第21話:共通テスト、雪の日のカイロは発酵熱!
1月中旬。
大学入試共通テスト、当日。
天気予報は、無情にも数日前から「警報級の大雪」を告げていた。
そして当日、朝。
カーテンを開けた私は、白銀の世界に絶句した……なんてことはない。
私――菌田きのこにとって、自然現象はすべて「想定内の変数」だ。
午前6時。
私は完全装備で家を飛び出した。
今日のミッションは一つ。
私の宿主である神木先輩を、無事に、温かい状態で、試験会場へと送り届けること。
スマホが震える。先輩からのSOSだ。
『電車、止まってる。バスも来ない。……終わったかも』
画面越しの先輩の絶望が伝わってくる。
受験生にとって、当日の交通麻痺は死刑宣告に等しい。
パニックになり、平常心を失えば、その時点で勝負は決まってしまう。
「……甘いです、先輩。菌類は、風が止まれば動物に付着し、水がなければ乾燥して耐え、あらゆる手段で移動するのです」
私は雪を踏みしめ、駅へと走った。
私のリュックには、この日のために培養……いえ、準備してきた「秘密兵器」が詰まっている。
◇
駅の改札前は、地獄絵図だった。
運転見合わせの掲示板。怒号を上げるサラリーマン。そして、蒼白な顔で立ち尽くす受験生たち。
その人混みの端で、神木先輩はうなだれていた。
防寒着を着込んでいても、その体は寒さと恐怖で小刻みに震えている。
「……神木先輩!」
私が叫ぶと、先輩が弾かれたように顔を上げた。
「き、菌田さん!?」
先輩が目を丸くする。それも無理はない。
今日の私の格好は、登山用のゴアテックス・ウェアに、足元はスノーブーツ、手にはストック、そして背中には巨大なリュックという、完全に「雪山遭難救助隊」のスタイルだったからだ。
「ど、どうしたのその格好!? っていうか、電車動いてないよ! 会場まであと5キロはあるのに!」
「想定内です。公共交通機関という『太い血管』が詰まったなら、毛細血管を使えばいいのです」
私はストックで雪面を叩いた。
「徒歩で行きます。バスを待っていても凍えるだけです」
「徒歩!? この雪の中を!? 間に合うわけないよ!」
「間に合わせます。私が最短ルートをシミュレーション済みです。さあ、私の背中についてきてください!」
私は先輩の手を引き、混雑する駅を離れた。
目指すは、大通りではない。
住宅街の路地裏、そして川沿いの遊歩道だ。
「いいですか先輩。大通りは車がスタックして渋滞し、歩道は雪かきされていない雪で埋まっています。しかし、川沿いの土手は風が強く雪が積もりにくい。さらに、昨年末に私が撒いておいた『融雪剤』が効いているはずです!」
「いつの間にそんな根回しを!?」
私たちは白い息を吐きながら、誰もいない川沿いの道を早足で進んだ。
私の計算通り、ここは比較的歩きやすい。
さらに、先輩の靴底には、**『粘菌バイオ粘着シート』**が貼ってある。
雪道でも、氷の上でも、キュッ、キュッ、と驚異的なグリップ力を発揮し、滑る気配が全くない。
「すごい……本当に滑らない。菌田さん、これマジで特許取れるよ」
「合格したら出願しましょう。今は足を動かしてください!」
◇
1時間後。
私たちは試験会場であるK大学の正門前に到着した。
開場時間の30分前。
余裕の到着だ。
「つ、着いた……」
先輩が膝に手をついて息を整える。
周りには、タクシーや親の車で送られてきた受験生たちが渋滞に巻き込まれ、殺気立っているのが見える。
私たちは、自分の足で、トラブルを乗り越えたのだ。
「ありがとうございます、菌田さん……。君がいなかったら、駅で泣いてたよ」
先輩が顔を上げる。
しかし、その顔色は悪い。
寒さだ。
雪道を1時間歩いたことで、体温が奪われ、指先がかじかんでいる。
これでは、マークシートを塗りつぶす指が動かない。
「……寒い。指の感覚がないや」
先輩が手を擦り合わせる。
「カイロ持ってきたけど、冷え切っちゃって全然温まらないんだ……」
市販の使い捨てカイロは、極寒の中では化学反応が鈍り、ただの冷たい砂袋になってしまうことがある。
だが、私が用意したものは違う。
化学反応ではなく、**「生命活動」**による熱だ。
「先輩。上着のポケットを出してください」
「え?」
「最強のカイロを渡します。ただし、取り扱い注意です」
私はリュックの奥底から、厳重に布で包まれた「二つの塊」を取り出した。
ほんのりと湯気が立っている。
それを、先輩のコートの左右のポケットにねじ込んだ。
「うわっ、あったか!!」
先輩が声を上げた。
「すごい熱量だ……! 何これ? 充電式?」
「いいえ。**『発酵熱カイロ・コンポスト型』**です」
「……はい?」
私は解説した。
「中身は、米ぬか、腐葉土、そして落ち葉です。そこに、私が培養した高活性の発酵菌を混ぜ込み、適度な水分と空気を与えました」
そう、これは園芸用の「踏み込み温床」の原理を応用した、携帯用コンポストだ。
微生物が有機物を分解する際に発する熱は、条件が揃えば60〜70度にも達する。
しかも、使い捨てカイロのように酸素不足で冷めることもなく、菌が生きている限り熱を出し続ける。
「微生物たちの『食べて、分解して、増える』という爆発的な生命エネルギーそのものが、熱となっているのです!」
「……つまり、ポケットの中に生ゴミと菌が入ってるってこと?」
「言い方が悪いです! 『小さな生態系』と言ってください!」
先輩は恐る恐るポケットの中に手を入れた。
そして、その温もりに包まれた瞬間、強張っていた肩の力がフッと抜けるのを見た。
「……あったかい」
先輩が呟く。
「電気とか、鉄粉の熱とは違う……なんか、芯まで染み込んでくる温かさだ」
「でしょう? 生き物の熱ですから」
ただし、副作用が一つある。
ポケットから手を出し、鼻を近づけた先輩が「くんくん」とした。
「……そして、臭い」
「!!」
「カブトムシの幼虫を育ててる土の匂いがする……。あと、ちょっと糠漬けっぽい」
「芳醇な発酵臭と言ってください! 脳をリラックスさせるアロマ効果もあります!」
「リラックスっていうか……おばあちゃんの家に来たみたいだ」
先輩は苦笑いした。
でも、その表情は、ここに来た時よりもずっと柔らかく、血色が戻っていた。
チャイムが鳴る。
入場開始だ。
ここから先は、保護者も、教師も、そして共生菌である私さえも立ち入れない聖域。
先輩一人の戦いだ。
「……行ってきます」
先輩が背筋を伸ばす。
「菌田さん、本当にありがとう。この温かさがあれば、戦える気がする」
「はい。ポケットの中の菌たちも、先輩と一緒に戦っています。一人じゃありません」
「うん。……行ってくる!」
先輩は、ポケットに手を入れたまま、会場へと歩き出した。
その背中は、もう震えていなかった。
◇
試験会場、大講義室。
数百人の受験生が詰め込まれ、異様な緊張感が張り詰めている。
暖房は効いているはずだが、足元は冷え、張り詰めた空気が肌を刺す。
1科目目、国語。
2科目目、英語。
順調に進んでいた。
しかし、魔物は午後に潜んでいた。
数学Ⅱ・B。
理系志望の先輩にとって、絶対に落とせない科目だ。
ページをめくる。
第1問。三角関数。……解ける。
第2問。指数・対数。……大丈夫。
第3問。数列。
『……ん?』
ペンの動きが止まった。
見たことのないパターンの漸化式。
誘導に乗ろうとするが、計算が合わない。
焦りが滲む。
時計を見る。残り時間が、想定よりも速く減っている。
(やばい。飛ばそうか? いや、ここで点数を落とすと……)
思考にノイズが走る。
周りの受験生の「カリカリカリ」というペンの音が、巨大な轟音となって耳を圧迫する。
視界が白くなる。
心臓の鼓動が早くなる。
血の気が引いて、指先が冷たくなる。
パニック発作の一歩手前。
先輩は、無意識に左手を上着のポケットに入れた。
そこにあったのは、布に包まれた、ゴツゴツとした塊。
じわり。
熱いほどの温もりが、冷え切った指先を包み込んだ。
そして、微かに漂ってくる香り。
腐葉土の、土の、生命の匂い。
『……あ』
その匂いを嗅いだ瞬間、先輩の脳裏にフラッシュバックしたのは、数式ではなく、ある光景だった。
――雪道を先導して歩く、小柄な背中。
――「想定内です!」と自信満々に笑う顔。
――そして、「先輩は一人じゃありません」という言葉。
(……そうだ)
先輩は、ポケットの中で「発酵カイロ」を強く握りしめた。
この中では今も、何億という微生物たちが、必死に活動して熱を生み出している。
雪の中でも、嵐の中でも、生き延びようとする力。
菌田さんがくれた、しぶとい生命力。
深呼吸をする。
土の匂いを肺いっぱいに吸い込むと、不思議と心臓の鼓動が落ち着いていった。
頭の中のホワイトアウトが晴れ、視界がクリアになる。
(冷静になれ。解けない問題じゃない。菌糸のように、別の解放を探せばいいんだ)
先輩はペンを持ち直した。
震えは止まっていた。
ポケットの中の熱が、腕を伝って脳まで届いているようだった。
カリッ。
シャーペンが再び走り出す。
計算式が繋がった。
◇
午後6時。
すべての試験が終了した。
会場から吐き出される受験生たちの波。
「終わった……」「難しかった……」というため息が充満する中、神木先輩が出てきた。
私は校門の街灯の下、雪だるまのように着込んで待っていた。
先輩が私を見つける。
駆け寄ってくる。
その顔は――疲労困憊していたけれど、目は死んでいなかった。
「……お疲れ様です、先輩!」
私が駆け寄ると、先輩はふぅーっと長く白い息を吐いた。
「……疲れた。数学、死ぬかと思った」
「顔色が悪いですね。糖分が必要ですか?」
「ううん、大丈夫」
先輩はポケットから手を出して、私の冷たい頬に触れた。
先輩の手は、驚くほど温かかった。
そして、ほんのりと土の匂いがした。
「……助かったよ、このカイロ」
先輩が笑う。
「試験中、パニックになりかけたんだけど……ポケットの中でこいつを握ったら、なんか菌田さんに手を握られてるみたいで、落ち着いたんだ」
「……!」
「匂いもさ。周りの人は『なんか変な匂いしない?』って顔してたけど、僕にとっては精神安定剤だったよ」
先輩の手の温もりが、私の頬を伝って心臓まで届く。
私の作った発酵熱が、先輩を救った。
離れていても、私たちは共生していたんだ。
「……よかったです。お役に立てて」
私が涙目になりながら言うと、先輩は「帰ろう」と言った。
「お腹空いた。菌田さんの作る、あったかいものが食べたい」
「はい! 今日は『勝利のキノコ雑炊』を用意してあります!」
「またキノコか……まあ、今日は許すよ」
帰り道。
雪は止み、空には冬の星座が輝いていた。
先輩のポケットの中では、まだ微生物たちが活動を続けているだろう。
その熱が尽きるまで、そして先輩の受験が終わるまで、私は何度でも熱を送り続ける。
最初の関門、突破。
次は2月。本命の二次試験。
私たちのサバイバルは、いよいよ最終局面へと向かう。
「あ、先輩。そのカイロ、明日には中身を出して、プランターの肥料にしてくださいね。リサイクルこそが自然の摂理ですから」
「最後まで無駄がないね……」
先輩の呆れたような、でも愛おしげな声が、夜道に溶けていった。




