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第26話: 輝く笑顔と、除菌された優しさ

5月。  ゴールデンウィークが明け、受験生にとっては最初の試練である「進路相談」の時期がやってきた。


「……菌田きんだ。本気か?」


 担任の先生が、私の模試の成績表と志望校調査票を交互に見比べて、深い溜息をついた。 「第一志望、K大学農学部・応用生命科学科。……神木くんの行ってる大学だな」 「はい! 菌類の偉大さを世界に啓蒙するため、彼の研究室ラボへ侵入します!」 「侵入する前に、入試という壁があるんだぞ」


 先生は赤ペンで成績表を叩いた。 「生物は偏差値75。文句なしの学年トップだ。だが……英語28、数学32。これはどういうことだ?」 「英語は必要ありません。菌類は胞子とフェロモンで語りかけますから」 「大学の論文は英語で書かれてるんだよ! このままじゃE判定どころか、記念受験レベルだぞ」


 ガーン。  薄々は気づいていたが、改めて数字で突きつけられると痛い。  私はしおれたエノキタケのように肩を落とし、帰路についた。


 放課後。大学のカフェテリア。  私は、神木先輩に泣きついた。


「……というわけで、崖っぷちなんです」 「ははは……。まあ、予想はしてたけどね」


 先輩は苦笑いしながら、私のボロボロの答案用紙を見た。 「でも、安心して。約束しただろ? 僕が君を引っ張り上げるって」 「先輩……!」 「君の脳みそが『菌類』で埋め尽くされているなら、その回路を利用すればいいんだ」


 先輩は、自作の単語帳を取り出した。 「今日から**『菌類式記憶術』**を叩き込む。いいかい? 普通に覚えようとするな。全てを菌に変換しろ」


「例えば、『Resistance(抵抗)』」 「わかりません!」 「じゃあ、抗生物質に対する菌の『耐性』だと思え」 「なるほど! 耐性菌のレジスタンスですね! 覚えました!」


「次は『Culture(文化)』」 「わかりません!」 「シャーレの中の『培養』だと思え」 「カルチャーは培養! 常識ですね!」


 すごい。  先輩の翻訳を通すと、無機質な英単語が、生き生きとした菌類の生態に見えてくる。  私は猛烈な勢いでペンを走らせた。  机の上は、消しゴムのカスと、書き殴ったルーズリーフでまたたく間に散らかっていった。



 私、真白ましろサラは、講義を終えてカフェテリアへ向かっていた。  次の実験のレポートをまとめるため、いつもの席でハーブティーでも飲もうかと思って。


 ふと、窓際の席に、見知った背中を見つけた。  同じ学科の神木くんだ。  彼は、誰かと向かい合って勉強しているようだった。


「……あれ?」


 相手は、先日会ったばかりの高校生。  確か、きのこちゃん。  神木くんの高校時代の後輩で、ちょっと……うん、かなり「個性的」な女の子だ。


 私は、思わず足を止めてしまった。  二人の様子は、とても熱心だ。  神木くんが一生懸命教えて、きのこちゃんが必死にメモを取っている。  微笑ましい光景……のはずなんだけど。


 私の目は、どうしても「あるもの」を捉えてしまう。


 ――机の上の、惨状を。


 大量の消しゴムのカスが雪のように積もっている。  黒鉛で汚れたノートの端。  そして、きのこちゃんの手。シャーペンの芯の粉がついて、指先が真っ黒だ。  さらに、彼女の制服の袖口には、どこかで擦ったような土汚れが……。


「……うわぁ」


 私の胸が、ザワッとした。  別に潔癖症ってほどじゃない……つもりだけど、あれは気になる。  あんなに粉っぽいところで深呼吸したら、喉を痛めちゃうよ?  それに、あんな黒い手で顔を触ったら、肌荒れしちゃうし。


 神木くんも神木くんだよ。勉強に夢中なのはいいけど、環境整備も大事なのに。


「……よし」


 私はトートバッグを持ち直した。  放っておけない。  あの子、頑張ってるみたいだし。先輩として、ちょっとだけ手助けしてあげようかな。


 私は、二人の席へと歩み寄った。


 勉強に熱中していた私の耳に、よく通る綺麗な声が届いた。


「神木くん! お疲れ様、まだ残ってたんだ?」


 顔を上げると、そこには光が立っていた。  純白のブラウスに、淡いブルーのロングスカート。  真白サラさんだ。  先日会った時と同じ、爽やかな笑顔。そして、ふわりと漂う柔軟剤の清潔な香り。


「あ、真白さん。お疲れ様」 「さ、サラさん! こんにちは!」  私は慌てて立ち上がり、ペコっと頭を下げた。  やばい。私、今すごい顔してるんじゃない? 勉強のしすぎで髪はボサボサだし、手も真っ黒だ。


 サラさんは、そんな私の様子を見て、優しく微笑んだ。 「久しぶりだね、きのこちゃん。……すごい集中力だね。お勉強、頑張ってるんだ?」


 彼女の視線が、机の上に落ちる。  散乱する消しゴムのカス。黒ずんだ机。  普通なら「汚い」と顔をしかめるところだ。  でも、彼女は違った。


「……あはは、すごいことになってるね。」


 彼女は、まるで散らかった弟の部屋を見るような、親しみのある口調で言った。  そして、カバンから可愛らしい手のひらサイズの機械を取り出した。  テントウムシの形をした、卓上クリーナーだ。


「ちょっとごめんね。……机がザラザラしてると、気になっちゃうでしょ?」


 ウィィィン……。  静かな音と共に、サラさんがクリーナーを走らせる。  魔法のように、消しゴムのカスが吸い込まれていく。  さらに、彼女は取り出した「除菌ウェットティッシュ」で、机の上をサッと拭き上げた。


 一瞬で、私の目の前がピカピカに輝き出した。


「……はい、スッキリした」  サラさんは満足げに頷き、今度は私の手を見た。 「あ、手も真っ黒だよ。……頑張ってる証拠だけど、そのままお菓子とか食べちゃダメだよ?」


 彼女は、新しいウェットティッシュを一枚取り出して、私に手渡してくれた。 「はい、これ使って。アルコール入りだから、インク汚れも落ちやすいよ」


「……あ、ありがとうございます……」  私は、恐縮しながら受け取った。  ひんやりとした感触。  私の薄汚れた手が、綺麗に拭い去られていく。


 ……なんだろう、この敗北感。  嫌味な感じは全くない。  ただ、普通に気が利く、綺麗好きで優しいお姉さん。  だからこそ、私の「ガサツさ」との対比が際立ってしまって、直視できないほど眩しい。

「神木くんも。根を詰めすぎると、脳細胞が酸欠になっちゃうよ」  サラさんは、神木先輩にも微笑みかけ、カバンからポットとタッパーを取り出した。


「これ、よかったら食べて。サークルのみんなに配ろうと思って焼いてきたんだけど、余っちゃって」


 コトッ。  置かれたのは、手作りの**「クッキー」と、紙コップに注がれた「ハーブティー」**。


「クッキーはジンジャー入り。冷房で冷えた体を温めてくれるよ。お茶はローズマリーね。記憶力アップにいいらしいから」


 完璧だ。  女子力の塊だ。  私がいつも先輩に押し付けている「キクラゲ」や「乾燥ナマコ」とは、次元が違う。


「え、いいの? ありがとう、真白さん。……ちょうど小腹が空いてたんだ」  先輩が、嬉しそうにクッキーを手に取る。  その顔を見て、私の胸がズキンと痛んだ。  先輩は、やっぱりこういう「普通の女の子の手作り」が嬉しいんだ。  私みたいな、ビーカーで作った料理じゃなくて。


「ふふ。……じゃあ、邪魔してごめんね。頑張ってね、きのこちゃん」  サラさんは、ニッコリと手を振って、颯爽と去っていった。  残されたのは、石鹸の香りと、清潔になった机、そしてハーブティーだけ。


「……すごい人ですね、サラさん」  私がポツリと言うと、先輩はクッキーをかじりながら苦笑した。 「うん。……ちょっと潔癖なところはあるけど、すごく気が利くし、優しいんだよ。クラスでも人気者なんだ」


「……はい」  悔しいけれど、その通りだ。  あのクッキーには、毒なんて入っていない。純粋な善意だけだ。  だからこそ、勝てないと思う。  あんな「光の存在」に、カビと菌類を愛する私が、どうやって対抗すればいいの?


 私は、唇を噛んだ。  このままじゃ、先輩はあの「清潔で居心地のいい世界」に連れて行かれてしまう。


「……飲みましょう、先輩」  私はカップを手に取った。 「飲んで、栄養にして、もっと勉強します! ……あの白い人に、雑菌の底力バイタルを見せつけるまでは、死んでも死にきれません!」


「はは、その意気だ」  先輩が笑って、私のカップに自分のカップを軽く当てた。 「負けないでね、菌田さん。……僕は、君の泥臭い根性、嫌いじゃないからさ」


 乾杯の音が、小さく響いた。


 それから数時間。  私は鬼のように勉強した。  サラさんへの対抗心と、ハーブティーのカフェイン効果で、脳がフル回転した。


 そして、夜8時。


「……うぅ……頭が……熱い……」  私は机に突っ伏した。  視界が回る。思考回路がショートした。  知恵熱だ。普段使わない脳の領域を酷使しすぎた反動だ。


「おい、大丈夫か!? 顔が真っ赤だぞ!」  先輩が慌てて私の額に手を当てる。 「熱い! オーバーヒートだ!」


 先輩はカバンをガサゴソと探り、何かを取り出した。  それは、私が先輩にあげた**「乾燥シロキクラゲ」**の残りだった。


「水! 水で戻して!」  先輩は手際よくキクラゲを水で戻し、プルプルになったそれを、私の額にペタリと貼り付けた。


「ひゃっ……冷たい……」 「じっとしてろ。気化熱で冷やすんだろ? 君が教えてくれた方法だ」


 先輩が、私の背中をさすってくれる。  その手は、サラさんのような完璧な手当ではないけれど、温かくて、安心する手だった。


「……先輩」 「ん?」 「サラさんのクッキー……すごく美味しかったです……」  私は、天井を見上げながら呟いた。 「悔しいけど……本当に、いい匂いで……」


 目から、涙がこぼれた。  勉強の疲れか、熱のせいか、それとも敗北感か。


「……うん」  先輩は、何も言わずに私の涙を指で拭った。 「でも、僕は……君が作った『泥色の漢方茶』も、嫌いじゃないよ。……あれを飲むと、目が覚めるからね」


 先輩の言葉に、私は少しだけ笑った。  額にはキクラゲ。  口の中にはクッキーの甘さ。  そして隣には、大好きな先輩。


 私の受験生活は、まだ始まったばかり。  強力なライバル(除菌の女王)も現れた。  前途は多難だ。  でも、この熱がある限り、私の菌糸は枯れない。


「……絶対、合格します」 「ああ。一緒に頑張ろう」


 カフェテリアの片隅。  キクラゲを貼った女子高生と、それを介抱する大学生。  傍から見れば奇妙な光景だが、それは私たちなりの「共生」の形だった。

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