第19話:先輩はきのこ中毒、崖っぷちの菌床栽培
11月。
木枯らしが吹き、街行く人々がコートの襟を立てる季節。
受験生にとっては、最後の追い込みに向けた正念場であり、精神が最も不安定になりやすい「魔の11月」だ。
しかし、私の宿主である神木先輩の様子が、どうもおかしい。
いや、「おかしい」のレベルを超えている。
生物学的に言うなら、**「常在菌のバランス崩壊」あるいは「特定物質への重度依存」**だ。
放課後の図書室。
私は、書架の隙間から先輩を観察していた。
先輩は机に向かい、過去問を開いている。ここまではいい。受験生の鑑だ。
しかし、彼の手元にあるのはシャーペンではない。
**「ベニテングタケのストラップ」**だ。
先輩は、右手でストラップを握りしめ、親指でその赤いカサの部分をひたすら撫で回している。
クリクリ、クリクリ……。
その目は虚ろで、口元には不気味な薄ら笑いが浮かんでいる。
「……よし。……キノコだ。……いい手触りだ……」
独り言が漏れている。
そして、難問にぶつかると、彼はあろうことかストラップの匂いをスーハーと深呼吸して嗅ぎ始めた。
「……あぁ……菌田さんの……カバンの匂いがする……」
ゾッ。
私の背筋に悪寒が走った。
あの爽やかで常識人だった神木先輩が、完全に**「アッチ側」に行ってしまっている。
これは、私が望んだ「共生」ではない。
これは……「感染症」**だ。
◇
事態の深刻さに気づいた私は、先輩を生物準備室へと緊急搬送した。
鍵を閉め、先輩をパイプ椅子に座らせる。
「先輩。正直に答えてください。今、頭の中で何を考えていましたか?」
「え? ……数学の確率の問題だけど」
「嘘です。確率の計算をしている人間が、あんなにウットリとした顔でストラップを愛でるわけがありません!」
私が机をバン!と叩くと、先輩はビクッとして、視線を泳がせた。
「……ごめん。正直に言うと……菌田さんのことを考えてた」
「私? 受験勉強中ですよ?」
「うん。でも、ダメなんだ」
先輩が頭を抱えた。
「最近、英単語を見ても、数式を見ても、全部君の顔とか、君が作った変な料理とか、君が語ってた粘菌の話とかに変換されちゃうんだ」
「はい?」
「例えば、『Integrate(統合する)』って単語を見ると、『あ、菌田さんが言ってた菌糸の融合のことかな』って思うし、日本史で『墾田永年私財法』が出ると『菌田永年私財法……つまり菌田さんを永遠に僕のものにする法律?』とか考えちゃって……」
「……」
私は絶句した。
思考回路が完全に汚染されている。
受験のプレッシャーから逃れるために、脳が勝手に「最もインパクトの強い記憶(私)」に現実逃避し、快楽物質を出しているのだ。
「それにね、禁断症状が出るんだ」
先輩がガサゴソとカバンを探り、以前私が差し入れた「黒トリュフ弁当」の空き箱を取り出した。
「勉強に行き詰まると、この弁当箱の残り香を嗅がないと手が震えてくるんだ。……土臭い匂いを嗅ぐと、脳がシャキッとするっていうか……」
「先輩! それは完全に**『菌田中毒』**です!」
私は叫んだ。
「私が目指していたのは、互いに高め合う『相利共生』です! 先輩の理性を食い尽くす『寄生』じゃありません!」
「でも、しょうがないじゃん!」
先輩が逆ギレ気味に叫び返した。
「君が! 君がこの1年半、僕に胞子を浴びせ続け、変なスープを飲ませ、粘菌と踊らせた結果だろ! 今さら『普通の受験生に戻れ』なんて、体が受け付けないんだよ! 僕の細胞はもう、君の菌なしじゃ動かないんだ!」
先輩の瞳は、狂気でギラギラと輝いていた。
なんてことだ。
私は、怪物を生み出してしまったのかもしれない。
私が丹精込めて培養した結果、先輩は「光属性の秀才」から「菌類依存の変態」へと変異してしまったのだ。
◇
このままでは、先輩は受験に失敗する。
「志望動機:菌田さんが好きだから」「得意科目:キノコ雑学」では、どこの大学も受からない。
私は責任を取らなければならない。
毒をもって毒を制す。
先輩の目を覚まさせるには、さらなるショック療法しかない。
「わかりました、先輩。そこまで言うなら、望み通りにしてあげます」
「えっ、本当!? じゃあ、今日の夜食は『ヤコウタケの光るうどん』を作ってくれる!?」
先輩が目を輝かせる。
「いいえ。……**『断菌療法』**を行います」
「だ、断菌……?」
私は宣言した。
「今日から受験が終わるまで、私との接触を一切禁止します! 胞子の供給をストップし、先輩の脳を強制的にリセットします!」
「なっ……!?」
先輩が絶望の表情を浮かべる。
「そ、そんな! 殺す気か! 干からびて死んじゃうよ!」
「死にません! 人間には恒常性があります! 私がいなくても生きられる体に戻るんです!」
私は先輩を理科室から追い出し、鍵をかけた。
「開けて! 開けてよ菌田さん! ひと目だけでいいから! せめて君の培養したカビのシャーレだけでも見せてくれぇぇぇ!」
ドアを叩く先輩の悲痛な叫び。
私は心を鬼にして、耳を塞いだ。
ごめんなさい、先輩。これも愛なんです。
貴方を立派な大学生にするための、愛の隔離なんです。
◇
それから3日間。
地獄のような日々が続いた。
先輩は、学校でも私の姿を探して彷徨っているらしい。
私は先輩に見つからないよう、ロッカーや天井裏を移動し、徹底的に姿を隠した。
LINEもブロックはしないが、既読スルーを貫いた。
先輩からは『禁断症状で手が震える』『幻覚で教科書の徳川家康がエリンギに見える』といった末期的なメッセージが届き続けた。
そして4日目の放課後。
私は、こっそりと様子を見に行った。
図書室の隅。
先輩は……廃人のようになっていた。
机に突っ伏し、ピクリとも動かない。
その周りには、参考書が散乱している。
顔色は青白く、生気がない。
完全に「栄養失調」の状態だ。
「……先輩」
私は思わず駆け寄った。
「先輩! 生きてますか!?」
先輩がゆっくりと顔を上げる。
その目は落ち窪み、焦点が合っていない。
「……あ、幻覚だ……。菌田さんの幻覚が見える……」
先輩がへらりと笑い、虚空に手を伸ばす。
「可愛いなぁ……。胞子、飛ばしてよ……」
「先輩!!」
私は先輩の頬をバチン!と両手で挟んだ。
「現実です! 本物です!」
「……え? ……痛い。……本物?」
先輩の目に、徐々に光が戻ってくる。
「菌田さん……? 本当に、菌田さん?」
「はい。……ごめんなさい。やりすぎました」
私は反省した。
急激な環境変化は、生物にとって致命的なストレスになる。
いきなり供給を断つのではなく、徐々に減らすべきだったのだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……ううん、ダメみたい」
先輩が弱々しく首を振る。
「君がいないと、世界から色が消えたみたいで……。勉強どころか、息をするのも面倒くさくて」
先輩が私の袖を掴んだ。
「ねえ、菌田さん。僕、もう大学とかどうでもいいよ。君の専属助手として、一生培養棚の掃除をして暮らしたい……」
ダメだ。
完全に腐りかけている。
このままでは、先輩は社会的に死んでしまう。
私は深呼吸をした。
こうなったら、最後の手段だ。
毒を消すには、より強い毒を与えるしかない。
「……わかりました。先輩、目をつぶってください」
「え? 何? キノコくれるの?」
「いいから」
先輩が素直に目を閉じる。
私はポケットから、小瓶を取り出した。
中に入っているのは、私が抽出した**『超高濃度・ワサビタケのエキス』**だ。
それを指先に少しつけ、先輩の鼻の下に塗った。
「……え、なに? 冷た……」
ツゥゥゥゥーン!!!!!
「ぐわああああああああ!!!」
先輩が飛び上がった。
「痛い! 鼻が! 目が! 脳が焼けるぅぅぅ!!」
強烈な揮発性刺激臭が、鼻腔を突き抜け、脳天を直撃する。
涙と鼻水が止まらない。
先輩はのたうち回りながら、激しく咳き込んだ。
「ど、毒ガス!? 何したの!?」
「ワサビタケの刺激で、脳の受容体を強制リセットしました!」
私はハンカチを差し出した。
「どうですか? 私のことしか考えられない『中毒脳』は、吹き飛びましたか?」
「ふ、吹き飛んだよ! それどころじゃないよ! 痛いよバカ!」
先輩は涙目で私を睨んだ。
でも、その目には、さっきまでの濁った依存の色はなく、いつもの「ツッコミ待ちの先輩」の理性が戻っていた。
「はぁ、はぁ……。ひどい目にあった……」
先輩が鼻を赤くして落ち着きを取り戻す。
「……でも、なんか霧が晴れたみたいだ。君の幻覚も見えなくなった」
「よかったです。……先輩、約束してください」
私は先輩の手を取った。
「私はどこにも行きません。逃げません。だから、私に逃げ込むのはやめてください」
「……」
「勉強してください。合格してください。そうしたら、いくらでも私の変な実験に付き合っていただきますから。ご褒美として、毎日『日替わりキノコ定食』を作ってあげますから!」
先輩は、私の真剣な目を見て、しばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「……わかったよ。日替わりキノコ定食か……。胃が荒れそうだけど、それを楽しみに頑張るよ」
先輩はカバンから参考書を取り出し、机に広げた。
その手つきは、少し震えていたけれど、もう迷いはなかった。
「菌田さん」
「はい」
「とりあえず、今日のご褒美として……その、手、握っててくれない?」
「……中毒の離脱症状ですね。仕方ありません」
私は先輩の左手を、両手でギュッと包み込んだ。
先輩は右手でシャーペンを握り、猛烈な勢いで問題を解き始めた。
時折、私の手の感触を確かめるように握り返してくる。
図書室の窓の外、木枯らしが吹いている。
でも、ここだけは温かい。
先輩の「きのこ依存症」は完全には治っていないかもしれない。
でも、それをエネルギーに変えて走れるなら、それもまた一つの「共生」の形なのかもしれない。
「……絶対合格してやる。そして君を一生、僕の専属料理人にするんだ……」
「料理人はお断りですが、研究パートナーなら考えておきます」
先輩の独り言に、私は小さく笑って答えた。
受験の冬はこれからが本番だ。
私の宿主は、少々手のかかる困った人だけれど、その生命力は誰にも負けないはずだ。




