第20話:聖なる夜の除菌作戦と、滑らない初詣
12月。
師走の風が吹き荒れ、街はクリスマスと年末の喧騒に包まれている。
イルミネーションが輝き、恋人たちが愛を語らうこの季節。
しかし、受験生という種族にとって、冬は「ロマンス」の季節ではない。
**「感染」**との戦いの季節だ。
インフルエンザ。ノロウイルス。そして風邪。
目に見えない微細な敵たちが、受験生の免疫力を虎視眈々と狙っている。
もし、この直前期に寝込めば、これまでの努力が水の泡となりかねない。
私――菌田きのこは、生物準備室で白衣を纏い、顕微鏡を覗き込みながら、決意を新たにしていた。
「……許さない。私の宿主である神木先輩の粘膜に、指一本……いえ、ウイルス一個たりとも触れさせはしないわ」
先輩は今、過去問演習(赤本)との格闘で疲弊し、免疫力が低下しているはずだ。
そんな無防備な状態の先輩を、ウイルスという名の外敵から守り抜くこと。
それこそが、共生菌である私の使命。
「待っていてください、先輩。今年のクリスマスは、ケーキもチキンもありません。あるのは**『鉄壁の防疫体制』**のみです!」
私は、自作の「対ウイルス用・菌類兵器」をリュックに詰め込み、戦場(先輩の家)へと向かった。
◇
12月24日、クリスマスイブ。
世間が浮かれる中、私は神木先輩の部屋に「往診」に来ていた。
お母様には「受験の追い込みサポート(環境整備)」ということで許可を頂いている。
「……菌田さん。あのさ」
机に向かっていた先輩が、呆れたような、でも少し助けを求めるような目で私を見た。
「来てくれるのは嬉しいんだけど……その格好、何?」
私の姿。
それは、白衣の上に雨合羽を羽織り、ゴム手袋を装着し、顔にはN95規格の医療用マスクとゴーグルという、完全防護服スタイルだった。
「基本です、先輩。私が外部からウイルスを持ち込む『ベクター(媒介者)』になってはいけませんから」
私はくぐもった声で答え、持参したアルコールスプレーを部屋中に噴射した。
シュッ、シュッ、シュッ!
「うわっ、寒い! 冷たい!」
「我慢してください。エアロゾル感染を防ぐための儀式です」
一通りの消毒を終えると、私はリュックから次々と機材を取り出した。
まずは、部屋の四隅に設置する**『特製・加湿キノコ』**だ。
ペットボトルに水を入れ、その口に「フェルトで作ったキノコ型の吸水体」を差し込んだもの。電気を使わず、自然気化式で湿度を保つエコな装置である。
「いいですか先輩。ウイルスの活動を抑えるには、湿度が命です。目標湿度は常に50〜60%。乾燥は敵です」
「うん、それはわかるけど……。なんで全部『ドクツルタケ』の形してるの? 部屋が森の処刑場みたいになってるよ」
「毒をもって毒を制す、という願いを込めました」
次に私は、机の上に小さなアロマポットを置いた。
ただし、垂らすのはラベンダーなどの甘い香りではない。
私が抽出した**『フィトンチッド&マイタケ・濃縮エキス』**だ。
「これは?」
「空間除菌アロマです。森林の殺菌成分と、マイタケに含まれる免疫賦活成分を気化させて吸引します」
ろうそくに火を灯す。
ゆらり、と立ち上る湯気。
部屋の中に、腐葉土と、焦げた醤油と、針葉樹の樹液を混ぜたような、なんとも言えない複雑な香りが充満し始める。
「……くっさ!!」
先輩が鼻をつまんだ。
「なにこれ!? 漢方薬屋の倉庫!? 集中できないよ!」
「吸い込んでください! 鼻の粘膜が強化されます! 慣れれば『森の香り』としてリラックス効果も期待できます!」
「リラックスの定義が独特すぎる!」
文句を言いながらも、先輩は参考書から目を離さない。
その背中は、1年前よりもずっと大きくなっている気がした。
受験というプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、必死に根を張り、耐えている。
私は防護服を脱ぎ、エプロン姿になった。
「さあ、夕食の時間です。今日はクリスマスイブですが、脂っこいチキンや、体を冷やす砂糖たっぷりのケーキは禁止です」
「ええー……。年に一度の楽しみなのに」
「合格してからいくらでも食べてください。今日のメニューは、**『完全殺菌・発酵生姜キノコ鍋』**です!」
私は台所から、土鍋を運んできた。
蓋を開ける。
モワァ……と立ち上る湯気。
中身は、茶色いスープの中に、エノキ、シメジ、マイタケ、エリンギ、そして薬味としての大量の生姜とネギがひしめき合っている。
見た目は地味だが、栄養価は計算し尽くされている。
「……すごい生姜の匂いだ」
「体温を1度上げれば、免疫力は30%アップします。食べて発熱してください」
「発熱って……風邪引いたみたいじゃん」
先輩は苦笑いしながら、お椀を受け取った。
ハフハフと言いながら、キノコを頬張る。
「……ん。熱いけど、美味い」
「でしょう? 出汁にはサルノコシカケも少し入っていますから、深みがあります」
「さらっと漢方入れるよね……。でも、なんか体が芯から温まってきた気がする」
窓の外では、雪がちらついているかもしれない。
街中のカップルは、今頃おしゃれなレストランでシャンパンを傾けているだろう。
でも、この部屋にあるのは、加湿器代わりのフェルト毒キノコと、土臭いアロマの香りと、茶色い鍋だけ。
それでも。
湯気越しに見る先輩の顔は、とても穏やかだった。
「……菌田さん」
先輩が箸を止めて、私を見た。
「ありがとう。……正直、クリスマスなんてやってる場合じゃないって焦ってたんだ。でも、こうやって君が『管理』してくれると、なんか安心するよ」
「管理だなんて。飼育……いえ、共生活動の一環です」
「ふふ、飼育されてるのかな、僕」
先輩が笑う。
その笑顔を見られただけで、私にとってはこの上ないクリスマスプレゼントだ。
「来年のクリスマスは、ちゃんとお祝いしましょうね」
先輩が言った。
「合格して、大学生になって……そしたら、普通のケーキとチキンで、パーティーしよう」
「……はい!」
私は大きく頷いた。
「その時は、ケーキの上に『ベニテングタケ』の砂糖菓子を乗せますね!」
「そこは譲らないんだ……」
聖なる夜。
ロマンスはないけれど、ウイルスもない。
私たちの愛は、湿度60%の部屋で、静かに、確実に培養されていた。
◇
時は流れて、12月31日。大晦日。
受験生にとって、正月などない。
あるのは「センター試験」までのカウントダウンだけだ。
しかし、神頼みは必要だ。
初詣。
それは、日本人のDNAに刻まれた、最後の精神安定剤。
除夜の鐘が鳴り始める深夜23時30分。
私と先輩は、神社の鳥居の前に立っていた。
ただし、有名な明治神宮や地元の大きな神社ではない。
山の麓にある、誰もいないような小さな**「鎮守の森」**の祠だ。
「……ここ、どこ?」
先輩が白い息を吐きながら、周囲を見回す。
街灯もなく、月明かりだけが頼りの山道。
「私の秘密の菌場……いえ、穴場の神社です」
私は懐中電灯で足元を照らした。
「有名な神社は『人混み』です。人混みは『ウイルスの培養槽』です。受験直前の先輩を、あんな濃厚接触地帯に連れて行くわけにはいきません!」
「なるほど……徹底してるね」
「それに、ここは『キノコの神様』も祀られている、知る人ぞ知るパワースポットなんです。ご利益は保証します」
私たちは、枯れ葉の積もった参道を歩き出した。
ザッ、ザッ。
静寂。
冷たく澄んだ空気が、肺の中を浄化していくようだ。
「……ねえ、菌田さん」
「はい」
「足元、なんか……滑らない?」
先輩が不思議そうに靴の裏を気にする。
「昨日の雨で濡れてるはずなのに、すごいグリップ力があるんだけど」
お気づきになりましたか。
私はニヤリと笑った。
「ふふふ。先輩の靴底、改造しておきました」
「えっ!?」
「靴の裏に、私が培養した**『変形菌由来のバイオ粘着シート』を貼り付けてあるんです」
「な、なにそれ怖い!」
「粘菌は、壁や天井を這い回るために強力な粘着力を持っています。その構造を模倣したシートです。これにより、摩擦係数は通常のゴム底の3倍! 雪道でも氷の上でも、絶対に『滑りません』**!」
受験生にとって、「滑る」は禁句。
物理的に滑らなければ、試験でも滑らない。それが私の科学的願掛けだ。
「……すごい。地面に吸い付くようだ」
先輩が足踏みをする。
「これなら、どんな難問でも踏ん張れそうだね」
「はい。絶対に転ばせませんから」
やがて、小さな社に到着した。
古びて苔むした鳥居。
しめ縄には、紙垂と一緒に乾燥したキノコがぶら下がっている。
二礼、二拍手、一礼。
私たちは並んで手を合わせた。
(神様、菌様。どうかこの宿主に、あと少しの粘り強さと、爆発的な発芽力を与えてください。)
長い祈りを終えて目を開けると、先輩も真剣な顔で祈っていた。
その横顔を見つめる。
冷たい風に鼻先を赤くしているけれど、その瞳には強い光が宿っている。
大丈夫。先輩は強い。
「……よし」
先輩が息を吐き、私の方を向いた。
「お願いしてきたよ。……『最後まで走りきれますように』って」
「叶いますよ。私が憑いてますから」
「守護霊みたいに言わないでよ」
先輩が笑う。
そして、私はポケットから、最後のアイテムを取り出した。
「先輩、これ」
手渡したのは、麻紐で結ばれた、茶色くて硬い、扇状の物体。
ずっしりと重い。
「……これは?」
「お守りです」
「……キノコだよね? 木みたいに硬いけど」
「**『サルノコシカケ』**です」
私はその効能を力説した。
「サルノコシカケは、枯れ木にガッチリと張り付き、大人が乗ってもビクともしません。木が腐って倒れても、自分だけはしがみつき続ける。つまり**『絶対に落ちない』**最強のキノコなんです!」
普通のお守りなら「学業成就」とか刺繍してあるけれど、私が渡すのは「実物」だ。
その物理的な硬さと重みこそが、リアリティのある御利益なのだ。
「……落ちない、か」
先輩は、ゴツゴツしたサルノコシカケを指でなぞった。
「重いな……」
「愛の重さです。カバンにつけてください」
「カバンが壊れそうだけど……うん、つけるよ」
先輩は、その奇妙なお守りを、ダウンジャケットのポケットに大事そうにしまった。
「ありがとう、菌田さん。……滑らない靴と、落ちないキノコ。最強の装備だよ」
◇
帰り道。
日付が変わり、新しい年が始まった。
遠くの空で、除夜の鐘が鳴り止み、微かに初日の出の予感が漂い始める。
寒い。
吐く息が真っ白だ。
でも、先輩と歩くこの道は、不思議と寒くなかった。
「……いよいよだね」
先輩が呟く。
「はい。共通テストまで、あと2週間です」
「怖いけど……なんか、楽しみでもあるんだ」
「楽しみ?」
「うん。君がこれだけ準備してくれたんだから、僕の体の中には今、最強の抗体と菌糸が育ってるはずだからね。それを試してみたい」
先輩が私の肩をポンと叩いた。
「帰ったら、ラストスパートかけるよ。」
その言葉に、私は武者震いした。
私の宿主は、完全に覚醒したようだ。
もう、私が守らなくても大丈夫かもしれない。
いや、最後まで油断は禁物だ。
「もちろんです! 最後まで、菌糸の先まで見届けます!」
私たちは夜明け前の道を歩き出した。
先輩の足取りは、粘菌シートのおかげで力強く、一歩一歩、地面を噛み締めていた。
冬の寒さは厳しい。
でも、土の下では、春の準備が着々と進んでいる。
私たちの「共生関係」が結実するその日まで、あと少し。
恋の胞子は、極寒の空の下でも、熱く、静かに燃えていた。




