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第27話:キャンパス潜入! 無菌室のライバルと嫉妬の培地

6月。  梅雨入り前の湿った南風が吹く季節。  カビやキノコにとっては胞子を飛ばす絶好のベストシーズンだが、受験生にとっては「中だるみ」という名の停滞期が訪れる時期でもある。


 私――菌田きんだきのこは、大学の正門前に立っていた。  今日は**「オープンキャンパス」**の日。  高校生たちに大学を開放し、模擬授業や研究室の見学を行うイベントだ。本来なら、志望校の雰囲気を肌で感じ、モチベーションを高めるためのキラキラした行事である。


「……ですが、私の目的は違います」


 私はリュックのベルトをギュッと握りしめた。  制服の背中に背負ったリュックの中には、今朝裏山で採取したばかりの**「変形菌の巨大子実体」**が入ったタッパーがある。  これを口実に、神木かみき先輩に会いに行く。そして、あわよくば先輩の研究室ラボに私の「菌」をしっかりとマーキングするのだ。


「偵察開始です。……先輩の周りに、あの『白い除菌女』がいないことを祈りつつ」


 5月のカフェテリアでの一件以来、私はライバルである真白ましろサラさんの影に怯えていた。  彼女は悪意のある人ではない。むしろ、恐ろしいほどに「善意」の人だ。  だからこそ厄介なのだ。彼女の放つ「正しさ」と「清潔さ」という光は、私のような日陰の菌類をジリジリと焼き焦がす。


「負けていられません。私には、先輩と培ってきた『泥臭い絆』があるのですから!」


 私は制服のスカートを翻し、広大なキャンパスへと足を踏み入れた。


 農学部の展示棟。  廊下には、パンフレットを手にした高校生や保護者が溢れかえっている。  私は人混みをかき分け、お目当ての「微生物学研究室」のブースを目指した。


「……あ」


 見つけた。  廊下からガラス越しに、実験室の中が見えるようになっている。  清潔な空気清浄機のランプが青く光るその空間に、二つの人影があった。


 白衣を着た、神木先輩。  そして、同じく純白の白衣を着た、真白サラさん。


 二人は、一台の高性能顕微鏡を挟んで並んでいた。  距離が、近い。  肩と肩が触れ合いそうな距離で、同じモニターを覗き込んでいる。


 ガラス越しでも、二人の楽しげな様子が伝わってくる。  先輩が、モニターを指差して何かを言う。サラさんが、それに頷いて微笑む。  先輩が試験管を渡す。サラさんがそれを受け取り、手際よくピペットで液体を吸い上げる。  その一挙手一投足が、まるでダンスのように噛み合っている。


 『お似合い』。


 その言葉が、私の脳裏に浮かんで消えない。  白い壁、白い床、白い服。  清潔で、知的で、整然とした世界。  そこに、少しヨレた制服を着て、泥のついたローファーを履いた私が入り込む余地なんて、1ミリもないように見えた。


 ズキン。  胸の奥で、黒いカビの胞子が弾けた。  嫉妬だ。  ただ仲が良いからじゃない。  二人が共有している「知識」のレベルが、私とは違う。それが悔しい。  あのガラスの向こう側は、選ばれた人間しか入れない「聖域サンクチュアリ」なのだ。


「……入らなきゃ。ここで引いたら、負け犬よ」


 私は深呼吸をして、実験室のドアノブに手をかけた。


「失礼しまーす! 見学に来ました!」


 私が努めて明るい声で入っていくと、二人が同時に振り返った。


「あ、菌田さん! 来てくれたんだ」  先輩が嬉しそうに手を振る。  サラさんも、穏やかな笑顔で迎えてくれた。 「いらっしゃい、きのこちゃん……、制服姿も可愛らしいね」


 サラさんは、今日も完璧だった。  白衣の襟はパリッとしていて、髪は一筋の乱れもない。石鹸のような清潔な香りが、薬品の匂いの中にふわりと漂う。  それに比べて私は、満員電車で揉まれて髪はボサボサ、背中には汗をかいている。


「先輩、これ! お土産です!」  私は劣等感を振り払うように、リュックからタッパーを取り出した。 「今朝、裏山で見つけたんです! 『モジホコリ』の、すごく立派な黄色い子実体です! どうしても先輩に見せたくて!」


 私がタッパーの蓋に手をかけ、パカッと開けようとした、その瞬間。


「――っ、待って!!」


 鋭い、でも悲鳴のような切羽詰まった声が響いた。  同時に、シュッ! と冷たい霧が私の手元に噴射された。  アルコールの匂い。


「……え?」  見ると、サラさんがスプレーボトルを構えていた。  彼女の顔からは笑顔が消え、真剣そのものの表情で私を見ていた。


「ごめんね、びっくりさせちゃった?」  サラさんは、ホッと息を吐きながらスプレーを下ろした。  怒っているわけではない。ただ、危機を回避した安堵の表情だ。 「ダメだよきのこちゃん。……その蓋、ここで開けちゃいけないの」


「えっと……どうしてですか? 毒キノコじゃありませんよ?」 「毒とかそういう問題じゃないの。ここは**『クリーンルーム』**に準ずるエリアだからよ」


 サラさんは、実験台の上のシャーレを指差した。 「私たちは今、特定の菌だけを純粋培養しているの。もし、きのこちゃんが持ってきた野生の菌の胞子が空気中に広がったら……**コンタミネーション**を起こしちゃうの」


「こ、コンタミ……?」 「そう。私たちが育てている菌に、外の雑菌が混ざっちゃうこと。そうなったら、今までの実験データが全部やり直しになっちゃうんだよ」


 サラさんは、諭すように優しく、でも毅然と言った。 「そのタッパーは、あっちの『排気装置』の中で開けるか、外で見せてあげてね? ……私たちにとって、ここの空気は命より大事だから」


「……っ、す、すみません!」  私は慌ててタッパーを引っ込めた。  顔が熱くなる。  怒られたわけじゃない。彼女は正論を言っているだけだ。  でも、彼女の「研究者としての正しさ」に、何も言い返せなかった。  先輩へのプレゼントのつもりだったのに。ここでは、それはただの「汚染物質リスク」だったのだ。


「ごめんね、菌田さん」  先輩が申し訳なさそうにフォローに入る。 「真白さんの言う通りなんだ。大学の実験はすごくデリケートだから……。その標本は、後で外で見せてもらうよ。楽しみにしてるから」


 先輩まで。  もちろん、二人が正しいのはわかる。  でも、サラさんの隣に立って、サラさんと同じ「研究者のルール」で私を見ている先輩が、ひどく遠くに感じられた。  私だけが、この場のルールを知らない「部外者」なんだ。


「さあ、気を取り直して。せっかくだから実験を見ていく?」  サラさんがニッコリと手招きする。  私は大人しく、指定された見学エリア(黄色い線の外側)に立った。


 二人は作業に戻った。  さっきまでの穏やかな空気とは変わり、ピリッとした集中力が漂う。


「神木くん、オートクレーブの設定、確認してくれる?」 「121℃、20分。セット完了です」 「ありがとう。じゃあ、シャーレの培地組成をお願い。寒天濃度は1.5%で調整して」 「了解。ピペットマンのチップ、新しいの出しますね」


 飛び交う専門用語。  無駄のない動き。  阿吽の呼吸。


 私は、ただ呆然とそれを見ているしかなかった。 (……何を言ってるのか、全然わからない)


 高校の生物室レベルの知識しかない私には、彼らの会話はまるで異国の言葉だった。  オートクレーブ? 培地組成?  二人は、私には理解できない「共通言語」で繋がっている。  知性の結びつき。  それは、ただ「好き」という感情だけでは越えられない、分厚いガラスの壁だ。


「……よし、いいデータが取れそう」  実験が一段落し、サラさんがマスクを外してふぅっと前髪を吹いた。  彼女はポットからコーヒーを注ぎ、先輩に手渡した。


「お疲れ様、神木くん。君のハンドリング、すごく安定してたよ。助かったわ」 「ありがとう。真白さんの培地作りが完璧だったからだよ。気泡一つないなんて、僕には無理だ。……やっぱり凄いな、真白さんは」


 二人がコーヒーを飲みながら、充実感に満ちた顔で微笑み合う。  その空間は、完全に二人だけのものだった。  線一本隔てた場所にいる私が、まるで透明人間になったかのように。


 その時、サラさんが私に気づいたように振り返った。 「あ、ごめんねきのこちゃん! 難しかったかな?」  彼女は悪気なく、困ったように笑った。 「つい専門的な話になっちゃって……。あ、ジュース飲む? それともお菓子食べる?」


 まるで、親の仕事場に連れてこられた子供をあやすような口調。  それが、決定打だった。  彼女にとって私は、対等なライバルですらない。  ただの「見学に来た高校生」なのだ。


 いたたまれなかった。  ここにいるのが、苦しかった。  私が持ってきたタッパーの中の粘菌が、なんだか惨めに見えてくる。


「……あの、私」  私は小さく声を上げた。 「もう、帰ります」 「えっ? まだ来たばかりだよ?」  先輩が驚いてカップを置く。 「い、いいんです! 塾の予習がありますから! 勉強しなきゃいけないので!」


 私は嘘をついた。  これ以上、二人の完璧な世界を見せつけられるのに耐えられなかった。  タッパーをリュックの奥に押し込み、逃げるように背を向けた。


「お邪魔しました! 失礼します!」


「あっ、菌田さん!」  先輩の呼び止める声を無視して、私は実験室を飛び出した。


 キャンパスのベンチに座り込み、私は膝を抱えていた。  夕日が沈んでいく。  学生たちが楽しそうに帰っていく中、私だけがどんよりとした空気を纏っていた。


「……バカみたい」  私はリュックを抱きしめた。


 サラさんは正しかった。  彼女は美しくて、頭が良くて、先輩の研究を助けることができる。  私なんて、雑菌を持ち込んで邪魔をするだけだ。  雑菌は、消毒されるべきなのだ。


「菌田さん!」


 息を切らせた声がした。  顔を上げると、白衣姿の先輩が立っていた。  走って追いかけてきてくれたのだ。


「……先輩」 「どうしたの、急に。……怒った?」  先輩が心配そうに覗き込む。 「怒ってません。……ただ、自分が惨めになっただけです」  私は俯いた。 「先輩とサラさん、お似合いでした。同じ言葉で話して、同じ世界を見てて……。私みたいな子供が入る隙間なんて、ないんだなって」


 本音がこぼれる。  嫉妬と、劣等感。  ドロドロとした感情が、口から溢れ出しそうになる。


 先輩は、しばらく黙っていた。  そして、私の手首を掴んだ。


「……こっちに来て」 「え?」 「君に見せたい場所があるんだ」


 先輩は私を連れて、キャンパスの裏手へと歩き出した。  綺麗な並木道を抜け、校舎の裏側へ。  そこには、フェンスで囲まれた一角があった。


 プワン。  独特の匂いがした。  土の匂い。腐った葉っぱの匂い。微生物の発酵臭。


「……ここは?」 「大学の**『堆肥場コンポストセンター』**だよ」  先輩がフェンスを開ける。  そこには、実験で出た植物ゴミや落ち葉が山積みになり、湯気を立てて発酵していた。


「臭いでしょ? 真白さんは、ここが大嫌いなんだ」  先輩が苦笑する。 「『不潔』『悪臭』って言って、絶対に近づかない。……でもね」


 先輩は、白衣の裾が汚れるのも構わずに、堆肥の山にスコップを突き刺し、掘り返した。  中から、湯気が立ち上る。  黒々とした、栄養満点の土。


「僕は、ここが一番好きなんだ」  先輩が、その土を素手で掬い上げた。 「温かいだろ? 発酵熱だ。……君が教えてくれた、あの『カイロ』と同じ匂いがする」


「……先輩」


研究室ラボの綺麗な実験も楽しいよ。でも、僕の原点はここにある。泥臭くて、菌まみれで、生命力に溢れた場所」  先輩は、泥のついた手で、私の手を握った。


「君がいなかったら、僕はここに気づけなかった。……『綺麗』だけじゃ、育たない命があるってことを」


 先輩の手は、少しザラついていて、土の匂いがした。  サラさんの石鹸の香りとは違う。  でも、私にとっては、世界で一番落ち着く匂いだった。


「……ずるいです」  私は涙をこらえて言った。 「そんなこと言われたら……諦められないじゃないですか」 「諦めないでよ」  先輩が笑う。 「早くこっちに来て。……君がいないと、僕は『無菌室』で息が詰まっちゃうからさ」


 その言葉に、私の胸のモヤモヤが晴れていく。  そうだ。  私は「綺麗な花」にはなれない。  でも、その花を咲かせるための「土」の豊かさを、誰よりも知っている。  先輩が必要としているのは、無菌のガラスケースじゃない。この温かい土なんだ。


「……わかりました」  私は、リュックからタッパーを取り出した。 「先輩、これ! さっき見せられなかった粘菌です!」  蓋を開ける。  黄色いモジホコリが、網目状に広がっている。


「おおっ、すごい! 元気いいね!」  先輩が目を輝かせる。 「これ、ここで培養しようか? 栄養満点だし」 「はい! 二人の秘密基地ですね!」


 私たちは堆肥場の前で、泥とカビの匂いに包まれながら笑い合った。  ガラス越しの疎外感は、もう消えていた。



 帰り道。  正門に向かう途中、背後から声がかかった。


「二人とも! 待って!」


 サラさんが、小走りで追いかけてきた。  息を切らせながら、私たち二人の前に立つ。  そして、ふわりと漂う土の匂いに気づいて、困ったように眉を下げた。


「……もう。二人とも、泥だらけじゃない。もしかして、堆肥場に行ってたの?」 「あはは、バレたか」  先輩が頭をかく。


 サラさんは、「仕方ないなぁ」という顔で苦笑すると、カバンから「大判の除菌ボディシート」を取り出した。


「これから電車に乗るんでしょ? そのままだと、周りの人がびっくりしちゃうよ。……はい、これで拭いて」


 彼女は、先輩の頬についた泥を、優しく、丁寧に拭き取った。  そこには嫌悪感などなく、まるで弟の世話を焼くような親愛の情があった。  そして、私にもシートを渡してくれた。


「きのこちゃんも。制服、汚れてるよ。……女の子なんだから、気をつけてね?」 「……あ、ありがとうございます」


 サラさんは、私をじっと見て、ふっと目を細めた。


「……神木くん、すごく楽しそうな顔してた。実験室にいる時より、生き生きしてるかも」  彼女の声は、少しだけ寂しそうで、でも温かかった。 「私、土いじりだけはどうしても苦手だから……。そういう『泥んこのパートナー』は、きのこちゃんには敵わないな」


「……!」


「でも、勉強は別だよ?」  サラさんは、ニッコリと悪戯っぽく微笑んだ。 「私も、神木くんと同じ研究室の仲間として負けないから。……きのこちゃんも、早くこっちにきてね。待ってるからね」


 サラさんはひらひらと手を振って、夕暮れのキャンパスへと戻っていった。  その背中は、やっぱり白くて、綺麗で、眩しかった。


 私は、手渡された除菌シートを握りしめた。  やっぱり、この人には敵わない。  でも、嫌な感じは全くしなかった。  彼女は彼女なりのやり方で、先輩を大切に思っていて、私のことも「未来の後輩」として歓迎してくれているんだ。


「……先輩」 「ん?」 「私、絶対に合格します。そして、あの綺麗な実験室に、泥付きの長靴で堂々と入ってやります!」 「それは真白さんに怒られるから、履き替えて入ろうね……」


 先輩のツッコミを聞きながら、私は夕焼け空を見上げた。

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