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第22話:バレンタインは脳細胞の起爆剤

2月14日。

 国公立大学の二次試験まで、あと10日あまり。

 世間はバレンタインデーの甘い空気に包まれているが、受験生にとっての2月は、一年で最もピリピリとした「最後の追い込み期」だ。

 私――菌田きんだきのこは、生物準備室で、目の前に置かれた「二つの箱」を見比べて悩んでいた。

 右にあるのは、デパートで購入した**『ベルギー王室御用達・高級プラリネチョコレート』。

 左にあるのは、私が徹夜で調合・培養した『特製・脳髄直撃ブラックガナッシュ(冬虫夏草&カプサイシン入り)』**。

「本来なら、私の愛と菌糸を凝縮した『左』を渡すべき……」

 私は黒くゴツゴツしたガナッシュを見つめた。

 昨年のバレンタインでは、これを渡して先輩をドン引きさせた。

 しかし、今は状況が違う。

 本番直前だ。もし、私の手作りチョコに含まれる未知の菌成分や、強すぎる刺激物が原因で、先輩がお腹を壊したら? 胃もたれで勉強に集中できなくなったら?

 そのリスクは、万が一にも許されない。

「……今回は『安全』を取るべきだ。今の先輩に必要なのは、刺激ではなく、安定した糖分とリラックス効果」

 私は断腸の思いで、手作りの「黒い塊」を冷蔵庫の奥へと押し込んだ。

 そして、綺麗なリボンのついた高級チョコの箱を手に取った。

「ごめんね、私の菌たち。今回は『無菌・滅菌・既製品』の出番なの」

          ◇

 放課後。

 私は神木かみき先輩を図書室の前で呼び止めた。

 先輩は少し痩せていたが、目はランランと輝いている……かと思いきや、どこか焦点が定まっていないような、ボンヤリとした表情をしていた。

「……あ、菌田さん。お疲れ様」

「お疲れ様です、先輩。……顔色が少し優れませんね。糖分不足ですか?」

「うん……まあね。最後の詰め込みで、脳がオーバーヒート気味かも」

 先輩が力なく笑う。

 私は背中に隠していた、綺麗な紙袋を差し出した。

「ハッピーバレンタインです、先輩。……どうぞ」

「えっ、くれるの? 受験前なのに?」

「糖分は脳の唯一のエネルギー源ですから。……今年は、これです」

 先輩が袋を開ける。

 出てきたのは、金色のロゴが入った、いかにも高そうなチョコレートの箱。

「うわ、ゴディ……じゃないけど、すごい高そうなやつだ。手作りじゃないんだ?」

「はい。今回は『食の安全性』と『消化吸収の良さ』を最優先しました。プロのパティシエが作った、雑菌ゼロの純粋なチョコレートです」

 先輩は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。

「ありがとう。菌田さんなりの気遣いだね。……嬉しいよ」

 その場で一粒、口に入れる先輩。

「……ん。美味しい。すごく滑らかで、上品な甘さだ」

「でしょう? 副交感神経を優位にして、リラックスできます」

「うん……なんか、落ち着く味だなぁ……」

 先輩は残りのチョコを大事そうにカバンにしまった。

「これを食べて、残り10日、頑張るよ」

「はい。無理せず、体調第一でお願いしますね」

 私は「良いこと」をしたはずだった。

 普通の女子高生らしい、真っ当な気遣いをしたはずだった。

 なのに、なぜだろう。

 去っていく先輩の背中が、どこか頼りなく、小さく見えたのは。

          ◇

 異変が起きたのは、それから3日後のことだった。

 先輩からLINEが届いた。

 『ごめん、今、少し時間ある? 屋上に来てほしい』

 切羽詰まったような文面。

 私は嫌な予感マイコ・センサーを感じ取り、授業が終わると同時に屋上へと駆け上がった。

 2月の屋上は、凍えるような北風が吹き荒れている。

 そのフェンス際で、先輩は虚ろな目で空を見上げていた。

「先輩! どうしましたか!?」

「……菌田さん」

 先輩が振り返る。

 その顔を見て、私は息を呑んだ。

 顔色は悪くない。肌ツヤもいい。クマも消えている。

 健康そうだ。

 ……健康すぎるのだ。

 受験直前の、あの殺気立った「飢え」のようなオーラが完全に消失し、まるで悟りを開いた老人のように穏やかになってしまっている。

「……どうしたんですか、その『毒気の抜けた』顔は」

「わからないんだ」

 先輩が自分の手を見つめる。

「君に貰ったチョコ、食べたよ。すごく美味しかった。よく眠れたし、体調も万全だ」

「それは良いことでは?」

「でも……闘志が湧かないんだ」

 先輩がフェンスを握りしめる。

「机に向かっても、『まあ、このくらいでいいか』って思っちゃう。過去問を解いても、怒りとか焦りとか、そういう熱い感情が湧いてこない。……ただただ、平和で、満たされてて……」

「……!」

「このままじゃ、戦えない」

 先輩が私を強く見つめた。

「あの試験会場の、猛獣みたいな受験生たちの中で、こんな『飼い慣らされた羊』みたいな精神状態じゃ、食い殺される」

 私はハッとした。

 やってしまった。

 私は、先輩を「保護」しすぎたのだ。

 無菌室のような環境、安全な食事、優しい気遣い。

 それらは先輩の体を癒やしたが、同時に、受験戦争を勝ち抜くための「野生の牙」をも削ぎ落としてしまったのだ。

 菌類の世界でも同じだ。

 栄養たっぷりの寒天培地で過保護に育てられた菌は、確かに美しく育つが、自然界に放り出された途端、他の雑菌に負けて死滅する。

 強い菌糸は、飢餓や乾燥といった「ストレス」があってこそ、生き残るために爆発的な進化を遂げるのだ。

「……僕には、足りないんだ」

 先輩が一歩、私に近づく。

「君の『毒』が」

 ドクン。

 心臓が跳ねた。

「あの、泥みたいなスープや、舌が痺れるようなドリンク。……君がくれる、あのわけのわからない『刺激』がないと、僕の脳みそは戦闘モードに入らない体になっちゃったんだよ!」

 先輩の叫びが、風に乗って響く。

 それは、愛の告白よりも、もっと切実な「共生者への要求」だった。

 彼は求めている。

 私の菌を。私のカオスを。

「……責任、取ってよね」

 先輩が、潤んだ瞳で私を見る。

「僕をこんな体にしたのは、菌田さんなんだから」

 私は、震える手でポケットを探った。

 よかった。

 こんなこともあろうかと、持ち歩いていたのだ。

 あの「封印した箱」を。

「……ありますよ」

 私は、リボンも何もない、無骨なタッパーを取り出した。

「先輩が後悔しても知りませんよ? これは『安全基準』を完全に無視した、私の自己満足の結晶ですから」

「……望むところだ」

 私はタッパーの蓋を開けた。

 プシュッ。

 密閉容器から解き放たれたのは、カカオの香りなど消し飛ぶほどの、強烈な「土」と「スパイス」の香り。

 『特製・脳髄直撃ブラックガナッシュ』。

 中には、スタミナ源の「冬虫夏草」、脳血流を上げる「ヒハツ」、覚醒作用のある「ガラナ」、そして強烈な刺激を与える「ハバネロエキス」が練り込まれている。

「見た目は……相変わらず最悪だね」

 先輩が、真っ黒でデコボコした塊を見て笑った。

 でも、その目は獲物を狙う肉食獣のように鋭くなっていた。

「食べますか?」

「食べる」

 先輩は迷わず、黒い塊を指でつまみ、口に放り込んだ。

 ガリッ。

 ジャリッ。

 普通のチョコではありえない咀嚼音がする。

 数秒の沈黙。

 そして――。

 カッッッ!!!!

 先輩の顔色が、一瞬で朱に染まった。

 額から汗が噴き出し、首の血管が浮き上がる。

「ぐッ……!! か、辛ッ……! 苦ッ……! くさッ!!」

 先輩が喉を押さえて悶絶する。

「うおおおおお! 胃が! 胃の中でマグマが暴れてる!!」

「我慢してください! その熱こそが、細胞を目覚めさせる『発芽の合図』です!」

 先輩は涙目で咳き込みながらも、残りの欠片を貪るように食べた。

 そして、大きく息を吸い込んだ。

「はぁ……はぁ……!!」

 先輩の瞳孔が開いている。

 さっきまでの穏やかすぎる表情は消え失せ、そこにはギラギラとした闘志が宿っていた。

「……来た。……来たよ、菌田さん」

 先輩が拳を握りしめる。

「脳みそが焼けるみたいだ。思考がクリアになって、アドレナリンがドバドバ出てるのがわかる」

「計算通りです。交感神経を極限まで刺激しました」

「すごいな……。やっぱり、僕にはこれが必要なんだ」

 先輩は汗を拭い、私を見てニヤリと笑った。

 その笑顔は、爽やかというより、少し獰猛で、男らしかった。

「ありがとう。目が覚めた」

「どういたしまして。……でも、試験当日にお腹を壊さないでくださいよ?」

「大丈夫。君の菌には、もう耐性ができてるから」

 先輩はタッパーに残っていた最後のひとかけらを、私の口に突っ込んだ。

「んぐッ!?」

「共犯だよ。……一緒に戦ってくれるでしょ?」

 口の中に広がる、土臭さと激辛の刺激。

 私は涙目になりながら、それを飲み込んだ。

 喉が熱い。胸が熱い。

 これが、私たちが共有する「生存本能」の味。

「……はい! もちろんです!」

 私は叫んだ。

「行ってらっしゃい先輩! その牙で、難問奇問を食い千切ってきてください!」

「おう! 行ってくる!!」

 先輩は屋上のフェンスを蹴り飛ばす勢いで、出口へと走っていった。

 その背中からは、目に見えるほどの湯気――やる気の胞子が立ち上っていた。

 寒風吹きすさぶ屋上で、私は口の中の辛さにヒーヒー言いながら、笑いが止まらなかった。

 やっぱり、普通の恋なんて私たちには似合わない。

 甘いチョコよりも、劇薬のようなスパイス。

 癒やしよりも、刺激。

 それが、私たちが選んだ「共生」の形なのだ。

 2月25日。二次試験本番。

 先輩の体調は万全だ。

 あとは、結果を待つのみ。

 桜が咲くか、キノコが生えるか。

 私たちの長い冬が、いよいよ終わろうとしている。

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