第25話:先輩の隣は、石鹸の香りがした……
4月。 それは、出会いと別れの季節であり、日本の生物相が最も劇的に変化する時期だ。 桜は散り、若葉が芽吹き、気温の上昇と共に微生物たちの活動も活発化する。 世界はエネルギーに満ちている。
……ただし、今の私――菌田きのこを除いては。
「菌田さーん。聞いてますかー? 『Culture』の意味は?」 「……はい。培養、です」 「違います。ここでは『文化』です。何度言わせるんですか」
放課後の教室。 窓の外では、新入生たちの勧誘活動や部活の掛け声が響いているのに、私は一人、埃っぽい教室の隅で英語教師と向かい合っていた。 補習だ。 3年生になった最初の中間テストで、私は見事なまでの赤点を叩き出したのだ。生物以外、全科目で。
「はぁ……。菌田さん、志望校は『神木くんと同じ大学の農学部』でしたよね?」 「はい! 応用生命科学科で、菌類の偉大さを世界に知らしめるのが夢です!」 「今の英語力だと、菌類どころか正門で門前払いですよ」
先生の冷たいツッコミが、胸に突き刺さる。 わかっている。わかっているのだ。 私の学力が、志望校のレベルに到達するには、菌糸を成層圏まで伸ばすくらいの奇跡が必要だということは。
でも、焦りの原因はそれだけじゃない。 神木先輩だ。 3月に感動の卒業式を迎え、晴れて大学生になった先輩。 制服を脱ぎ、私服でキャンパスに通うようになった先輩は、なんだか急に……遠くに行ってしまったような気がするのだ。
「……終わりました! 帰ります!」 私は強引に補習を切り上げ、カバンを掴んで教室を飛び出した。 今日は、久しぶりに先輩と会う約束をしている。 入学式以来、ガイダンスや新歓コンパで忙しかった先輩と、2週間ぶりの再会だ。
「急がなきゃ……! 先輩の常在菌バランスが、新しい環境で乱れているかもしれないわ!」
私はローファーを鳴らし、夕暮れの通学路を全力疾走した。 目指すは、先輩が通う大学の正門前。 そこは、私が目指す場所であり、今の私にはまだ許されていない「聖域」だ。
電車に揺られること30分。 私は息を切らせて、大学の最寄り駅に降り立った。 駅の周りからして、空気が違う。 歩いている学生たちが、みんな大人びて見える。おしゃれなカフェ、難しそうな専門書を抱えた人々。 汗だくで、少しスカートがよれた制服姿の自分が、急に場違いな異物のように思えてくる。
「……ううん、負けない。私には先輩がいるもの」
私は胸元の「第2ボタンのネックレス」を握りしめ、大学の正門へと向かった。 レンガ造りの立派な門。その奥に広がる、広大なキャンパス。 夕日に照らされた並木道は、キラキラと輝いて見えた。
その門の横に、見慣れたシルエットがあった。 少し背が伸びたような、スラリとした立ち姿。 チェックのシャツに、ベージュのカーディガンを羽織った、爽やかな青年。
「……あ、先輩!」
私は大きく手を振ろうとした。 けれど、その手は空中で止まった。
先輩は、一人ではなかった。 彼の隣に、一人の女性が立っていたのだ。
「……え?」
その人は、まるで発光しているかのように美しかった。 透き通るような色白の肌。 風にさらりと流れる、艶やかな黒髪のストレートヘア。 身につけているのは、シミ一つない純白のワンピースと、清潔な白いカーディガン。 夕日のオレンジ色の中でも、彼女だけは雪のように白く、清らかに見えた。
彼女は、先輩と親しげに話していた。 先輩が、困ったように、でも楽しそうに笑っている。 私に見せる顔と同じ。でも、少しだけ「大人」の顔。
ズキン。 胸の奥で、嫌な胞子が芽吹く音がした。 誰? 同じ学部の人? なんであんなに距離が近いの?
その時。 先輩の襟元に、風で舞ってきた小さな葉っぱか、ゴミがついたようだった。 白い女性が、すっと手を伸ばした。
(……触るの?)
私は息を呑んだ。 しかし、彼女の行動は私の予想を裏切った。 彼女はポケットから、小さなスプレーボトルを取り出し、シュッ、と先輩の襟元に吹きかけたのだ。 そして、真っ白なハンカチで、そのゴミを優しく、丁寧に拭い取った。
「……神木くん。襟元、汚れてたよ」 「あ、ごめん。ありがとう……相変わらず綺麗好きだね、真白さんは」 「ふふ。清潔は心の平穏ですから」
その仕草は、あまりに自然で、洗練されていた。 まるで、汚れた子犬を世話する飼い主のような、慈愛に満ちた手つき。 そして、先輩もそれを受け入れている。
私は、自分の手を見た。 補習のチョークの粉がついた指先。 走ってかいた汗。 カバンの中に入っている、観察用の腐葉土。
汚い。 あの白い人の隣に立つには、私はあまりに「雑菌」だらけだ。
「……菌田さん?」
不意に、先輩がこちらに気づいた。 私の存在に気づいた先輩の顔が、パッと明るくなる。 「あ! おーい、菌田さん! こっち!」
逃げ出したい気持ちを抑え込み、私は笑顔を貼り付けて駆け寄った。 「せ、先輩! お久しぶりです! 遅れてすみません!」
私が近づくと、隣にいた白い女性が、ゆっくりとこちらを向いた。 近くで見ると、さらにその美しさに圧倒される。 毛穴が見当たらない陶器のような肌。整った目鼻立ち。 そして何より、彼女からはフワリと**「石鹸」**の香りがした。
「……紹介するよ。彼女は、真白サラさん。僕と同じ学科の同級生なんだ」 先輩が紹介してくれる。 「真白さん、こっちが言ってた……高校時代の後輩の、菌田さん」
「初めまして。真白サラです」 彼女――サラさんは、鈴が鳴るような声で挨拶し、ニッコリと微笑んだ。 それは聖母のように優しい笑顔だったが、その瞳は、私の全身をX線のようにスキャンしていた。
「あ、初めまして! 菌田きのこと申します! 現在、粘菌の走光性について研究中の受験生です!」 私はいつもの調子で自己紹介をし、右手を差し出した。 握手をしようとして。
ピクリ。 サラさんの眉が、ほんの1ミリほど動いた。 彼女の視線は、私の手――爪の間にわずかに残ったチョークの粉や、汗ばんだ掌に釘付けになっていた。
「……よろしくね、きのこちゃん」 サラさんは笑顔を崩さず、ポケットから何かを取り出した。 握手をする代わりに、私の手にポンと置かれたもの。 それは、個包装された**「除菌ウェットティッシュ」**だった。
「え?」 「ここまで走って来たんでしょ? これ使ってね。」
「……あ、ありがとうございます……」 私は毒気を抜かれ、素直にウェットティッシュで手を拭いた。 アルコールの冷たい感触。 私の手についていた「生活の汚れ」が、綺麗に拭い去られていく。 それはまるで、私という存在そのものが「殺菌」されているような気分だった。
「ふふ、綺麗になったね!」 サラさんは満足げに頷いた。 「神木くん、じゃあ私はこれで…。明日の『微生物制御学』のレポート、忘れないでね?」 「うん、わかってる。ありがとう真白さん」
サラさんは優雅に一礼し、石鹸の香りを残して去っていった。 その背中は、一点の曇りもなく真っ白で、大学というアカデミックな場所に完璧に馴染んでいた。
「……すごい人ですね」 私がポツリと言うと、先輩は苦笑いした。 「うん。彼女、ちょっと潔癖症なところがあってさ。いつも除菌スプレーを持ち歩いてるんだ。あだ名は『無菌室の女王』」 「無菌室……」 「でも、すごく優秀なんだよ。入学早々、教授に滅菌技術の論文を提出して認められたりしてて。……僕なんかより、ずっと研究者向きだよ」
先輩の声に、尊敬の色が混じっている。 ズキン。 また胸が痛んだ。 先輩と彼女は、同じステージに立っている。 共通の話題があり、共通の目標がある。 私は……ただの、出来の悪い後輩だ。
気を取り直して、私たちは駅前のカフェに入った。 久しぶりのデートだ。楽しまなきゃ損だ。
「先輩、大学はどうですか? 農学部ってやっぱり泥だらけですか?」 「いや、1年生の間は教養科目が多いから、まだ座学ばっかりだよ。でも、サークルで畑を借りて野菜を作り始めたんだ」 先輩がスマホの写真を見せてくれる。 作業着姿の先輩が、泥んこになって笑っている。隣には、やはり作業着でも真っ白なままのサラさんが写っていた。
「……楽しそうですね」 「うん。でも、勉強は大変だよ。化学とか英語の論文とか読まなきゃいけないし」 先輩がコーヒーを飲む。 「菌田さんはどう? 受験勉強、順調?」
その質問に、私は言葉を詰まらせた。 今日の補習のこと。 言えない。 キラキラしている先輩に、泥沼でもがいている自分の姿を見せたくない。
「……ま、まあまあです! 生物は学年トップですし!」 「そっか、よかった。……でも、英語もやっといた方がいいよ。大学入ってから苦労するから」 「……はい」
会話が、続かない。 以前なら、私が変なキノコの話をして、先輩がツッコんで、無限に話が続いたのに。 今は、先輩の口から出る「単位」とか「サークル」とか「レポート」という単語が、私には異国の言葉のように聞こえる。
透明な壁。 高校生と大学生の間にある、見えないけれど分厚い壁。 そして、その壁の向こう側には、あの白い人がいる。
「……ねえ、菌田さん」 先輩が、私の顔を覗き込んだ。 「元気ない? お腹空いてる?」 「いえ……違います」 私は首を振った。 先輩は優しい。変わらず優しい。 でも、その優しさが、今は少し辛い。
「……先輩。私、本当にそっちに行けるんでしょうか」 弱音がこぼれた。 「先輩のいる場所は、すごく遠くて……綺麗で。私みたいなカビ臭い人間が、入っちゃいけない気がして」
サラさんの真っ白なワンピースと、自分の薄汚れたローファーを思い出す。 除菌された世界。 そこに、菌類の居場所はあるのだろうか。
先輩は、少し驚いた顔をして、それからカップを置いた。 そして、テーブル越しに私の手を握った。
「……菌田さん」 先輩の手は、温かかった。 でも、前とは少し違う。農作業でできたのか、少しマメができて、ゴツゴツしていた。
「大学はね、綺麗な場所だけじゃないよ」 先輩が笑う。 「確かに真白さんみたいに完璧な人もいるけど……畑は泥だらけだし、実験室は薬品臭いし、食堂はいつも騒がしい。……君が好きな『カオス』がいっぱいあるよ」
「……カオス?」 「うん。それに……」 先輩は、少し力を込めて私の手を握りしめた。 「君がいないと、やっぱり調子狂うんだ。周りは真面目ないい子ばっかりでさ。……君みたいに、いきなり『ドブ色のスープ』を飲ませてくるような刺激的な奴はいないから」
「……それ、褒めてます?」 「褒めてるよ。僕には、君の『菌』が必要なんだ」
先輩の言葉が、冷え切っていた心に染み渡る。 菌が必要。 それは、私にとって最高の愛の言葉だ。
「だから……おいでよ。絶対に」 先輩の瞳が、私を射抜く。 「僕が引っ張り上げてやる。勉強も教えるし、サポートもする。……だから、諦めないで」
涙が出そうになった。 先輩は、待ってくれている。 あの白い壁の向こうから、手を差し伸べてくれている。 なら、私がやるべきことは一つだ。
その手を掴み、よじ登り、壁を乗り越えて――あの白いキャンパスを、私の菌糸で埋め尽くすことだ。
「……はい! 行きます!」 私は涙をこらえて、力強く頷いた。 「覚悟してください先輩! 私が合格したあかつきには、大学の食堂を『発酵食品専門店』に変えてみせますから!」 「それは阻止するけど……まあ、待ってるよ」
先輩が笑った。 その笑顔を見たら、サラさんへの劣等感も、勉強への不安も、少しだけ小さくなった気がした。
カフェを出ると、夜風が心地よかった。 駅の改札前。 先輩が、カバンから何かを取り出した。
「これ。あげる」 渡されたのは、一冊の参考書だった。 『高校英語・超基礎から始める菌類語(単語帳)』。 ……ん? タイトルがおかしい。よく見ると、手書きで修正されている。
「僕が使ってた単語帳なんだけど……君のためにカスタマイズしておいた」 中を開くと、全ての例文が書き換えられていた。 『culture(文化)』→『culture(培養)』 『colony(植民地)』→『colony(菌の集落)』 『love(愛)』→『symbiosis(共生)』
「……先輩、これ……」 「君なら、こう覚えた方が早いだろ?」 先輩が照れくさそうに鼻をこする。 「偏差値30でも関係ない。……僕が、君の脳を『発酵』させてやるよ」
私は参考書を胸に抱きしめた。 重い。先輩の愛が詰まっている。 これさえあれば、英語なんて敵じゃない。
「ありがとうございます! これを聖書にします!」 「うん。……じゃあ、来週から特訓開始ね。スパルタで行くから覚悟して」 「望むところです!」
私たちは笑顔で別れた。 帰り道。 私は、もらった参考書の表紙を撫でながら、空を見上げた。
あの白いライバル、真白サラ。 彼女は強敵だ。除菌という、私にとって最悪の武器を持っている。 でも、負けられない。 彼女が「無菌の楽園」を作ろうとするなら、私はその隙間に根を張る「菌類魂」を見せつけてやる。




