室で、熱帯のキノコを観察するデート。

 校舎を出ると、雨は上がっていた。

 雲の切れ間から強い日差しが差し込み、空には大きな虹がかかっている。

 梅雨明けだ。

 いよいよ、勝負の夏が始まる。

 ふと、校門の向こうに、白い人影が見えた気がした。


 真白サラさんだ。

 彼女の手には、参考書のようなものが見える。

 もしかしたら、私のためにまた何かを用意してくれていたのかもしれない。

「……ふふ。次は『化学』も一緒に勉強できるかな」

 風に乗って、そんな独り言が聞こえた気がした。


 私はリュックを背負い直した。

 望むところだ。

 化学ケミストリーも、生物バイオも、恋も。

 全部まとめて、私の栄養にしてやる。

「待っててください、先輩! 私の菌糸は、夏の日差しを浴びて、もっともっと太くなりますから!」

 私は水たまりを飛び越えて、夏に向かって走り出した。

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