第18話:修学旅行、沖縄からの遠隔胞子!
10月。
秋風が吹き始め、キノコ狩りのベストシーズンが到来した東京を離れ、私――菌田きのこは、南の島にいた。
沖縄。
コバルトブルーの海。突き抜けるような青空。そして、容赦なく降り注ぐ強烈な紫外線。
2年生の修学旅行だ。
クラスメイトたちは「海だー!」「映えるー!」と歓声を上げ、ビーチで写真を撮りまくっている。
まさに青春の光景。
しかし、私は日陰のヤシの木の下で、膝を抱えてうずくまっていた。
「……眩しい。……乾く」
私の肌はジリジリと焼かれ、体内の水分が蒸発していくのを感じる。
菌類にとって、直射日光と乾燥は最大の敵だ。
ここは私の生育環境ではない。
そして何より――。
ポケットからスマホを取り出す。
画面に映る「神木先輩」のアイコン。
メッセージを送ろうとして、指が止まる。
『今、何してますか?』
『私は今、干物になりそうです』
……送れない。
先輩は今頃、東京の予備校で必死に勉強しているはずだ。
私たちが南国で浮かれている間も、彼は孤独な戦いを続けている。
そんな先輩に、能天気な修学旅行の報告なんて送っていいのだろうか。邪魔になるだけじゃないか。
東京と沖縄。距離にして約1,500キロメートル。
菌糸が、届かない。
いつもなら廊下を走れば会える距離にいた「宿主」が、今は物理的に断絶されている。
「……先輩不足で、細胞壁が崩壊しそう……」
私は帽子を目深に被り直し、深い溜息をついた。
いつもは先輩を励ます立場の私が、この旅行中、驚くほど無口で、弱っていた。
◇
自由行動の時間。
私は一人で「国際通り」を彷徨っていた。
本来なら、沖縄特有の亜熱帯性キノコを探して山へ入りたいところだが、集団行動の規律により街中の散策を余儀なくされていた。
土産物屋には、色鮮やかなシーサーや、ちんすこう、紅芋タルトが並んでいる。
どれも先輩へのお土産候補だ。
でも、手が伸びない。
「……先輩、甘いもの食べると眠くなるって言ってたし」
「シーサーは……『魔除け』にはなるけど、机に置くには邪魔か」
何を手に取っても、ネガティブな思考が頭をもたげる。
いつもなら「嫌がらせに近いお土産」を喜んで送りつける私が、なぜか「先輩の負担になりたくない」と臆病になっている。
ふと、ガラスのショーケースに目が止まった。
『星の砂』の小瓶だ。
星の形をした、小さな砂粒。
カップルがお揃いで買っていく定番アイテム。
「……これ、有孔虫の死骸なんだよな」
私は小瓶を手に取った。
美しい星の形をしているけれど、それはかつて生きていた微生物の抜け殻。
今の私みたいだ。
中身がなくて、ただの殻になって漂っている。
「菌田ちゃん、元気ないね?」
同じ班の女子が心配そうに声をかけてきた。
「熱中症? アイス食べる?」
「……いいえ。ただの……『移植ショック』です」
「いしょく?」
「根っこを切られて、別の土地に植え替えられた植物が、うまく根付かずに枯れていく現象です……」
「相変わらず難しいこと言うねぇ」
苦笑いして去っていった。
私は『星の砂』を棚に戻した。
こんな死骸を贈っても、先輩の栄養にはならない。
結局、私は何も買えないまま、集合場所のホテルへと戻った。
◇
夜。
リゾートホテルのベランダ。
部屋では班員たちがトランプや恋バナで盛り上がっているが、私は一人、夜風に当たっていた。
波の音が聞こえる。
空には満天の星。
東京では見られない、美しすぎる夜景。
それが余計に、私の孤独感を煽る。
「……綺麗すぎて、落ち着かない」
私は手すりに頬杖をついた。
私が好きなのは、ジメジメとした暗がりと、腐葉土の匂い。
こんな開放的でキラキラした世界は、私の居場所じゃない。
隣に、先輩がいない。
その事実が、ボディブローのように効いてくる。
「……私、こんなに弱かったっけ」
自嘲気味に呟く。
いつも先輩に「しっかりしてください!」「根性を出してください!」と偉そうに説教していたくせに。
いざ自分が離れてみると、一歩も動けなくなるなんて。
結局、私は先輩という大樹に寄生して、養分を吸っていただけのアマチュア菌類だったのだ。
時刻は午後9時。
先輩は、もう予備校から帰っただろうか。
それともまだ、机に向かっているだろうか。
迷った末に、私は通話ボタンを押した。
『プルルルル……』
コール音が、やけに長く感じる。
出ないかもしれない。忙しいかもしれない。
『……もしもし?』
スピーカーから、聞き慣れた声がした。
少し枯れた、でも優しい声。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた菌糸が、プツンと切れた気がした。
「……あ、先輩」
声が震えた。自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
『菌田さん? どうしたの、こんな時間に。修学旅行中でしょ?』
「……はい。今、沖縄です」
『いいなぁ。そっちは暖かい?』
「……暑いです。紫外線が強すぎて、細胞が死滅しそうです」
いつもなら、ここで軽口を叩き合うはずだ。
でも、言葉が続かない。
沈黙が流れる。波の音だけが、電話越しに伝わっていく。
『……菌田さん?』
先輩が、心配そうに呼びかけた。
『なんか、元気ないね。何かあった?』
「……いえ。何もないんです」
私は唇を噛んだ。
「海も綺麗だし、ご飯も美味しいし、みんな楽しそうです。……でも、私はダメみたいです」
『ダメって?』
「……お土産、選べなかったんです」
ポロリと、本音がこぼれた。
「お店にはたくさん物が並んでいるのに、どれを見ても、先輩の役に立つ気がしなくて。……私、いつも変なものばかり押し付けて、先輩を困らせてましたよね」
思考がネガティブな深淵へと沈んでいく。
「離れてみて、わかりました。私は先輩に『栄養』を与えているつもりで、実は先輩から『元気』をもらっていただけだったんです。……私一人じゃ、何も面白くないんです」
涙が滲んできた。
こんな湿っぽい電話、先輩の邪魔にしかならない。
「……ごめんなさい。勉強の邪魔しました。切りますね」
そう言って、通話を切ろうとした時。
『待って!!』
先輩の大きな声が響いた。
私は驚いて、スマホを耳に押し当て直した。
『切らないで。……僕の方こそ、話したかったんだ』
「……え?」
『こっちはさ、毎日毎日、単語帳と赤本とにらめっこだよ。天気なんて気にする余裕もない。……正直、息が詰まりそうだった』
先輩の声が、少し笑ったように聞こえた。
『でも、今、君の声を聞いたら……なんか、深呼吸できた気がする』
「……先輩」
『お土産なんて、何でもいいんだよ。君が選んでくれたなら、その辺の石ころでも、変な乾燥した草でも、僕にとっては「栄養」だから』
先輩の言葉が、優しく染み込んでくる。
『君がいない学校は、静かすぎて調子狂うよ。……早く帰ってきて、また変な実験の話、聞かせてくれないかな』
ああ。
そうか。
これは「共生」なんだ。
私が先輩を必要としているように、先輩も私を必要としてくれている。
離れていても、菌糸は切れていなかった。
電話という細い回線を通じて、私たちは栄養(言葉)を交換し合っている。
涙が頬を伝って落ちた。
でも、それは寂しさの涙ではなく、乾いた土壌に染み込む恵みの雨だった。
「……先輩」
『ん?』
「私、見つけます。石ころじゃなくて、もっと先輩の度肝を抜くような、最高にエネルギッシュな『菌』を見つけて帰ります!」
私の声に、いつもの張りが戻った。
先輩が笑った気配がする。
『あはは。それは楽しみだ。……でも、生ものと危険物は勘弁してね?』
「善処します! ……あの、先輩」
『なに?』
「……会いたいです」
言ってしまった。
素直な、ただの女子高生みたいな言葉。
一瞬の沈黙の後、先輩が照れくさそうに呟いた。
『……僕もだよ。気をつけて帰っておいで』
通話が切れた。
私はスマホを胸に抱きしめ、夜空を見上げた。
さっきまで冷たく見えた星空が、今は微生物のコロニーのように賑やかで、温かく見えた。
◇
翌日。
私は復活した。
昨日の「萎れキノコ」状態が嘘のように、朝から元気いっぱいに活動を開始した。
「みんな! 自由行動は『牧志公設市場』に行きます!」
「えっ、おしゃれカフェじゃないの!?」
「カフェなんて軟弱! 市場の奥地にある乾物屋こそが聖地なの!」
私は班員たちを引き連れ、市場のディープなエリアへと突撃した。
そして見つけたのだ。運命の出会いを。
乾物屋の店先のカゴに積まれていた、黒くて平べったい物体。
『乾燥きくらげ』。
さらに、隣の薬局で見つけた**『ウコン』**の根っこ。
「これよ……! この生命力溢れるフォルム、土の匂い!」
私は特大のきくらげを手に取り、高らかに叫んだ。
「きくらげは血液浄化と保湿効果! ウコンは肝機能強化と疲労回復! 受験生の疲れた体を癒やす、最強のコンビネーションよ!」
「……菌田ちゃん、それをお土産にするの?」
班員が引いている。
「もちろん! これ以上の愛の表現がある?」
「まあ、菌田ちゃんらしいけど……彼氏さん(?)が可哀想な気も……」
私は迷わず購入した。
ついでに、星の砂も買った。
ただし、普通の星の砂ではない。有孔虫の骨格標本として、顕微鏡で観察するための「研究用」としてだ。
◇
帰りの飛行機。
窓の外には、雲海が広がっている。
私のリュックには、乾物屋の独特な匂いを放つお土産が詰まっている。
寂しさは、もうない。
むしろ、早く先輩に会いたくてたまらない。
この巨大なきくらげを渡した時、先輩はどんな顔をするだろう。
「うわ、何これ!?」って驚いて、それから「ありがとう」って笑ってくれるはずだ。
離れたことで、わかったことがある。
キノコは、適度な湿気がないと生きていけない。
私にとっての湿気は、先輩という存在そのものだったのだ。
「……待っていてください、先輩」
私は雲の下にある東京に向かって呟いた。
「南国の太陽を浴びて、少し乾燥になりましたが、旨味成分は凝縮されましたよ」
私の恋の胞子は、海を越えて飛んでいく。
帰ったら、すぐに予備校へ行こう。
不法侵入にならないギリギリのラインで、この愛を届けに行こう。
旅の終わりは、新たな培養の始まりだ。
私たちの共生関係は、距離という試練を乗り越え、より強靭な菌糸束へと進化したのだった。




