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第17話:台風直撃! 帰れない夜の避難訓練

9月下旬。

 夏の名残の暑さが去り、空気が入れ替わるこの季節は、大気が不安定になりやすい。

 大型で非常に強い台風12号が、関東地方に接近していた。

 午後5時。

 空はすでに重たい鉛色の雲に覆われ、時折、窓ガラスを叩きつけるような激しい雨音が校舎内に響き渡っていた。

 多くの生徒は午前中で授業が打ち切られ、早々に帰宅していたが、一部の受験生たちは「一分一秒も惜しい」と、学校の自習室に残って勉強を続けていた。

 神木かみき先輩もその一人だ。

 私――菌田きんだきのこは、生物準備室で培養棚の固定を終え、自習室へと向かった。

 私の野生の勘が告げている。

 この嵐は、ただ事ではない。気圧の急激な低下を感じる。

「先輩、そろそろ撤収しましょう。風向きが変わりました。これ以上は危険です」

 自習室の扉を開けると、そこには数人の生徒と、窓際で参考書にかじりつく先輩の姿があった。

 先輩は、私の声に顔を上げたが、その表情は険しかった。

「……菌田さんか。ごめん、キリのいいところまでやりたくて。この長文問題が終わったら……」

 その時だった。

 ドォォォォォン!!

 遠くで雷鳴が轟き、校舎が微かに揺れた。

 同時に、校内放送が緊急音を響かせる。

『生徒の皆さんに連絡します。現在、強風の影響により、電車が全線で運転を見合わせています。復旧の目処は立っていません。校内に残っている生徒は、無理に帰宅せず、安全な教室で待機してください』

「……あ」

 先輩が呆然と窓の外を見る。

 横殴りの雨が、白い壁のように視界を遮っている。木々は折れんばかりにしなり、看板が飛んでいくのが見えた。

「止まっちゃった……。帰れない……」

「想定内です。先輩、ここは窓が大きすぎて危険です。私の城へ移動しましょう。あそこなら食料も寝床も、暖を取る手段もあります」

 私はテキパキと先輩の荷物をまとめた。

「え、菌田さん? 手際良すぎない?」

「サバイバルは準備が9割です。さあ、私の背中についてきてください!」

          ◇

 生物準備室。

 理科棟の奥にあるこの部屋は、私の私物化により、シェルターのような機能を備えていた。

 窓には目張りがされ、風の音も少し遠く感じる。

「ふぅ……。とりあえず、ここは安全だね」

 先輩がパイプ椅子に座り、安堵の息をつく。

 しかし、その顔色は優れない。

 スマホを見つめ、「予備校の授業、休んじゃったな……」「この遅れ、どうやって取り戻そう……」とブツブツ呟いている。

 外の嵐の音が、先輩の心の不安と共鳴しているようだ。

 バチンッ!!

 突然、鋭い音がして、部屋の照明が落ちた。

 真っ暗闇。

 換気扇の回る音も、冷蔵庫の唸りも消えた。

 停電だ。

「うわっ!? き、消えた!?」

 暗闇恐怖症の気がある先輩の、怯えた声が響く。

「先輩、動かないで。怪我をします」

 私は冷静に声をかけた。

「スマホのライトを……あ、充電がない! 予備バッテリーも使い切っちゃった!」

 先輩がパニックになっている。

 完全な闇。

 ゴォォォォ……という風の音だけが、獣の咆哮のように聞こえてくる。

 この状況は、精神的に脆くなっている受験生には毒だ。

「大丈夫です。光なら、ここにあります」

 私は部屋の隅にある、黒い布をかけた棚へと歩み寄った。

 そして、布をバサリと取り払った。

 ボワァ……。

 闇の中に、柔らかな緑色の光が浮かび上がった。

 LEDのような刺すような光ではない。

 蛍の光よりも深く、静かで、幻想的なエメラルドグリーン。

「……え?」

 先輩が息を呑む気配がした。

「綺麗……。これ、何?」

「**『ヤコウタケ(夜光茸)』**です」

 棚に並んだガラス瓶の中で、小さな白い傘を持つキノコたちが、自ら光を放っている。

 第1期の林間学校では、私が体に塗りたくって怪物扱いされたあの光だが、本来の姿はこんなにも美しい「森の宝石」なのだ。

「ルシフェリンという発光物質が、酵素と反応して光っています。熱を持たない『冷光』です。……どうですか? 少しは落ち着きましたか?」

 私が瓶を一つ、机の上に置くと、先輩の顔が緑色に照らし出された。

 その瞳が、光るキノコに釘付けになっている。

「……すごい。本当に、宝石みたいだ」

 先輩の肩から力が抜けた。

「人工的な光じゃないからかな。なんか、見てるとホッとするよ」

「よかった。……お腹、空きましたよね。何か温かいものを作りましょう」

 私は防災リュックからカセットコンロを取り出し、火をつけた。

 青い炎が揺らめく。

 小鍋に水を張り、乾燥させておいたスライス椎茸、乾燥野菜、そして春雨を入れる。

 味付けは、鶏ガラスープの素と塩胡椒。シンプルだが、冷えた体には一番のご馳走だ。

「はい、どうぞ。『キノコと春雨のサバイバルスープ』です」

 マグカップを渡すと、先輩は両手で包み込むようにして受け取った。

「ありがとう……。いただきます」

 ズズッ。

 スープを啜る音。

 シイタケの出汁の香りが、部屋に充満する。

「……ん。美味しい。……あったかい」

 先輩の声が、少し震えていた。

          ◇

 食事を終えると、再び静寂が戻ってきた。

 外の風雨はまだ激しく、校舎を揺らしている。

 ヤコウタケの淡い光だけが、私たちを包んでいる。

「……ねえ、菌田さん」

 先輩が、膝を抱えたまま口を開いた。

「はい」

「僕……怖いんだ」

 いつもなら「お化けが?」と茶化すところだが、今の先輩の声色は違っていた。

 もっと根源的な、深い恐怖。

「台風が、じゃないよ。……受験が」

 先輩が俯く。

「夏休み、必死にやったつもりだった。でも、先週の模試の手応え、最悪でさ。……やってもやっても、前に進んでる気がしないんだ」

「……」

「もし、どこにも受からなかったら。もし、僕に才能なんてなくて、ただ時間を無駄にしてるだけだったら……そう思うと、夜も眠れなくて」

 先輩の声が震えている。

 これが、受験生の孤独。

 誰にも言えなかった本音。

 明るく振る舞っていた先輩の、心のダムが決壊した瞬間だった。

「僕なんて、何者でもない空っぽの人間なんじゃないかって……」

 先輩の目から、雫が落ちた。

 普段は私の奇行にツッコミを入れ、優しく笑ってくれる先輩。

 そんな彼が今、暗闇の中で小さく震えている。

 私は、自分の椅子を動かし、先輩の隣に座った。

 そして、そっと先輩の手を握った。

「先輩。キノコを知っていますか?」

「え……?」

「キノコは、森の中で一番弱い生き物に見えます。木のように大きくもなく、動物のように走って逃げることもできない。踏めばすぐに潰れてしまう」

 私は、ヤコウタケの光を見つめながら語りかけた。

「でも、彼らは最強なんです。彼らは『行き止まり』を知りません」

「……行き止まり?」

「はい。菌糸は土の中で、360度あらゆる方向に伸びていきます。もし、目の前に石があって進めなくても、彼らは悩みません。横へ、下へ、あるいは上へと、迂回して新しいルートを探すだけです」

 私は先輩の手を、強く握りしめた。

「一本の道が閉ざされたからといって、それで終わりじゃないんです。腐った木があれば、それを分解して養分にする。山火事で森が焼けても、一番最初に芽を出すのは菌類です」

「菌田さん……」

「先輩は空っぽなんかじゃありません。この半年間、私が与えた数々の試練を乗り越え、私のカオスな趣味を受け入れてくれた。そんな柔軟で、強靭な『菌糸』を持った人間は、世界中どこを探しても先輩だけです」

 私は先輩の目を見て、きっぱりと言った。

「もし受験に失敗しても、人生は終わりません。私が保証します。先輩なら、どんな場所でも、どんな土壌でも、必ず自分だけの『子実体はな』を咲かせることができます」

 ヤコウタケの光に照らされた私の顔は、いつものような狂気じみた笑顔ではなかったと思う。

 ただ、真剣に、大好きな人を信じる目をしていただろう。

 先輩は、しばらく私の顔を見つめていた。

 やがて、その目から涙が溢れ出し、止まらなくなった。

「……う……うぅ……」

 先輩は子供のように泣いた。

 私は何も言わず、ただその手を握り続け、もう片方の手で先輩の背中をゆっくりとさすった。

 外の嵐はまだ続いている。

 でも、この小さな部屋の中だけは、温かいシェルターだった。

 先輩の涙が、不安という毒素を洗い流していくようだった。

          ◇

 どれくらい時間が経っただろうか。

 泣き疲れた先輩は、いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていた。

 私は毛布を先輩の肩に掛け、その寝顔を覗き込んだ。

 泣き腫らした目は少し赤いけれど、その表情は安らかだった。

 ヤコウタケの光が、寝顔を優しく照らしている。

「……お疲れ様です、私の宿主さん」

 私は先輩の髪をそっと撫でた。

 サラサラとした髪の感触。

 いつもは私が追いかけ回してばかりだけど、今日はこうして守ってあげることができた。

 私も眠気が襲ってきた。

 先輩の隣に頭を預け、目を閉じる。

 先輩の規則正しい寝息と、外の雨音が子守唄のように聞こえる。

 暗闇は、もう怖くない。

 隣に先輩がいる。それだけで、ここは世界で一番安全な場所だ。

          ◇

 チュン、チュン……。

 鳥の声で目が覚めた。

 目を開けると、窓の目張りの隙間から、眩しいほどの朝日が差し込んでいた。

 嵐は去ったのだ。

「……ん……」

 隣で先輩が身じろぎした。

 先輩も目を覚まし、眩しそうに目を細める。

「……あ、朝だ……」

「おはようございます、先輩。生還しましたね」

 先輩は伸びをして、それから私の顔を見て、少し顔を赤くした。

「……なんか、昨日はごめん。かっこ悪いとこ見せちゃって」

「いいえ。弱った姿も、観察対象としては魅力的でしたよ」

 私が茶化すと、先輩は「もう、君には敵わないな」と笑った。

 窓を開ける。

 台風一過の青空が広がっていた。

 洗われたばかりの空気は澄んでいて、濡れた木々の緑が鮮やかに輝いている。

 地面には、折れた枝や落ち葉が散乱しているが、そこからは強い土の匂いが立ち上っていた。

「見てください先輩。嵐の後こそ、森は豊かになるんです」

「うん……そうだね」

 先輩は深く深呼吸をした。

「……なんか、スッキリした。悩んでたのが嘘みたいだ」

 先輩の横顔は、昨日の暗い表情とは別人のように晴れやかだった。

「ありがとう、菌田さん。……君がいてくれてよかった」

 その言葉に、私は胸がいっぱいになった。

 どんな薬用キノコよりも、その言葉が一番の特効薬だ。

「さあ、帰りましょうか。電車もそろそろ動くはずです」

「そうだね。帰ってシャワー浴びて……勉強し直さなきゃ」

 先輩の目には、もう迷いはなかった。

 私たちは生物準備室を後にした。

 机の上には、役目を終えたヤコウタケが、朝日に照らされて静かに佇んでいた。

 その光はもう見えないけれど、昨日の夜、確かに私たちの心を繋いでくれた希望の光だった。

 廊下を歩く二人の影が、朝日に長く伸びている。

 台風が過ぎ去り、季節はまた一つ進む。

 秋が深まり、受験本番が近づいてくる。

 でも、もう大丈夫。

 どんな暗闇が訪れても、私が一緒なら、心の灯りは消えない。

 私は先輩の袖を少しだけ掴んだ。

 先輩は何も言わず、歩幅を合わせてくれた。

 私たちの共生関係は、嵐を越えて、より強固なものに進化したようだ。

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