第24話:春の長雨は愛の培養液 ~私たちは永遠に共生する~
3月下旬。春休み。
天気予報は、無情にも「週末は警報級の大雨」を告げていた。
せっかくのお花見シーズン。世間のカップルたちは「最悪だね」「予定キャンセルしようか」と嘆いていることだろう。
しかし、私――菌田きのこにとって、この天気図は「招待状」に他ならなかった。
低気圧が停滞し、南からの湿った空気が流れ込む。
気温は高く、湿度はマックス。
それは、冬の間眠っていた菌類たちが一斉に目を覚まし、胞子を爆発させるための「号砲」だ。
待ち合わせ場所は、都心から電車で2時間。
奥多摩のさらに奥、苔と清流で知られる**『御岳ロックガーデン』**。
ザァァァァ……。
激しい雨が、駅の屋根を叩いている。
改札を出たところに、神木先輩は立っていた。
制服ではない。私服だ。
ベージュのチノパンに、モスグリーンのマウンテンパーカー。足元はしっかりとしたトレッキングシューズ。
1年前なら「こんな雨の中、帰ろうよ」と泣き言を言っていただろう先輩が、今は静かに雨足を見つめ、どこか悟りを開いたような顔をしている。
「……お待たせしました、先輩!」
私が駆け寄ると、先輩が振り返った。
私を見て、少しだけ目を丸くする。
「おはよう、菌田さん。……すごいね、その格好」
今日の私は、デート用のおしゃれなワンピース……の上から、プロ仕様の**「迷彩柄ポンチョ」を被り、足元は泥道対応の「ゴム長靴」**という、完全に「森の調査員」スタイルだった。
「おはようございます。デート日和ですね、先輩!」
「……うん。一般的には『悪天候』だけど、君にとっては『晴天』だもんね」
先輩が苦笑する。
「それに、僕ももう学習したよ。君が『デート』って言ったら、それは『フィールドワーク』のことだって」
先輩は自分のリュックを叩いた。
「着替えも、タオルも、温かい飲み物も持った。……覚悟はできてるよ」
「素晴らしいです! さすが私の宿主!」
私たちは、雨煙る登山道へと足を踏み入れた。
他の観光客は一人もいない。
世界には、雨音と、森の匂いと、私たち二人しかいないようだった。
森の中は、薄暗かった。
厚い雨雲と、鬱蒼と茂る木々が光を遮り、昼間だというのに夕暮れのような静けさが漂っている。
しかし、その空気は濃密だった。
雨に濡れた土、苔、朽ちた木々。それらが放つ芳醇な香りが、鼻腔をくすぐる。
「……ふぅー、吸ってぇー、吐いてぇー」
私は深呼吸を繰り返した。
「わかりますか先輩。この濃厚な『雨の匂い』。土の中の放線菌たちが活発に活動している証拠です」
「うん……。すごい土の匂いだね」
先輩もフードを目深に被りながら、周囲を見渡した。
「でも、なんか落ち着くな。……予備校の乾燥した空気より、ずっといい」
私たちは、滑りやすい岩場を慎重に進んだ。
岩肌には、鮮やかな緑色の苔がびっしりと張り付き、雨水を吸って宝石のように輝いている。
そして、倒木や落ち葉の間からは、無数のキノコたちが顔を出していた。
「あ! 先輩見てください! 『アラゲキクラゲ』の群生です!」
私は倒木に駆け寄った。
雨を吸ってプルプルに膨らんだ茶色い耳のようなキノコが、幹を覆い尽くしている。
「うわ、すごい量……。なんか、生き物みたいだ」
「生きてますよ! 触ってみてください、この弾力!」
先輩はおずおずと指で触れる。
「……うわ、プニプニしてる。……君が夏祭りに僕の浴衣に仕込んだやつと同じ感触だ」
「あの時は乾燥品でしたが、これが生の感触です。官能的でしょう?」
「表現が独特すぎるけど……まあ、嫌いじゃない感触かも」
さらに奥へ進むと、巨大なブナの倒木があった。
それは完全に苔に覆われ、森の一部へと還ろうとしていた。
私はその前に跪き、ルーペを取り出した。
「先輩。ここが今日のメインディッシュです」
「この、腐った木が?」
「『腐った』のではありません。『再生の揺り籠』です」
私が指差した先には、肉眼では見落としてしまいそうな、小さな、しかし鮮やかな色彩があった。
**『変形菌(粘菌)』**だ。
黄色、オレンジ、白。
宝石のような粒々が、腐木の上で銀河のような模様を描いている。
「……きれいだ」
先輩が私の隣にしゃがみ込み、覗き込む。
「これ、文化祭の時に教室を埋め尽くしたあいつら?」
「種類の違う親戚ですが、同じ仲間です。彼らは木を分解し、土に還し、また新しい森を作る手助けをしています」
雨が、私たちのポンチョを叩く。
バラバラ、ボトボト。
その音は、森全体が呼吸している音のように聞こえた。
「……ねえ、菌田さん」
先輩が、雨音に負けないように少し大きな声で言った。
「僕、ずっと不思議だったんだ」
「何がですか?」
「なんで君は、こんなジメジメした、暗い場所が好きなのかなって。普通、女の子ってもっとキラキラした場所が好きじゃない?」
私はルーペを下ろし、先輩を見た。
先輩の髪は湿気で少しうねり、まつ毛には水滴がついている。
その瞳は、真剣に私を映していた。
「……キラキラした場所は、疲れます」
私は正直に答えた。
「完成された美しさは、変化がありません。でも、ここは違います」
私は、ドロドロに腐りかけた倒木を撫でた。
「崩れて、溶けて、混ざり合って……境界線がなくなっていく場所。死と生がカオスの中で循環している場所。……私、そういう『曖昧で濃厚な関係』が好きなんです」
私は先輩を見上げた。
「綺麗事だけじゃない、泥臭い部分も含めて全部飲み込んで、養分にしちゃうような……そういう強さが、好きなんです」
先輩は、私の言葉を反芻するように少し黙って、それからふっと笑った。
「……そっか。だから君は、僕を選んだのかな」
「え?」
「僕も、君のおかげでだいぶ『泥臭く』なったからね。E判定でもがいたり、変なスープ飲んでのたうち回ったり……。キラキラとは程遠い、カオスな一年だったよ」
先輩が手を伸ばし、私のフードについた葉っぱを取ってくれた。
「でも、そのおかげで僕は変われた。……君の言う『腐敗と発酵』の違いが、今は少しわかる気がするよ」
先輩の手が、私の頬に触れた。
冷たい雨の中で、その指先だけが熱かった。
ドキリとする。
こんなジメジメした森の中で、泥だらけの長靴を履いているのに、どんな恋愛映画のワンシーンよりも胸が高鳴る。
「……お腹、空きましたね」
私は照れ隠しに立ち上がった。
「ランチにしましょう。とっておきの場所があります」
私たちは、森の中にある古びた東屋に避難した。
屋根があるだけの簡素な休憩所だが、雨を凌ぐには十分だ。
周りは白い霧に包まれ、世界から隔離されたような密室感がある。
「さあ、お弁当です!」
私はリュックから、重箱を取り出した。
あの時、予備校に持ち込んだ「黒い重箱」だ。
でも、今日の中身はさらにパワーアップしている。
「ジャジャーン! **『春の特製・発酵熟成御膳』**です!」
蓋を開ける。
プワン、と漂う強烈な香り。
・『ふなずし』のおにぎり。
・『豆腐よう』のディップ。
・『キノコの塩麹漬け』。
・『納豆とクサヤのアヒージョ』。
彩りは茶色と灰色。
匂いは……バイオテロ級だ。
「……くっさ!!」
先輩がのけぞった。
「菌田さん!? デートのお弁当だよね!? クサヤ入ってない!?」
「入ってます! 旨味の爆弾です!」
「東屋の中に匂いが充満してるよ! クマも逃げ出すよ!」
先輩は鼻をつまみながらも、もう慣れた手つきで箸を伸ばした。
「……はぁ。もう驚かないぞ。いただきます」
パクッ。
クサヤと納豆のアヒージョを口に入れる。
「……んぐッ。……濃い! すごい味だ!」
「ご飯が進むでしょう?」
「進むけど! ……でも、なんか癖になるな、これ……」
先輩は、文句を言いながらもモリモリと食べた。
1年前なら一口で気絶していたかもしれない劇物を、平然と消化している。
彼の消化器官内細菌叢は、完全に私仕様に書き換えられているようだ。
「……美味しいよ、菌田さん」
完食した先輩が、お茶を飲みながら言った。
「これ食べると、なんか体の底から力が湧いてくる気がする」
「それが『発酵』の力です。毒にも薬にもなる、ギリギリのラインを攻めるのが私の愛です」
「愛が重いし臭いよ……」
先輩が笑う。
雨足が少し弱まってきた。
東屋の軒先から、ポタポタと雫が落ちる音だけが響く。
先輩が、ふと真面目な顔になった。
「ねえ。……ちょっと、話していい?」
「はい?」
先輩は、自分のカバンのポケットから、何かを取り出した。
それは、小さな黒いケースだった。
まさか。
指輪?
いや、先輩に限ってそんなキザなことは……。
「……これ」
先輩がケースを開ける。
中に入っていたのは――**『ボタン』だった。
黒い、学ランのボタン。
でも、ただのボタンではない。
透明な樹脂で固められ、その中に『小さな白い花』と『菌糸のような金色の糸』**が封じ込められている、手作りのアクセサリーになっていた。
「……これ、先輩の……」
「第2ボタン。卒業式の日にあげたやつ」
「えっ、あ、違います! それは私が持ってます! 今も胸ポケットに入ってます!」
私は慌てて自分の胸元を押さえた。
「あはは、知ってるよ。これは、袖のボタン」
先輩が照れくさそうに言う。
「君に第2ボタンをあげた後、家に帰ってから……自分でも何か残したくてさ。袖のボタンを外して、君が好きな『レジン工作』を見よう見まねでやってみたんだ」
先輩の手作り。
しかも、デザインが……。
「この白い花……『ナズナ』ですよね? 花言葉は……」
「『あなたに私のすべてを捧げます』」
先輩が、すらすらと答えた。
「調べたんだ。……ちょっと重いかなって思ったけど、君のクサヤ弁当に比べれば可愛いもんだろ?」
先輩は、そのボタンをチェーンに通し、私の首にかけようとした。
「……つけても、いい?」
「……は、はい……!」
先輩の手が首筋に触れる。
冷たい指先。でも、そこから伝わる体温は熱い。
ペンダントヘッドが、私の胸元に収まる。
「菌田さん」
先輩が、私の肩を掴んで、まっすぐに私を見た。
「僕は4月から大学生になる。君は高校生。……環境は変わるし、会える時間は減ると思う」
「……はい」
「でも、忘れないで。僕は、君という菌に感染した、最初の宿主だってことを」
先輩の言葉選びが、完全に私寄りになっている。
それがおかしくて、嬉しくて、涙が出そうになる。
「大学に行っても、新しい友達ができても……僕の心の菌床の一番深いところには、いつも君がいる。他の雑菌なんて寄せ付けないくらい、君の菌糸がびっしり張ってるから」
「……先輩……!」
「だから……これからも、僕を侵食し続けてください」
それは、どんな「愛してる」よりも、私にとっては殺し文句だった。
侵食していい。
寄生していい。
一生、離れないでいてほしい。
私は、感極まって叫んだ。
「……はいッ!! 喜んで!!」
私は先輩に飛びついた。
「覚悟してくださいね! 大学生になったら、合コンとかサークルとか誘惑が多いでしょうけど、全部駆逐しますから! 先輩の周りに『魔除けのキノコ』を植えまくって、結界を張りますから!」
「うわ、それは怖い! ほどほどにして!」
先輩がよろけながら私を受け止める。
抱きしめられた体から、微かにクサヤの匂いがしたけれど、それすらも愛おしい。
雨音が、祝福の拍手のように降り注いでいた。
帰り道。
雨は上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。
雨上がりの森は、キラキラと輝き、地面からは湯気が立ち上っている。
それは、世界が発酵し、新たな命を育む準備をしている姿だ。
私たちは手をつないで駅への道を歩いた。
先輩の胸には、私がクリスマスにあげた「ベニテングタケのストラップ」。
私の胸には、先輩がくれた「レジンのボタン」。
互いの証を身につけて。
「……ねえ、菌田さん」
「はい?」
「大学の入学式、来てくれる?」
「えっ、いいんですか? 部外者ですよ?」
「いいんだよ。……看板の前で、一緒に写真撮りたいんだ」
先輩が、はにかんだように笑う。
「それに、スーツ姿……君に一番最初に『観察』してほしいし」
「!! 観察、ですか!?」
「うん。僕の健康状態とか、菌のバランスとか……君にチェックしてもらわないと、なんか落ち着かなくて」
先輩の言葉に、私は胸が熱くなった。
「見てほしい」でも「褒めてほしい」でもなく、「観察してほしい」。
それは、私が研究者であることを全肯定してくれる、最高の殺し文句だ。
「わかりました! 絶対に行きます! お祝いに『紅白の毒キノコ饅頭』を持って!」
「饅頭は普通でいいから! あと、変な胞子は撒かないでね!」
私たちは笑い合った。
これからの未来。
先輩は農学部で微生物の研究を始めるらしい。
私も、先輩の後を追って、同じ大学を目指すつもりだ。
いつか、二人で研究室を構えて、世界中を驚かせるような「新種のキノコ」を見つけるかもしれない。
あるいは、ただのキノコ好きの夫婦になって、毎日キノコ鍋を囲んでいるかもしれない。
どんな未来でもいい。
隣にこの人がいれば。
私たちは、腐りゆく倒木の上でも、暗い土の下でも、強く、しぶとく、根を張り続けることができる。
駅のホーム。
電車が近づいてくる音がする。
春風が吹き抜け、私のポンチョを揺らす。
「帰りましょう、先輩。私たちの実験室へ」
私が言うと、先輩は私の手をギュッと握り返した。
その力強さは、出会った頃の頼りない先輩とは別人だった。
「うん。……帰ろう」
先輩はニヤリと笑った。
その笑顔は、私があげた激辛チョコを食べた時のような、少しワイルドで、ふてぶてしいものだった。
「覚悟しててね。君が僕に感染したんだ。……責任持って、一生、僕の湿度管理をしてもらうから」
ドクン。
心臓が跳ねた。
それは、どんな愛の言葉よりも重く、湿り気のある契約。
逃がさない。離さない。
先輩の方こそ、私という菌糸に絡め取られることを、望んでいるのだ。
「……はいッ!! 喜んで!!」
電車のドアが開く。
私たちは、光の中へと足を踏み入れた。
恋の胞子は拡散中。
感染源は私。宿主は貴方。
この奇妙で、カビ臭くて、愛おしい共生関係は、きっと永遠に――発酵し続けるのだ。




