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第23話:卒業式、第二ボタンは培養シャーレの中へ

 3月10日。

 国公立大学、前期日程の合格発表日。

 朝から空は高く、突き抜けるような青色が広がっていた。

 三寒四温の周期を抜け、春の陽気が地上に降り注ぐ日。

 植物たちは一斉に芽吹き、虫たちが土から這い出し、世界が「生」のエネルギーで満ちる季節。

 しかし、大学のキャンパスに集まった受験生たちの顔色は、春の陽気とは裏腹に、蒼白く強張っていた。

 掲示板の前。

 かつては紙で貼り出されていた合格発表も、今はウェブでの確認が主流になりつつあるが、この大学では伝統的に掲示板での発表も行われている。

 自分の目で見届けたい。その一心で、多くの受験生が集まっていた。

 その人混みの中に、私――菌田きんだきのこはいた。

 隣には、神木かみき先輩。

 先輩は、厚手のコートのポケットに両手を突っ込み、下を向いてガタガタと震えていた。

「……無理だ。見れない」

 先輩が、絞り出すような声で呟く。

「吐きそう。心臓が口から出そう。……菌田さん、帰ろうよ」

「何を言っているんですか。ここまで来て、敵前逃亡ですか?」

「だって……もし、落ちてたら……」

 先輩の言葉が詰まる。

 11月のE判定。冬のスランプ。そして、雪の日の共通テスト。

 数々の試練を乗り越え、私の「劇薬」にも耐え抜いてきた先輩だが、最後の最後で、自信という名の地盤が揺らいでいるのだ。

 私は、先輩のコートの袖を掴んだ。

「先輩。顔を上げてください」

「……」

「先輩は、やりました。私の知る限り、どの個体よりも環境に適応し、進化しました。その結果データを確認するだけです」

 そう言った私の手も、実は汗ばんでいた。

 怖い。

 私だって怖い。

 もし、先輩の番号がなかったら。

 私の「培養計画」が失敗だったとしたら。

 私が先輩に施してきた数々の荒療治が、間違っていたとしたら。

 時刻は午前10時。

 職員が掲示板の覆いを外す。

 ざわめきが、一瞬の静寂の後、どよめきと歓声、そして悲鳴へと変わる。

「……あった! あったよ母さん!」

「嘘だろ……なんで……」

 喜怒哀楽の渦。感情の爆発。

 先輩は、まだ目を瞑っている。

「……だめだ。足が動かない」

「私が探します」

 私は先輩の手を、強く握った。

「先輩の手、冷たいですね。……私の体温、分けてあげます」

「菌田さん……」

 私は人混みをかき分け、掲示板の前へと進んだ。先輩の手を引いて。

 農学部、応用生命科学科。

 数字の羅列が目に飛び込んでくる。

 2051、2052、2055……。

 先輩の受験番号は、2058番。

 視線を走らせる。

 2056、2057……。

 心臓が止まるかと思った。

 時が、スローモーションになる。

 周囲の喧騒が遠のき、私の世界には、その一点しか見えなくなった。

 あった。

 2058。

 間違いなく、そこに刻まれていた。

 黒い数字が、光り輝いて見えた。

 私は、何も言わなかった。

 言葉にするより先に、繋いでいた先輩の手に、ありったけの力を込めた。

 ギュッ!!!!

「……っ!?」

 痛みを感じるほどの強さで握られた先輩が、驚いて目を開ける。

 私は、掲示板の一点を指差したまま、先輩を見上げた。

 私の目から、勝手に涙が溢れ出していた。

「……せ、んぱい……」

「……え?」

 先輩が、恐る恐る掲示板を見る。

 私の指の先。

 2058。

 先輩の目が、極限まで見開かれた。

 口がパクパクと動き、言葉にならない音が漏れる。

「……あ……あ、あ……」

 先輩の膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる。

 私はそれを支えようとして、逆に一緒に抱きつく形になった。

「あった……! あったよ、菌田さん!!」

 先輩が叫んだ。

 人目もはばからず、私を力いっぱい抱きしめる。

「受かった! 受かったぁぁぁ!!」

「はい! はい! おめでとうございます! 先輩は勝ち残りました! 生存競争サバイバルの勝者です!」

 私も叫んだ。先輩の胸の中で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら。

 先輩の体温が、熱い。

 心臓の音が、ドラムのように響いている。

 ああ、生きている。

 先輩の努力が、私の応援が、ここで結実フルーティングしたんだ。

「ありがとう……! 君のおかげだ! 君の変なスープと、臭いカイロと、激辛チョコのおかげだ!」

「褒め言葉として受け取っておきます!」

 私たちは、しばらくその場で泣き笑いしながら抱き合っていた。

 周囲の人が「うわ、すごい熱々カップルがいる」「合格ハイだな」と白い目で見ていたかもしれないが、関係ない。

 今、この瞬間、世界で一番幸福な菌類と宿主は、私たちなのだから。


 合格発表から数日後。

 学校は、奇妙な静けさに包まれていた。

 3年生は家庭学習期間に入り、登校しなくなる。

 1、2年生だけの校舎は、どこか広くて、空虚だ。

 私は放課後、無意識のうちに足を図書室へと向けていた。

 いつも先輩が座っていた、窓際の席。

 そこには今、誰もいない。

 机の上には、西日が長く伸びているだけだ。

「……いない」

 当たり前のことだ。

 先輩はもう、ここで勉強する必要はない。

 合格したのだから。

 春からは、憧れの農学部生として、キャンパスライフを謳歌するのだ。

 私は、先輩が座っていた椅子に座ってみた。

 冷たい。

 先輩の体温は、もう残っていない。

「……よかったですね、先輩」

 口に出してみる。

 心から、そう思う。

 先輩の努力が報われて、本当に嬉しい。

 でも、それと同時に、胸の奥に黒いカビのような感情が広がっていくのを止められない。

 『喪失感』。

 先輩が、いなくなる。

 この図書室にも、生物準備室にも、下駄箱にも、もう先輩はいない。

 廊下を走って追いかけ回すことも、変な料理を押し付けて困った顔を見ることもできなくなる。

「……私の宿主が、いなくなっちゃう」

 机に突っ伏した。

 視界が滲む。

 私は、自分が思っていた以上に、先輩に依存していたんだ。

 「私が先輩を育てた」なんて偉そうなことを言っていたけれど、本当は逆だった。

 先輩という存在が、私というきのこを生かしてくれていたのだ。

 来年からは、私は一人。

 この学校で、先輩のいない日常を過ごさなければならない。

 想像するだけで、細胞が乾いていくような恐怖を感じる。

「……嫌だなぁ」

 ポツリと漏れた本音は、誰にも届かず、静かな図書室に吸い込まれていった。

          ◇

 卒業式予行の日。

 久しぶりに先輩が登校してきた。

 でも、3年生は体育館でリハーサル、2年生は教室で自習。

 接触する機会はほとんどなかった。

 遠くの渡り廊下を歩く先輩の姿を見かけた。

 友人と談笑している。

 その顔は、晴れやかで、少し大人びて見えた。

 もう、受験生特有の悲壮感はない。

 「合格者」としての余裕と、「卒業生」としての貫禄。

 私は、声をかけることができなかった。

 なんだか、急に先輩が遠い存在になった気がして。

 私だけが、あの泥臭い日々に取り残されているような気がして。

 私は逃げるように、生物準備室へと隠れた。

 培養棚のキノコたちに話しかける。

「ねえ、君たちも寂しい? 先輩、行っちゃうよ」

 キノコたちは何も答えない。ただ静かに、胞子を飛ばしているだけだ。

 時間は無情にも進む。

 そして、3月15日。

 卒業式当日がやってきた。

 卒業式の朝。

 天気は晴れ。気温15度。

 校門の桜は、例年より早く、三分咲きになっていた。

 ピンク色の花びらが、風に舞っている。

 体育館。

 厳かな音楽。

 在校生代表の送辞。卒業生代表の答辞。

 私は列の中で、じっと前を向いていた。

 3年生の席の、背の高い後姿。

 神木先輩だ。

 名前が呼ばれる。

 「神木……」

 「はい!」

 凛とした声が響く。

 先輩が起立する。

 その背中は、1年前に入学式で見た時よりも、ずっと広く、逞しくなっていた。

 私の知らない間に、先輩はこんなに立派になっていたんだ。

(泣いちゃダメ。……湿度が上がってカビが生えちゃうから)

 私は必死に、自分に言い聞かせる。

 笑顔で送り出さなきゃ。

 「菌田さんらしいね」って、笑ってもらわなきゃ。

 式が終わり、3年生が退場する。

 拍手で見送る。

 先輩が、私のクラスの横を通る。

 目が合った。

 先輩は、少しだけ眉を下げて、優しく微笑んだ。

 その瞬間、私の涙腺が決壊しそうになった。

          ◇

 ホームルーム終了後。

 校内は、花束を持った卒業生と、写真を撮ろうとする後輩たちでごった返していた。

 色とりどりの歓声。

 ボタンをねだる女子たちの黄色い声。

 私は、その喧騒から離れ、一人で校舎裏へと向かった。

 **「伝説の木」**の下。

 先輩が初めて私の変な料理を受け入れてくれた場所。

 そして、先輩から「卒業式の後、ここで待ってて」とLINEが来ていた場所だ。

 桜の木の下で待つ。

 風が吹くたびに、花びらが雪のように降り注ぐ。

 綺麗だ。

 でも、切ない。

 散る花は、終わりの象徴だ。

「……菌田さん」

 足音がして、先輩が現れた。

 卒業証書の筒を片手に、少し息を切らせている。

 制服のボタンは……まだ全部ついている。よかった、誰にも取られていない。

「……卒業、おめでとうございます」

 私は精一杯の笑顔を作った。

「晴れ姿ですね。はかまじゃなくて残念ですが、学ランも似合っていますよ」

「ありがとう。……待たせてごめんね」

 先輩が、私の前に立つ。

 逆光で、先輩の顔がよく見えない。

 いや、私の目が涙で滲んでいるせいかもしれない。

「……泣いてるの?」

「泣いてません。花粉症です。スギ花粉の粒子が眼球を刺激して……」

「嘘つき」

 先輩が苦笑して、ポケットからハンカチを取り出し、私の目元を拭ってくれた。

 その優しさが、今は痛い。

 もう、明日からはこの優しさに触れられないんだ。

「……寂しいです」

 私は、素直に認めた。

「先輩がいなくなるなんて、考えられません。私の日常から『神木先輩』という成分が抜けたら、私はただの『変なキノコ女』に戻ってしまいます」

「そんなことないよ。君は君だよ」

「違います! 先輩がいてこその私なんです! 寄生主がいなくなったら、寄生菌はどうやって生きていけばいいんですか!」

 私は子供のように駄々をこねた。

 格好悪い。

 最後くらい、綺麗に終わりたかったのに。

 先輩は、そんな私を静かに見つめていた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……ねえ、菌田さん。知ってる?」

「何をですか?」

「卒業式の、第二ボタンの伝説」

「……心臓に一番近いボタンを、好きな人に渡すという、非科学的でロマンチックな風習ですね」

「うん。……非科学的だけどさ」

 先輩は、自分の学ランの第二ボタンに手をかけた。

 プチッ。

 糸が切れる音がして、黒いボタンが外れる。

 先輩は、私の手を取り、そのボタンを掌に乗せた。

 まだ、体温が残っている。

 温かい。

「あげる。……僕の身代わりだと思って」

 私は、手のひらの上の黒いプラスチックを見つめた。

 ただのボタン。

 でも、そこには先輩の3年間の汗と、涙と、そして心臓の鼓動が刻まれている。

「……い、いいんですか? 私なんかが貰って」

「君じゃなきゃ、ダメなんだ」

 先輩が、まっすぐに私を見た。

「君がいたから、僕は変われた。君が菌糸を伸ばしてくれたおかげで、僕はここまで育つことができた。……君は、僕の人生の『共生者』だよ」

 共生者。

 その言葉の響きに、私は震えた。

 寄生じゃない。一方通行じゃない。

 私たちは、対等なパートナーなんだ。

「……先輩」

 私はボタンを強く握りしめた。

「……これ、培養してもいいですか?」

「えっ?」

「先輩のDNAと、皮脂と、フェロモンが染み込んだ最高の素材です。ここから先輩のクローン……いえ、先輩の成分を抽出して、永遠に保存します!」

 私が涙目で力説すると、先輩は吹き出した。

「あはは! やっぱりそう来るか。……いいよ、好きにして」

 先輩は、私の頭をポンポンと撫でた。

「その代わり……約束して」

「約束?」

「大学に行っても、会いに来てくれる?」

 先輩の声が、少し不安げに揺れた。

「僕、農学部に行くけどさ……周りはきっと、真面目な研究者ばっかりだと思うんだ。君みたいな『劇薬』がいないと、多分、退屈で枯れちゃうと思う」

「……!」

「だから……定期的に、菌を補充しに来てほしいんだ。……僕の菌糸が、枯れないように」

 ああ。

 なんてことだ。

 先輩も、不安だったんだ。

 私がいなくなることを、寂しいと思ってくれているんだ。

 離れるのは、場所だけ。

 心の菌糸は、繋がったままなんだ。

 私は涙を拭い、満面の笑みで答えた。

「……もちろんです!!」

 私は叫んだ。

「私の胞子は、風に乗ってどこまでも先輩を追いかけます! 大学だろうが、研究室だろうが、地の果てまで侵入して、一生寄生し続けますから!!」

「寄生じゃなくて共生ね」

「はい! 共生です!」

 先輩が笑い、私も笑った。

 桜の花びらが、二人の間に舞い落ちる。

 悲しみは、もう消えていた。

 あるのは、未来への希望と、確かな絆。

「じゃあ、またね。菌田さん」

「はい。またすぐに会いましょう、先輩!」

 私たちは、笑顔で手を振った。

 さよならじゃない。

 これは、新しい季節への入り口だ。

 先輩の背中が遠ざかっていく。

 私は、握りしめた第二ボタンを胸に当てた。

 温かい。

 このボタンがある限り、私は最強だ。

 春休み。

 それは、次のステージへの準備期間。

 先輩は大学生に、私は3年生に。

 環境は変わるけれど、私たちの関係は終わらない。

 むしろ、ここからが本番だ。

 制服を脱いだ先輩と、どんな「実験」ができるだろうか。私の青春は、きっと、キノコまみれで続いていくのだ。

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